教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 9月20日

空の日

 

「空の日」の起源は、1940(昭和15)年に制定された「航空日」に遡ります。

 

国土交通省航空局」HPより引用します。

 この年(引用者注:1940年)は、日野・徳川両陸軍大尉が代々木練兵場にて我が国で最初の動力飛行を披露した明治43年(1910年)からちょうど30周年に当たるとともに、紀元2600年の祝典諸行事の計画が国を挙げて進められていた時期でもありました。このような時に、我が国航空の歴史を記念し航空思想の高揚と航空技術の振興を図り、航空日本の将来の発展に努めるための国家的行事を実施すべきとの意向が航空関係者の間で強く要望されました。そこで、政府は、同年6月13日の各省次官会議において「航空日」の制定を決定し、毎年1回官民合同の各種航空関連行事を開催することにしました。

 第1回の「航空日」は同年9月28日と決定され、学校、民間団体、新聞通信社等の挙国一致的協力の下、航空大会、グライダー大会、航空功労者表彰式、講演会、論文募集、標語募集、展覧会、演劇、演奏会等様々な行事が実施されました。第2回の「航空日」は航空関係省庁間協議において、9月20日と決定され、平成4年には「空の日」と名を変え、現在では9月20日として定着しているところです。

 

「日野・徳川両陸軍大尉が代々木練兵場にて我が国で最初の動力飛行を披露した」のは、1910(明治43)年12月19日のことでした。記念日が「9月20日」である根拠にはなりません。

第2回の「航空日」は航空関係省庁間協議において、9月20日と決定され」たこと

が、「空の日」が9月20日である唯一の根拠であるようです。

 

国土交通省航空局」HPより「なぜ9月20日なの?」の全文を紹介します。

「空の日」の起源は、昭和15年に制定された「航空日」が始まりです。
この年の「航空日」は9月28日に行われましたが、昭和16年の航空関係省庁間協議において9月20日と決定されました。第2次大戦終戦に伴う一時休止もありましたが、昭和28年に再開され、民間航空再開40周年にあたった平成4年に、国民の皆さんにとってより親しみやすいネーミングということで、それまでの「航空日」から「空の日」へ改称するとともに「空の旬間」(9月20日から30日)が設けられ、現在に至っています。

 

詳細

 「空の日」の起源は今から約60年前の昭和15年(1940年)に制定された「航空日」に遡ります。

 この年は、日野・徳川両陸軍大尉が代々木練兵場にて我が国で最初の動力飛行を披露した明治43年(1910年)からちょうど30周年に当たるとともに、紀元2600年の祝典諸行事の計画が国を挙げて進められていた時期でもありました。このような時に、我が国航空の歴史を記念し航空思想の高揚と航空技術の振興を図り、航空日本の将来の発展に努めるための国家的行事を実施すべきとの意向が航空関係者の間で強く要望されました。そこで、政府は、同年6月13日の各省次官会議において「航空日」の制定を決定し、毎年1回官民合同の各種航空関連行事を開催することにしました。

 第1回の「航空日」は同年9月28日と決定され、学校、民間団体、新聞通信社等の挙国一致的協力の下、航空大会、グライダー大会、航空功労者表彰式、講演会、論文募集、標語募集、展覧会、演劇、演奏会等様々な行事が実施されました。第2回の「航空日」は航空関係省庁間協議において、9月20日と決定され、平成4年には「空の日」と名を変え、現在では9月20日として定着しているところです。

 「航空日」の諸行事は、第2回目以降、昭和19年まで毎年行われた後、第2次世界大戦終戦に伴い、連合軍による航空活動の禁止命令のため一時休止されましたが、昭和25年(1950年)には、航空行政権の一部が日本政府に移り、昭和27年(1952年)には、現在の航空法の原型が公布・施行されました。そして、翌年の昭和28年(1953年)8月10日の定例次官会議において、このように我が国の民間航空が再建途上の段階であることを踏まえ、航空思想の普及に努めるため、「航空日」の復活が了解されました。それを受け、内閣総理大臣を総裁とした政府関係者、民間団体や新聞通信社等の関係者が復活第1回航空日大会役員となり、羽田空港においては9月20日に保安隊機や民間機による上空飛来や曲技、グライダーのデモンストレーションや曲技、機体展示、模型飛行等が行われ、その他の会場においても展覧会、航空神社祭、航空映画祭等、復活第1回航空日大会が盛大に開催されました。

 この復活第1回「航空日」以降、「航空日」は再び多くの人々に親しまれてきたわけですが、平成4年(1992年)、民間航空再開40周年を記念すると同時に民間航空の意義と役割について広く国民の理解を得ていくこととし、国民にとってより親しみやすいソフトなネーミングをということで「空の日」に改称されました。さらに、より多くの国民に航空への理解と関心を高めていただくという趣旨で、9月20日の「空の日」とともに「空の旬間」(9月20日から30日)が設けられ、この期間には、全国各地の空港等で航空に関する様々な催し物が実施されるようになりました。

 

 

1910年の「初飛行」について、「東京とりっぷ」のHPより引用します。

日本初飛行の地(日本航空発始の碑)

 

日本におけるエンジンを使った初の動力飛行は、陸軍代々木練兵場(現・代々木公園)において明治43年12月11日〜20日に実施され、日野熊蔵大尉のグラーデ機および徳川好敏大尉のファルマン機が初飛行に成功しています。代々木公園南口近く、梅の園の一画に日本航空発始之地記念碑が立ち、日本初飛行の地だったことを表しています。


初飛行の地は、当時の代々木練兵場で現・代々木公園
日本における初の動力飛行は、明治42年7月31日に陸海軍の合同で発足した臨時軍用気球研究会が計画。
専用の飛行場がなかったため、まだ周囲に田園風景が広がる陸軍省の代々木練兵場を利用したもの。

陸軍代々木練兵場は、兵士の訓練のため、初飛行の前年、明治42年7月に衛戍監獄(えいじゅかんごく=陸軍刑務所)とともに開設されたばかりの土地でした。
ただし、飛行範囲は、事前に提出された地図からみると東京周遊というレベルではなく南北1km、東西1.2kmという狭い範囲だったことがわかります。
当時の陸軍代々木練兵場は、現在のNHK放送センターから渋谷区役所までをすっぽりと覆う広いエリアなので、飛行には支障がないと判断されたもの。


記録的には徳川好敏大尉が明治43年12月19日、初飛行

     徳川好敏大尉         日野熊蔵大尉

実際の初飛行も、12月14日の日野熊蔵大尉の場合は、正確な数字が記録されたものは「初飛行」を報じた『萬朝報』の記事の60mだけで、これすら目測のため、単なるジャンプに過ぎなかったと考える人もいるほどです。
12月19日は、記録会ということになり、先に飛んだ徳川大尉(機体を自ら購入)が初飛行ということになったのです。
記録的には、12月19日の徳川の飛行をもって「日本初飛行の日」とされています。
これには、御三卿清水徳川家の家柄の徳川大尉優先という気持ちがあったのかは定かでありません(日野大尉は、相良藩士の家柄で、日野式自動拳銃を発明するなど、当時は有名な発明家でもありました)。

使用された機体は、ドイツ製のハンス・グラーデ1909年型(Grade II Libelle/グラーデ単葉機=日野大尉が操縦)、フランス製のアンリ・ファルマン1910年型(Farman III/アンリ・ファルマン複葉機=徳川大尉が操縦)。
12月14日には日野大尉のグラーデ機が飛行に成功し、12月19日に徳川大尉のファルマン機も飛行に成功しており、2人の胸像が日本航空発始の碑の横に仲良く並んで立っています。

ちなみに、その後、墜落事故などもありましたが、大正2年の青島攻略戦で、フランスから購入したモーリス・ファルマン1912年型改(MF.7)を初めて陸軍機として実戦投入していますが、ドイツのエトリッヒ タウベと遭遇した際に、性能が違いすぎて空中戦にもならなかったと伝わっています。


徳川好敏大尉とアンリ・ファルマン複葉機(同型の機体)

TK042203TK042204

日野熊蔵大尉とグラーデ単葉機(同型の機体)