教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

人権教育のカリキュラムを創る⑦

人権教育のカリキュラムを創る

 

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって
1.人権教育の概念
 (1)人権教育とは
 (2)同和教育を人権教育として再構築する           以上①で紹介
2.人権教育の構想
 (1)同和教育が拓いた地平と残した課題
 (2)人権教育の「本体」と「土台」
 (3)普遍的アプローチと個別的アプローチ
 (4)人権教育のカリキュラム構想               以上②で紹介
第2章 「人権の基礎」について考える~「セルフエスティーム」に着目して~
1.「人権の基礎」を構成する4つの力
 (1)「人権の基礎」を構成する4つの力
 (2)「人権の基礎」を構成する4つの力の関係         以上③で紹介
2.「セルフエスティーム」について考える
 (1)「風船型」と「いがぐり型」のセルフエスティーム
 (2)「風船型」と「いがぐり型」の関係            以上④で紹介
第3章 「普遍的な視点からのアプローチ」による人権教育について考える
1.「普遍的な視点」=「人権一般」ではない
2.「普遍的な視点」について考える
 (1)普遍的な視点
 (2)ステレオタイプ、偏見、差別               以上⑤で紹介
3.「普遍的な視点」と「個別的な視点」の関係
 (1)部落問題学習でねらってきたこと
 (2)「ねらい」の普遍化
 (3)「ねらい」の個別化                   以上⑥で紹介

 

第4章 「人権を基盤に据えた総合学習」について

 

1.総合学習でめざすもの

 

この部分はいささか陳腐な感じもしますが、歴史的な記述としてお読みください。

 

 2002年度から総合的な学習の時間(以下、総合学習)が本格的に始まる。


 総合学習は、第15期中教審の「審議のまとめ」(1996年6月)において、「ゆとり」と「生きる力」を柱とする教育改革の期待の星として登場した。学習活動について、中教審は国際理解(小学校での英語学習を含む)、情報化、環境、福祉・健康といった新たな教育課題を多分に意識していたが、学習指導要領では大幅にトーンダウンし、実質的に各学校に任されていると言っていい。(注1)


 総合学習のねらいについて、学習指導要領は、「(1)自ら課題を見付け、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てること。(2)学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、自己の生き方を考えることができるようにすること。」としている。


 つまり、自学自習の力(自己学習力)を育てることが総合学習のねらいであり、学習活動の内容はそのためのフィールドに過ぎないのである。めざすものが学びの過程にあるのであるから、評価についても工夫が必要となる。教育課程審議会答申は、「この時間の趣旨、ねらい等の特質が生かされるよう、教科のように試験の成績によって数値的に評価することはせず、活動や学習の過程、報告書や作品、発表や討論などに見られる学習の状況や成果などについて、児童生徒のよい点、学習に対する意欲や態度、進歩の状況などを踏まえて適切に評価することとし、例えば指導要録の記載においては、評定は行わず、所見等を記述することが適当であると考える。」と、微細に記している。

(注1)中教審「審議のまとめ」の記述は次の通り。「学習活動としては、国際理解、情報、環境のほか、ボランティア、自然体験などについての総合的な学習や課題学習、体験的な学習等が考えられる」
一方、学習指導要領は次の通り。「例えば国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、児童の興味・関心に基づく課題、地域や学校の特色に応じた課題などについて、学校の実態に応じた学習活動を行うものとする」 国際理解・情報などは、横断的・総合的な課題の例示に過ぎない。さらに、「横断的・総合的な課題」と「児童の興味・関心に基づく課題」「地域や学校の特色に応じた課題」は並列の関係にあり、各「課題」は最後の「など」にかかる。つまり、「学校の実態に応じた学習活動」 というのが結論になる。

 

2.人権を基盤に据えた総合学習とは

 

 人権を基盤に据えた総合学習(以下、人権総合学習)とは何かについて若干の整理をしておきたい。大阪府人権・同和教育研究協議会は、人権総合学習を「人権の課題を直接テーマにした総合学習」(A)、「学びの過程で『人権の基礎体力(注2)』を子どもに育もうとする総合学習」(B)、「課題をもつ子どもが生き生き学べる総合学習」(C)の3つに整理している(図)

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 人権総合学習は「人権の課題を直接テーマにした総合学習」(A)にとどまらず、自尊感情・コミュニケーション力などの人権に関する基礎的な力を育てることを目的とした「学びの過程で『人権の基礎体力』を子どもに育もうとする総合学習」(B)、課題を持つ子どもに焦点を当てることで全ての子どもたちに豊かな学びを保障していこうとする「課題をもつ子どもが生き生き学べる総合学習」(C)の取り組みを包括し、学習活動としては互いに重なり合う営為なのである。つまり、人権総合学習はすべての学校・学年の課題である。


 Aに関して加えて述べておきたい。Aでは部落問題、「障害者」問題、在日外国人問題、男女共生等の個別的具体的な人権課題を扱うことになる。しかし、○○問題といった限定的な課題を指すだけではない。


 たとえば「国際理解」というとき、英語学習の総合学習もあれば、アジア諸国に目を向ける総合学習もある。「情報」というとき、情報機器操作の総合学習もあれば、メディア・リテラシーの視点での総合学習もある。問題は、「国際理解」や「情報」といったテーマを、どのような立場で、どのような視点から取り上げるかということが、決定的に大事である。すなわち、どのようなテーマであれ、取り上げる立場と視点によって、人権総合学習になるのである(また、その逆も然りである)。(注3)


 こうしたテーマは、子どもの興味・関心と言うよりも、その学校の子どもの状況や課題から引き出された教師側のねらいや願いをもとに設定されることが多い。学びの過程で、子どもの興味・関心を大切にしながら、主体的に学びを組織していくことになる。


 Bはそれ自体がテーマになるというよりも、あるテーマについての学習過程で、「人権の基盤」となる力を子どもたちに育んでいくことを意識的・意図的に組み入れた総合学習と捉えればよい。セルフエスティームを高める、コミュニケーション力を育てることにつながる活動を随所に設定し、学習活動を組織するのである。その際、テーマ設定は子どもの興味・関心から出発することもあるだろうし、AのテーマをBを意識して取り組む(「図」のAとBの円の重なり部分)ということもあるだろう。


 Cは、課題を持つ子どもに焦点を当てることで、すべての子どもたちに豊かな学びを保障していこうとする総合学習である。このことは、従来の同和教育が、課題を持つ子どもを中心に据えて取り組むことで、すべての子どもたちの学びを保障しようとしてきたことと重なる。この場合もBと同様で、テーマを限定するものではなく、あるテーマをめぐる学習活動における焦点化の問題である。したがって、課題を持つ子どもの「課題」がある人権問題と重なりがあれば、その人権問題をテーマにして、その子の学びに焦点を当てて取り組む総合学習になる(「図」のAとCの円の重なり部分)。課題を持つ子のセルフエスティームやコミュニケーション力に焦点を当て、あるテーマに取り組む場合も考えられる(「図」のBとCの円の重なり部分)。当然、AとBとCの3つの円が重なり合う総合学習もある。

 

(注2)「人権の基礎体力」とは自分を見つめ他者と自分を結ぶ力で、①自尊感情②他者理解③自己開示④コミュニケーション⑤読み・書き・計算を内要とする。これは、差別を見抜く力を育てる重要な基盤となる。(『わたし 出会い 発見 Part4』大阪府人権・同和教育研究協議会 2001年4月 46ページ要約)
「人権の基礎体力」は、「人権教育のカリキュラムづくりにあたって」の「土台」=「人権の基礎」と重なる概念である。


(注3)総合学習の「テーマ」と「立場」については、長尾彰夫氏(大阪教育大学)の次の著書に詳しい。
総合学習としての人権教育』(明治図書 1997年)49~51ページ
総合学習をたのしむ』(アドバンテージサーバー 1999年 「カリキュラム改革としての総合学習」第1巻)78~84ページ

 

 

3.人権総合学習への期待と限界

 

 (1)人権総合学習への期待(評価革命から学校革命へ)

 

 人権総合学習によって同和教育・人権教育のフィールドが広がる、同和地区児童・生徒の「低学力傾向」克服の取り組みにおいて課題になっていた自学自習の力が育つ等々、人権総合学習への期待が大きく膨らんでいる。さらには、総合学習に取り組むことを通して、従来の教科学習のあり方にも改革が及ぶものと期待される。


 さて、新学習指導要領の「ゆとり」と「生きる力」路線は、1977年学習指導要領「ゆとりある充実した教育」路線の同軸上にある。授業時数を1割削減してゆとりの時間が創設されたとき、教課審会長であった高村象平氏は、「学校が自由に使える時間については……各学校独自の努力で十分に力を発揮してほしい(注4)」とコメントした。「ゆとりの時間」のその後の運命は今さら述べるまでもない。教え込みの「新幹線教育」からの脱却が提起されて24年、現場教師の意識は遅々として変わっていないと言わざるを得ない。


 こうした現状を踏まえ、総合学習の基軸としてポートフォリオの導入を提唱したい(注5)ポートフォリオは、ファイリングという具体的な行為・ものを通して、必然的に学習や評価のあり方を変革する。この具体が教師の意識を変えていくものと期待したい。


 上のことは、人権総合学習ポートフォリオ評価を導入する改革的ではあるが消極的な理由である。より積極的な理由は、総合学習のねらいが自己学習力、問題解決力であるならば、ポートフォリオ評価は子どもたちにまさにその力を育てる手段であるからである。


 「メタ認知(meta-recognition)」について述べたものを目にすることが多くなった。これは、認知心理学者が思考の形式やプロセスを分析していくうちに体系化された概念で、後には学習理論の中にも採り入れられていった。メタ認知とは、認知行為を「メタ(高次)」次元から眺め、認知行為の全体性や方向性の修正等を迫ってくるものである(注6)。自己学習力・問題解決力を育てるには、データや情報を収集する力、収集したデータや情報を比較・分析したり総合したりして結論に導く力が必要だが、そのためには「子ども自身がその学習のプロセスの全体を見通す力、方向性を修正する力、学びの意味を考える力」といった「メタ認知」力が重要になってくる。ポートフォリオ評価は、自らの学びを自ら考える「メタ認知」力を育てる評価の一つなのである。

 

(注4)1977年6月9日『毎日新聞


(注5)ポートフォリオについては最近多くの書籍が出されているが、私は鈴木敏恵氏の提案や実践に学ぶことが大である。
ポートフォリオで評価革命!』(学事出版 2000年)及び、氏のホームページhttp://www02.so-net.ne.jp/`s-toshie/に、ポートフォリオ導入のためのノウハウが述べられている。
加藤幸次・安藤輝次『総合学習のためのポートフォリオ評価』(黎明書房、1999年)も参照されたい。


(注6)例えば、友人をおごる約束で食事に誘ったとする。とてもおいしいフランス料理を食べながら、財布の中身が少々気になっているとしよう。ここには、「フランス料理を食べている自分」と「財布が気になる自分」がいる。これを認知心理学の言葉で説明すると、前者は認知行為(自分が行っている行為)で、後者はメタ認知行為(前者を見ているもう一人の自分の行為)ということになる。その際、「現金では足りそうもないから、カードで払おうか」「友人から少し出してもらうか」と自分自身に問いかけてくる、高いところにいる「もう一人の自分」が「メタ認知」である。--これは同和教育で言ってきた自己を客観視するということときわめて近い。

 

 

 (2)人権総合学習の限界(過度の期待への戒めとして)

 

 ところで、私はこの数年間にいくつもの学校で総合学習の現場を参観させていただいた。人権総合学習を標榜する実践がそのほとんどなのだが、大きな気がかりがある。それは、教師に「人権」への強い思いがあればあるほど、実践は総合学習になっていないということである。教師の思いが前面に出て、自学自習は後方に追いやられている。


 私は人権総合学習に期待はするが、過度な期待はしてはならないと考えている。教師がその思いを総合学習の「舞台装置」や「仕掛け」に込めるのはよい。しかし、子どもを引き回しては総合学習ではなくなってしまう。その限界を見極める必要がある。伝えたい、伝えなければならない教師の思い・メッセージは、計画された人権教育の学習に委ねるべきである。人権教育のカリキュラムを整えていく中で、整理を急ぎたい。

 

 

(2020年補足)

 

総合的な学習の時間がたどった「その後」については、別の稿で述べたとおりです。もはやこの時間に期待することは現実的ではありません。

2002年を迎えるために大阪は文科省の審議会に委員を送り、「人権総合学習」実現に注力していました。その頃の熱意が今もあるのかどうか、大阪の現場のことは私には分かりません。

しかし、総合的な学習の時間がめざしたもの、人権総合学習がめざしたものが間違っていたわけでもなければ、古くなったわけでもありません。

現実問題としては、教科横断型の合科学習として継承されることを願ってやみません。

 

 

 

 

人権教育のカリキュラムを創る⑥

人権教育のカリキュラムを創る

 

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって
1.人権教育の概念
 (1)人権教育とは
 (2)同和教育を人権教育として再構築する           以上①で紹介
2.人権教育の構想
 (1)同和教育が拓いた地平と残した課題
 (2)人権教育の「本体」と「土台」
 (3)普遍的アプローチと個別的アプローチ
 (4)人権教育のカリキュラム構想               以上②で紹介
第2章 「人権の基礎」について考える~「セルフエスティーム」に着目して~
1.「人権の基礎」を構成する4つの力
 (1)「人権の基礎」を構成する4つの力
 (2)「人権の基礎」を構成する4つの力の関係         以上③で紹介
2.「セルフエスティーム」について考える
 (1)「風船型」と「いがぐり型」のセルフエスティーム
 (2)「風船型」と「いがぐり型」の関係            以上④で紹介

 

第3章 「普遍的な視点からのアプローチ」による人権教育について考える

 

1.「普遍的な視点」=「人権一般」ではない
2.「普遍的な視点」について考える
 (1)普遍的な視点
 (2)ステレオタイプ、偏見、差別               以上⑤で紹介

 

3.「普遍的な視点」と「個別的な視点」の関係

 

 (1)部落問題学習でねらってきたこと

 

 《具体的な教材についての記述部分省略》


 いずれも多くの学校で重点教材として実践されてきた教材である。これらの教材には、共通するポイントがある。一つは、「被差別部落に向けられる周囲のまなざしへの怒りを共有することである。もう一つは、不当な扱いを受けた主人公の立ち上がりへの共感を最大のポイントにしていることである。当事者の「立ち上がり」に焦点がある限り、周囲の「まなざし」は立ち上がりの根拠(差別への怒り)の「背景」に過ぎない。しかし、部落問題は部落外の人たちの問題だと言うとき、「まなざし」にこそ焦点を当てた教材が要るのではないだろうか。

 

 (2)「ねらい」の普遍化

 

 先の教材における周囲の「まなざし」の正体は何だろうか。「ステレオタイプ、偏見、差別」の項と重ねて読めば、その姿が浮かび上がってくる。つまり、「ステレオタイプ」や「偏見」や「差別」についての学習が、部落に対する周囲の「まなざし」に迫っていく重要な柱なのである。


 「ステレオタイプ」や「偏見」や「差別」は、部落問題に迫る重要な課題であるが、部落問題に固有の課題ではない。それは、女性差別の問題に迫っていく際にも有効であり、「障害者」や外国人等々への差別問題に迫っていく際にも有効である。まなざしを送る「周囲」は問題によって変わるわけだから、これはすべての人の課題である。教材化の際の素材も、部落問題をテーマにしたものもあれば、別の問題をテーマにしたものもあってよい。大事なことは、指導者の中で全体像が描かれていることだ。


 部落問題学習において、「ケガレ意識」が問題にされることが多い。「ケガレ意識」の問題は、「偏見」の学習の一部として位置づければどうだろうか。「ケガレ意識」は部落差別の形成要因ではあるが、部落差別に固有のものではない。つまり、部落差別に結びついた「ケガレ意識」もあれば、女性差別、「障害者」差別、ハンセン病者と元患者に対する差別、火葬場労働者に対する職業差別に結びついた「ケガレ意識」もある。

 

 (3)「ねらい」の個別化

 

 「普遍化」という視点は、部落問題を扱った学習を通して他の差別問題にも迫っていける可能性と、直接には部落問題を扱っていない学習を通して部落問題に迫っていける可能性を併せ持っている。


 ところが、普遍的な視点からのアプローチだけでは届かない「ねらい」がある。先の教材において主要なポイントであった、「部落差別に対する怒りや立ち上がりへの共感」については、部落問題に固有の学習が欠かせない。部落問題についての知識(歴史を含む)、文化(芸能、食等)との豊かな出会い、人(生きざま、技等)との出会いなどの学習を系統的に組織する一方で、現実にある人権侵害(=部落差別)を教材化した学習が必要である。


 蛇足になるが、部落問題に限らず、個別の視点からのアプローチに挙げているすべての問題について、同様の教材化が必要である。


 要するに、普遍的な視点では人権についての学習を深めるとともに、個別の人権課題に向き合うベースを築いていくということである。それと同時に、個別の人権問題に固有の課題について学習する。その全体が、人権教育の「本体」を構成しているということである。

 

人権教育のカリキュラムを創る⑤

人権教育のカリキュラムを創る

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって
1.人権教育の概念
 (1)人権教育とは
 (2)同和教育を人権教育として再構築する           以上①で紹介
2.人権教育の構想
 (1)同和教育が拓いた地平と残した課題
 (2)人権教育の「本体」と「土台」
 (3)普遍的アプローチと個別的アプローチ
 (4)人権教育のカリキュラム構想               以上②で紹介
第2章 「人権の基礎」について考える~「セルフエスティーム」に着目して~
1.「人権の基礎」を構成する4つの力
 (1)「人権の基礎」を構成する4つの力
 (2)「人権の基礎」を構成する4つの力の関係         以上③で紹介
2.「セルフエスティーム」について考える
 (1)「風船型」と「いがぐり型」のセルフエスティーム
 (2)「風船型」と「いがぐり型」の関係            以上④で紹介


第3章 「普遍的な視点からのアプローチ」による人権教育について考える

 

1.「普遍的な視点」=「人権一般」ではない

 

 「部落問題を人権一般に埋没させてはならない」という主張がある。この文脈において、「人権一般」は「普遍的な視点からアプローチする人権教育」とほぼ同じ意味で使われている。きわめて「個別的」な課題である部落問題を、人権教育の名においてないがしろにしてはならないという主張である。


 一方では、「同和教育は終わった。これからは人権教育だ」という主張もある。ここでは、「同和教育」=「部落問題学習」、「人権教育」=「普遍的な視点からアプローチする人権教育(人権一般)」の意味で使われている。


 いずれにせよ、「普遍的な視点からアプローチする人権教育」は「部落問題学習」と対置する形で私たちの前に登場した。そして、「部落問題」の対立軸として語られるだけで、「普遍的な視点」とは何かといった議論は皆無に近かったように思う。


 「普遍的な視点」=「人権一般」ではない。本稿では、「個別的な視点」と対をなして人権教育を構成する「普遍的な視点」について整理しておきたい。この整理はきわめて重要である。なぜなら、人権教育の流れは、個別の視点を持たない普遍的な視点のみの教育(いわゆる「人権一般」の教育)に陥る危険性を常に孕んでいるからである。

 

2.「普遍的な視点」について考える

 

 (1)普遍的な視点

 

 普遍的な視点からアプローチする人権教育は、これまでの同和教育が体系的に取り組んでこなかった領域である。したがって、外国で進められているさまざまな人権教育のプログラムを参考に課題を整理し、それぞれの課題に応える教材を創っていかなければならない。主な課題としては、「子どもの権利」「基本的人権」「個人の権利」「葛藤・対立」「平等・不平等」「公平・不公平」「責任・義務」「ステレオタイプ」「偏見」「差別」などが挙げられる。

 

 (2)ステレオタイプ、偏見、差別

 

 ここでは、部落問題学習の課題を普遍化していくために、ステレオタイプ・偏見・差別という3つの概念の定義を行っておきたい。以下、岡隆さん(東京大学)の「ステレオタイプ、偏見、差別の心理学」(『現代のエスプリ』1999.7、p.6~9)より引用させていただく。


  ステレオタイプ


 ステレオタイプ(stereotype)という言葉は、1798年に、印刷用の原型から作り出される鉛版を表わすために造語された。この言葉を、最初に社会科学に持ち込んだのは、アメリカのジャーナリストであるウォルター・リップマンの著書『世論』(1923)である。彼は、ステレオタイプを、さまぎまな社会的集団に関する「私たちの頭のなかの画像(picture)」と定義した。人びとは、客観的な現実に対して反応しているのではなく、人びとが心のなかに作り上げた表象に対して反応しているのである。このステレオタイプ的表象は、現実の部分的な表象であり、それは、選択的、自己成就的、自民族中心主義(ethnocentrism)的である。このステレオタイプは、教育や批判に抗い、現実の変化に即応しない頑なさ(rigidity)をもち、多様性や個性を無視して過度に一般化されたイメージ、バイアスのある誇張されたイメージを提供する。


 定義についてはさまざまな点で議論が分かれるが、その核は、ステレオタイプは、ある社会的集団やそれに属するメンバーの属性に関する人びとの信念(belief)であるという部分であろう。


  ②偏見


 偏見は態度(attitide)のひとつと見なされてきた。態度とは、ある対象に対する好き嫌いの評価を伴う反応傾向である。ステレオタイプが、ある社会的集団やそのメンバーの属性に関する信念であるのに対して、偏見は、ある社会的集団やそのメンバーを肯定的または否定的に評価する心的準備状態である。ただし、ステレオタイプ的信念の内容は、肯定的である場合もあれば否定的である場合もあるが、偏見は、否定的な態度と考えられている。


 態度は、認知と感情と行動の三つの成分から構成されると伝統的に考えられてきた。ジョン・ハーデイングらは、この考えに従って、偏見を、認知的成分(ある社会的集団に関する知覚、信念、期待)と感情的成分(その集団に対する嫌悪、敵意)と行動的成分(その集団に対する拒杏や攻撃など)で特徴づけた。このように、偏見がこの三成分を含むという考えがある一方、偏見を、主に態度の感情的成分に位置づけ、その認知的成分にステレオタイプ、行動的成分に差別行動を主に位置づけて考えることもできる。


  ③差別


 偏見は態度と定義されてきたが、差別(discrimination)は、ある社会的集団のメンバーに対して選択的に行う否定的な行動である。ゴードン・W・オルポートは、外集団に対する拒否的行動を、その強度が弱い順に、誹誘(antilocation)-回避-差別一身体的攻撃-絶滅(extermination)に分類するなかで、差別の位置づけを行い、差別を「個人あるいは集団に対して、その人たちの望んでいる平等な待遇を拒否」する行動と定義した。国際連合規約では「差別とは、自然的、ないしは社会的カテゴリーに根拠をおく区別をもとにしてなされた一切の行為を含む。ここでのカテゴリーには、個人的な能力とか美点とか具体的行為は無関係である」と定義されている。


  ステレオタイプ、偏見、差別の関係


 ステレオタイプ的信念が、偏見や差別の基盤となり、ステレオタイプと偏見と差別が一貫した関係をもっている。人びとは、ある社会的集団に対する否定的な信念に基づいて、その集団に対する否定的な偏見感情を抱き、差別行動をとるのである。しかし、それと同時に、人びとは、否定的なステレオタイプをもっていても、必ずしも偏見を示さず、偏見をもっていても、必ずしも差別行動に現わさないことがある。ステレオタイブと偏見の関係については、たとえば、人びとが意識的に否定的なステレオタイプの抑制に成功すれば、偏見に基づく反応が生じないであろう。偏見と差別の関係は、態度と行動の(非)一貫性の問題として扱われている。たとえば、行動が態度だけでなく、差別を禁じる主観的規範によっても左右されること考慮すれば、偏見と差別との非一貫性が予想できるであろう。

 

人権教育のカリキュラムを創る④

人権教育のカリキュラムを創る

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって
1.人権教育の概念
 (1)人権教育とは
 (2)同和教育を人権教育として再構築する           以上①で紹介
2.人権教育の構想
 (1)同和教育が拓いた地平と残した課題
 (2)人権教育の「本体」と「土台」
 (3)普遍的アプローチと個別的アプローチ
 (4)人権教育のカリキュラム構想               以上②で紹介


第2章 「人権の基礎」について考える

                       ~「セルフエスティーム」に着目して~


1.「人権の基礎」を構成する4つの力
 (1)「人権の基礎」を構成する4つの力
 (2)「人権の基礎」を構成する4つの力の関係         以上③で紹介

 

2.「セルフエスティーム」について考える

 

 (1)「風船型」と「いがぐり型」のセルフエスティーム

 

 「セルフエスティーム」には2つのタイプがある。森実さんは、「風船型」と「いがぐり型」と名付けて両者を区別している(『人権教育をひらく同和教育への招待』〈解放出版社、2000年〉p.105)。


「風船型」セルフエスティームは、「幼い頃から丸ごと自分の存在をまわりのおとなによって受け入れてもらうことによって育っていく。その子どもが何かを発信すればそれに応えて何か求めていたものを返してもらえる。いわゆる応答的環境である。こうして自己評価と対人関係の基礎が形成されるのである。」

これに対して、「いがぐり型」のセルフエスティームは、「困難な状況を乗り越えていったときに形成される。たとえ幼い頃に応答的環境のもとで育たなかったとしても、遭遇した困難を自分の力や人の助けを借りて乗り越えていくことによって自信が生まれてくるというのは、人がしばしば経験するところである。」(森実さん、前掲書)

 

 (2)「風船型」と「いがぐり型」の関係

 

 「風船型」と「いがぐり型」のセルフエスティームについて、森実さんは先の分類の後に次のように続けている。


「従来同和教育が追求してきたのは、ここでいういがぐり型のセルフエスティームである。しかもその人が自分の経験した困難状況をとらえ返せていると、その人の魅力はいっそう増すことになる。『差別されたくやしさや痛みを知っているからこそ、被差別者は温かい』などといわれるとき、イメージしているのはそのような姿である。……


 同和教育が直面しているのは、従来のようないがぐり型のセルフエスティームに加えて、風船型のセルフエスティームをいかに育てるかということである。風船型のセルフエスティームを育てるには、幼い頃からの応答的環境が不可欠である。いわゆる学力や対人能力を身につければ、セルフエスティームも維持しやすい。学力や対人能力がなければ、セルフエスティームの土台があっても、その後失敗を重ねることが多くなり、風船がしぼんでしまいかねない。これまでにもまして、保育所・学校と家庭との連携が重要になるゆえんである。」(前掲書、p.105~106)


 長尾彰夫さんは「風船型」・「いがぐり型」という言葉は使わないが、同じ問題を次のように論じている。

 

  「人権教育において、自尊感情の大切さを言う場合、それは単に『自信をもって』『あなたならできる』と元気づけていくことではない。むしろ、なんらかの点で、自尊感情が不十分であったり傷つけられたりしている状態をまず直視することから始まる。そして、経済的な格差、被差別部落に対する偏見と差別、民族や人種、あるいは性やジェンダーにかかわって、というように、経済的、文化的、社会的な差別や不平等のなかで、自尊感情が傷つけられやすい状態に置かれている子どもたち、そうした子どもたちが自尊感情をどのように獲得していくことができるのか。それが人権教育でいうところの自尊感情の大切さなのである。


 人権教育での自尊感情の大切さは、したがって、子どもたちが現にある社会的な差別や不平等のなかで、それらに対抗しながら自らの自信や誇りをどのように獲得していくのかという課題とつながっている。それは同和教育(解放教育)において、これまでしばしば強調されてきた『社会的立場の自覚』といったことと深くかかわっているのである。最近の人権教育のなかで注目されている、自己概念、セルフ・イメージといったことは、いずれもこうした自尊感情の大切さをふまえたこととなっているのである。」(『心を育てる学級経営』№200〈2001年9月〉「セルフ・イメージをどう育てるか」p.77~78)


 森さんの「風船型」に重心をおいた主張と長尾さんの「いがぐり型」に重心をおいた主張は、一見対立しているように見えるが、実はそうではない。


 森さんと池田寛さんは、「学力の土台には何があるのか-とくに『自尊感情』を中心にすえて」というシンポジウムの中で次のように語っている。

森「小学校高学年くらいになると、階層的なことが気になるわけでしょ。そのとき差別に反発を感じるというのは、たしかに自尊感情が高いのかもしれない。でも本人の意識としては、自尊感情、最低でしょ。『なんでうちは、こんなんや』とか。」

池田「あるときに、ぐっと落ちこんでも、何くそと思ってふんばれば、自尊感情は高いということになるのじゃないかな。」

森「そのときの『何くそ』という自尊感情と、はじめの安心していられる、落ち着いた自尊感情とは、質がちがうでしょ。」

池田「自尊感情理論の弱点は、すくすくとのびていく竹のようなイメージで考えているところでね。その竹は、5、6年生のころに、岩にぶつかるんですよね。その岩にぶつかったときに、しおれてしまうのか、ちがう方向にのびていくのか、ずいぶんちがってくると思うんです。そこが、自尊感情のこれまでの理論で弱いところなんです。」(『解放教育』№279〈1991年10月〉p.19)


 つまり、こういうことである。乳幼児期から小学校の中学年くらいまでは「風船型」のセルフエスティームが重要になる。包み込まれの感覚の中で育つ「安定根」、安心していられる、落ち着いた自尊感情を十分に育てることだ。家庭の果たす役割がきわめて大きく、連携は不可欠である。森さんは、従来の同和教育はこの部分が弱かったと指摘する。


 そして、小学校高学年くらいになると、「いがぐり型」のセルフエスティームが必要になるというのだ。長尾さんは、「風船型」のアクティビティーのみを追い求める昨今の状況に警鐘を鳴らしているのである。


 「風船型」と「いがぐり型」のセルフエスティームを整理する際に、池田寛さんの「抵抗感の理論」と「自尊感情の理論」の統合試案図(「図2」、前掲書p.31)が示唆に富んでいる。「抵抗感」は、「社会的立場の自覚」に近い概念で、「いがぐり型」に置き換えて考えるとよい。「自尊感情」は、「風船型」のセルフエスティームを指している。

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 従来の同和教育は、〈反発型→変革型〉を志向してきたと言える。その際、「立場の自覚」が鍵であった。しかし、現状は「反発型」が少なくなり、「無力型」の子どもが増えている。したがって、自覚されないでいる抵抗感に気づかせ、それをバネに社会認識へと向かわせる、〈無力型→反発型→変革型〉という道筋が必要だということになる。


 それに対して、〈無力型→優等生型→変革型〉という道筋も考えられるというのである。「優等生型」というのは「確かな学力を身に付けたタイプ」という意味である。これを「セルフエスティーム」論に置き換えると、まず「風船型」を十分に育て、その上で「いがぐり型」に気づかせていくという道筋である。


 いずれにしても重要なのは、私たちのめざす「セルフエスティーム」は「風船型」と「いがぐり型」の両方をその内容としたものでなければならないということである。

 

人権教育のカリキュラムを創る③

人権教育のカリキュラムを創る

 

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって
1.人権教育の概念
 (1)人権教育とは
 (2)同和教育を人権教育として再構築する           以上①で紹介
2.人権教育の構想
 (1)同和教育が拓いた地平と残した課題
 (2)人権教育の「本体」と「土台」
 (3)普遍的アプローチと個別的アプローチ
 (4)人権教育のカリキュラム構想               以上②で紹介


第2章 「人権の基礎」について考える

      ~「セルフエスティーム」に着目して~


1.「人権の基礎」を構成する4つの力

 

 (1)「人権の基礎」を構成する4つの力

 

 「人権教育のカリキュラムづくりにあたって」において、人権教育の「本体」(「普遍的アプローチ」と「個別的アプローチ」)と「土台」(人権の基礎)について述べた。ここでは、セルフエスティームに着目しつつ「人権の基礎」について論じたいと思う。


 「人権の基礎」を構成する力については、前掲の稿で「セルフエスティーム」「コミュニケーション力」「アサーティブネスの力」「人間関係づくり」の4つに整理した。これらの言葉は近年しばしば目にするが、その概念については必ずしもコンセンサスができているわけではない。少し具体的に論じてみたい。

 

 「セルフエスティーム」は、一般的に「自尊感情」と訳される。同和教育においては、学力との関係で1980年代の終わりに池田寛さん(大阪大学)がこの概念を紹介されたのが最初であった。その後、90年代になって参加型の人権教育が紹介され、「セルフエスティーム」が注目されるようになった。ただこの概念は個人の主体性を重んじる文化の中で育ったもので、日本語に訳すとどこかしらずれを感じてしまう。「矜持」という日本語が近いそうだが、日常的に使われる言葉ではない。「自己肯定感」と訳すのが最もわかりやすいように思える。

 

 概念の内容をはっきりさせるために、セルフエスティームが損なわれた問題状況を思い浮かべてみよう。セルフエスティームに限らず、人間の心に関わる概念は、多くの場合、何らかの問題状況を出発点として形成されている。だから、その概念が発生する出発点となった問題状況に立ち戻れば、その概念の意味するところを考えやすくなる。


 まわりから見ると、うらやましいような状態の人がいたとする。仕事も家庭も友人関係も順調に見える。才能にあふれ、個性豊かだとまわりの多くの人に評価されている。ところが本人自身は現状に対して安心感を抱いておらず、何かで失敗するのではないかとか、何かの事故にみまわれないかとか、いつも不安を抱えている。自己評価が低く、「こんなにうまくいくはずがない」とどこかで運命におびえているところがある。ときには自分は早死にするのではないかと勝手に思いこんでいることさえある。セルフエスティームが問題になる典型的な状況はこれである。つまり、客観的状況から言えば自信にあふれていてよいはずなのに、本人は何かしらそれを否定的にとらえているという状況である。そんな場合、問題はその人の捉え方にあるということになる。


 あるいは、まわりから見ていると力があると見えるのに、何かに取り組むといつも同じような人間関係の問題でつまずいてしまう。はじめのうちは世話してくれていた人が次第にその人を疎んじるようになって、最後には突き放されてしまったりする。その人の人生にはいつも同じようなシナリオが待っているようにさえ感じられてしまう。同じような失敗が繰り返されるため、本人自身も自分の運命を呪うようになる。そして、自己評価が低くなってしまうのである。


 そのような意識が生まれる原因を探ると、何かしらの経験に行き当たることが多い。たとえば幼いころに虐待を受け、その記憶が心の傷となってその人の心を不安に陥れているという事例がある。心の傷をいやさなければ、その人の不安や自己評価の低さは解消されない。また、知らず知らずのうちに形成されてしまった心の構えが、その人の人間関係の作り方を微妙なところで鋳型にはめてしまっているという事例がある。この場合も、心の構えを形成するもととなった体験をとらえ直すことが重要な意味をもつ。


 セルフエスティームが高いと、何事にも積極的にチャレンジする姿勢が生まれやすい。新しい人やものと出会ったときにも、好奇心旺盛に近づいていくことになる。こうしてセルフエスティームは雪だるま式に膨れ上がっていく。セルフエスティームが低く、自己肯定感をもてていないと、自分のからに引きこもることになりやすい。

 

(『人間関係づくりとネットワーク』〈明治図書、1997年〉森実「個と集団をめぐる新たな争点」p.26~27)

 

  長い引用になったが、「セルフエスティーム」の概念のイメージを共有することが、すべての前提である。内要については後述する。

 

 「コミュニケーション力」は、人の話や気持ちを聞いたり、情報を吸収したり、質問したりする力である。そして、自分の気持ちや意見をはっきりと、相手への配慮を忘れずに表現する力である。こうした力を、スキルとして育てていくことだ。

 

 「アサーティブネスの力」は、「非攻撃的自己主張」と訳されている。アサーションとは「自分も相手も大切にした自己表現」である。「相手は大切にするが、自分を大切にしない表現」、すなわち「自分の意見や気持ちを率直に表現しなかったり、し損なったりすること」を非主張的(ノンアサーティブ)、逆に「自分は大切にするが、相手は大切にしない表現」、すなわち「相手の気持ちや言い分を無視あるいは軽視して、自分を押しつけること」を攻撃的(アグレッシブ)と呼ぶ。


 アサーティブネスであるということは「相手も大切にする」ことであるから「相手の意見も尊重する」「相手の話も聞いてみる」という姿勢が必要である。そこでお互いの意見を出し合い、譲ったり、譲られたりしながら、お互いの納得のいくところで折り合いをつけようとする。こうしたプロセスを大切にすることがアサーションの精神である。アサーティブネスに自分を表現するということは、そこに何らかの葛藤が生ずることを覚悟することであり、それを面倒がらずに引き受けていこうとする姿勢でもある。

 

 アサーティブな言い方を考える方法にDESC(デスク)法がある。


 ①D(Describe=記述する)…最初に、おたがいに共通の土俵に乗るために、ここで取り上げたい事柄をだれが見ても納得できる客観的で具体的な事実として述べる。


 ②E(Express'Explain'Empathize=表現する、説明する、共感する)…次にそのことに対する自分の気持ちを冷静に、しかも明確に述べる。ただし、これは相手を非難するためのものではない。他、追要に応じて、相手への共感を示す。


 ③S(Specify=特定の提案をする)…ここでは相手にしてほしいこと、変えてほしいことを具体的に提案をする。今すぐできそうな小さな行動変容とし、しかも提案であって命令ではないことに注意する。


 ④C(Choose=選択する)…相手はこちらの提案に対して肯定的に反応する可能性(Yes)と否定的に反応する可能性(No)がある。だから両方の可能性を考えて、次の対応を考えておく。相手がこちらの提案を了解してくれたときは素直に感謝すればよい。了解してもらえないときは次の選択肢を考えて、提案する。


○このDESC法を用いるときに注意することがある。一つはDとEの区別をきちんとすることである。Dは客観的な事実、Eは自分の主観的な気持ちであるが、我々はときどき、この二つを混同してしまう。混同したままの状態では話し合いはスムーズに進まない。


 ※「そのうるさい音楽はやめなさい」と叱ったとする。「うるさい」というのはこちら側の主観である。この部分をDとEに分けてもっと正確に言えば、「大きな音で音楽を聞いていると(D)、わたしにはうるさく感じられるので(E)」ということである。(わたしメッセージ)

 

沢崎達夫「アサーションとは」(『児童心理』№744〈2001年1月〉)

 

 
 「人間関係づくり」は、同和教育の中で培われてきた「集団づくり」を発展させていく概念である。「教育における集団主義」は、「教育の場において弱い立場にある者が立ち上がり、周りの者がそれを受け止めるというイメージ」であり、取り組みの中で「個々人の願いを集団の願いと結んでいく手だて」が数多く開発されてきた(『人間関係づくりとネットワーク』〈明治図書、1997年〉p.204要約)。森実さん(大阪教育大学)は、そう総括した上で、「差別を見抜き、差別を許さず、差別と闘う」といった言葉に象徴される集団観を「個性豊かな一人ひとりが対等平等に豊かにつながることを支援する」方向へ変えていくために、集団づくりにグローバルな視点を導入すること、人間関係のスキルに注目すること、心のケアや癒しに関わる理論や実践に学ぶことが重要だと指摘する(前掲書p.208)。

 

 (2)「人権の基礎」を構成する4つの力の関係

 

 「図1」に示したように、「人権の基礎」のベースには「セルフエスティーム」が位置づけられる。したがって、「セルフエスティーム」が高ければ高いほど、確かな「人権の基礎」力が育つことになる。

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 「セルフエスティーム」を土台にして、「コミュニケーション」と「アサーティブネス」の力を育てていくことになる。そして、両者の重なりの部分が、他者理解や問題解決等を内容とする「人間関係づくり」になる。「人間関係づくり」を両者の重なりよりも大きな楕円にしているのは、同和教育の中で大切にしてきた上記内容に加えて、「力を合わせれば何でもできる」といった、より積極的な「人間関係づくり」をその内容に加えたいと考えるからである。
 こうした「アサーティブネス」や「人間関係」が、より高次の「セルフエスティーム」を育むというという相互作用については言うまでもない。

 

人権教育のカリキュラムを創る②

人権教育のカリキュラムを創る

 

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって

 

1.人権教育の概念
 (1)人権教育とは
 (2)同和教育を人権教育として再構築する           以上①で紹介

 

2.人権教育の構想

 

 (1)同和教育が拓いた地平と残した課題

 

 同和教育の成果と課題を考える際に、奥田均氏が提示された「部落差別の現状認識の5領域(図1)」が参考になる。

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 従来、部落差別の実態把握は、「部落内」の「実態的差別」(A領域)、「部落外」の「心理的差別」(B領域)、両者の結合部分である「差別事件」(C領域)という3領域を対象としてきた。それらは、「部落の生活実態調査」「市民の人権意識調査」「差別事件の集約」によって検証されてきた。同和教育実践もまた、概ねこれら3領域を対象として展開されてきたと言える。「低学力傾向」克服の取り組み、格差是正・解消の営みの教材化(以上、主としてA領域)、差別意識を払拭するための「正しい部落問題」の教材化(B領域)、反差別の生き方を培うための差別事件の教材化(C領域)などがそれに該当する。


 注目したいのは、「図1」における欠落部分、すなわち「部落の側における心理的差別」の実態(D領域)、および「部落外」の「実態的加差別」の実態(E領域)についてである。


 「D領域」は、部落差別の実態が部落の人々にどのような心理的影響を与えているかという問題の領域である。「不安」「しまい込み」「自己制御」「気苦労」「遠慮」といった被差別の側の心理的状況を、差別の実態の副産物としてではなく、それ自体を部落差別の実態として受けとめるべきだと、奥田氏は指摘する。「自尊感情」や「エンパワーメント」は、まさにこの領域に応える教育実践だと言える。


 「E領域」は、「被差別の実態」と対をなして「部落差別の実態」を構成する「加差別の実態」の領域である。例えば「身元調査」や「釣書」など、それ自体は部落差別でなくても、結果として差別意識の拡大や被差別の実態の再生産に結びついているといった問題である。「私と部落差別」「私にとっての部落問題」というアプローチが、この領域に応える実践になる。


 従来のもの(A・B・C領域)に一層の磨きをかけ、同時にこれまでの同和教育〔部落問題学習〕の弱点(D・E領域)を補う。これが、人権教育に「再構築」する際の「同和問題」の課題である。

 

 (2)人権教育の「本体」と「土台」

 

 人権教育を「本体」と「土台」の総体として捉えたいと思う(図2)

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 同和教育は、部落問題学習を出発点として、「障害者(児)」問題や在日外国人問題など、さまざまな人権の課題に取り組んできた。ここでは、さまざまな人権の課題に迫る取り組みを、仮に「本体」とよぶ。これについては次項で詳述する。


 さらに同和教育は、部落問題学習が成立する土台の取り組みとして、足繁く家庭訪問を繰り返し、子どもの背景に迫り、親や子どもの声に学んできた。そして、子どもたちをつなぐ集団づくりに取り組んできた。生活綴り方や一枚文集は、その有効な手段であった。感性を育てる文学の授業もここに入る。この取り組みを、仮に「土台」とよぶ。


 人権教育の枠組みを考える際に、同和教育における「本体」と「土台」を丸ごと移転し、とりわけ「土台」の営みについてはていねいに継承したい。自尊感情、コミュニケーションの力、アサーティブネスの力を育てる取り組みは、これからの「土台」部分の重要な要素となる。


 人権教育における「本体」と「土台」の関係は、しばしば畑における「土」と「作物」の関係にたとえられる。良い「土」を作らなければ良い「作物」は育たないという戒めとして、その通りである。しかし、「土」はどこまでも「土」であり、「作物」に転じることはない。「土台」は、耕す過程で「本体」の芽を育て、時には「本体」の一部をなす。畑の「土」にも増して、人権教育の「土台」は重要である。

 

 (3)普遍的アプローチと個別的アプローチ

 

 人権教育の「本体」は、「普遍的な視点からのアプローチ」と「個別的な視点からのアプローチ」で構成される(図3)

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 同和教育は、部落問題という個別的視点一つの教育としてスタートした。そして、「障害児」問題や在日外国人問題など複数の個別的視点を獲得しながら拡大してきた。つまり、今日の同和教育は「個別的アプローチ」=「本体」と「土台」で構成されている。「○○市行動計画」で採り上げられている「同和問題、女性、子ども、高齢者、障害者問題、外国人、あらゆる感染症の患者とその家族、アイヌの人々等、刑を終えて出所した人、環境問題」の10項目が、個別の課題に該当する。


 「普遍的なアプローチ」は、今日までの同和教育になかった視点である。「権利とは何か」「偏見やステレオタイプ」「権利と責任」などが、そこで扱われる内容である。多くは外国で開発されたプログラムのアクティビティーとして紹介されている。


 「個別」と「普遍」は、「両者があいまって」(注7)推進されなければならないことは、言うまでもない。

(注7)「同和問題の早期解決に向けた今後の方策の基本的な在り方について」(1996年5月 通称「地対協意見具申」)

 教育の手法には、法の下の平等、個人の尊重といった普遍的な視点からアプローチしてそれぞれの差別問題の解決につなげていく手法と、それぞれの差別問題の解決という個別的な視点からアプローチしてあらゆる差別の解消につなげていく手法があるが、この両者は対立するものではなく、その両者があいまって人権意識の高揚が図られ、様々な差別問題も解消されていくものと考えられる。

 

 (4)人権教育のカリキュラム構想

 

 従来の同和教育のカリキュラムは、横軸(縦軸)に「集団」「部落問題」「『障害者』問題」「在日外国人問題」「平和」といった課題を並記し、縦軸(横軸)に実施月をとる形式が一般的であった。


 人権教育のカリキュラム作成の際に、課題を並記してきた軸のとり方をどうするか。まず、「人権の基礎」(「土台」部分をここでは「人権の基礎」と表記する)、「普遍的視点」、「個別的視点」の3つの柱を設ける(図4)

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 「人権の基礎」は、「セルフエスティーム(自尊感情)」「コミュニケーション能力」「アサーティブネス」「人間関係づくり」(図5)で構成される(「図4」で示した「AB…」の欄にこれらが入る。)。


 「普遍的視点」は、「基本的人権」「個人の権利」「葛藤・対立」「偏見・ステレオタイプ」「差別」「権利と責任」等の柱立てが考えられる。


 「個別的視点」は、「○○市行動計画」に示された10項目と「平和」で構成される。「部落問題」「共生の課題」「環境・平和」といった柱立ても考えられる。その際、「共生の課題」は“違い”を認め合い共に生きるということがテーマになる。これに対して、「部落問題」は“違い”を認め合うものではないので、その点において独立した課題とすべきだと考える。


 次に3つの柱のバランスについて考えたい。小学校低学年では、基本的に「人権の基礎」がカリキュラムの大半を占める。そして、学年が上がるにしたがって「普遍」「個別」の比重を増していくことになる。「個別の課題」については、子どもや地域の実態に照らして扱う時期や頻度を検討することになる。およその目安としては、小学校の6年間に1回以上、中学校の3年間に1回以上、個別の各課題に出会うようにしたいと思う。


 さらに、カリキュラム作成において、各教材の「ねらい」を明確にする必要がある。従前の同和教育がややもすれば知識注入型になりがちであった反省に立ち、「知識」「態度」「技能(スキル)」のバランスに十分配慮したい。その際、子ども主体の学びを保障するために、中心的な学習の形態についても考慮したい。聞き取り、フィールドワーク、劇化等、同和教育が培ってきた手法に加え、ロールプレイ、ディベート、シミュレーション、ゲーム、フォトランゲージ、ブレーンストーミング、ランキング等、世界の人権教育の中で生み出されてきた手法についても積極的に学ぶ必要がある。

人権教育のカリキュラムを創る①

「人権教育のカリキュラムを創る」は、人権教育推進に携わっていた2001年10月にまとめた文章です。人権教育のカリキュラムを作成する際の参考にしていただけるのではと考え、7回に分けて紹介します。

 

人権教育のカリキュラムを創る

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって
1.人権教育の概念
 (1)人権教育とは
 (2)同和教育を人権教育として再構築する           以上①で紹介
2.人権教育の構想
 (1)同和教育が拓いた地平と残した課題
 (2)人権教育の「本体」と「土台」
 (3)普遍的アプローチと個別的アプローチ
 (4)人権教育のカリキュラム構想               以上②で紹介
第2章 「人権の基礎」について考える~「セルフエスティーム」に着目して~
1.「人権の基礎」を構成する4つの力
 (1)「人権の基礎」を構成する4つの力
 (2)「人権の基礎」を構成する4つの力の関係         以上③で紹介
2.「セルフエスティーム」について考える
 (1)「風船型」と「いがぐり型」のセルフエスティーム
 (2)「風船型」と「いがぐり型」の関係            以上④で紹介
第3章 「普遍的な視点からのアプローチ」による人権教育について考える
1.「普遍的な視点」=「人権一般」ではない
2.「普遍的な視点」について考える
 (1)普遍的な視点
 (2)ステレオタイプ、偏見、差別               以上⑤で紹介
3.「普遍的な視点」と「個別的な視点」の関係
 (1)部落問題学習でねらってきたこと
 (2)「ねらい」の普遍化
 (3)「ねらい」の個別化                   以上⑥で紹介
第4章 「人権を基盤に据えた総合学習」について
1.総合学習でめざすもの
2.人権を基盤に据えた総合学習とは
3.人権総合学習への期待と限界
 (1)人権総合学習への期待(評価革命から学校革命へ)
 (2)人権総合学習の限界(過度の期待への戒めとして)      以上⑦で紹介

 

 

人権教育のカリキュラムを創る

 

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって

 

1.人権教育の概念

 

 (1)人権教育とは

 

 人権教育を論じるに当たり、人権教育とは何かを定義する必要がある。国連は、「人権教育とは、知識とスキルを分かち伝え、態度を育むことを通して、人権の普遍的な文化を形成しようとする教育・訓練・宣伝・情報提供の取り組み」(注1)と定義している。たとえば○○市では、「人権が尊重され擁護される社会を築くため、あらゆる人々が生涯のあらゆる機会を通じ、人権に関する正しい知識を習得するとともに、自分で考え判断し、解決するスキルを培い、これを日常の態度として身に付けるための、また、これらに取り組もうとする雰囲気を醸成するための教育」(注2)と定義している。


 いずれの定義も具体的なイメージが容易に像をなさない。それは、人権教育という日本語の実体を示す教育が存在しないからである。


 「人権教育」は「human rights education」の訳語であるが、その実体というのも一様ではない。例えばイギリスの「ワールド・スタディーズ」は、「多くの文化が存在し、人々が相互に依存し合う世界で、責任ある生き方をするのに不可欠な知識、姿勢、技能を身につけるための学習であり教育」(注3)と定義されている。この教育は、白人至上主義に基づく植民地支配の反省に立ち、人種差別をなくすための教育として開発された。「開発教育」「国際理解のための教育」「多文化教育」「平和のための教育」「個性と社会性の教育」「政治教育」等々、みなそれぞれの事情から生まれた人権教育である。


 結論として言えることは、人権教育とは、それぞれの国(地域)における人権問題に関する教育の総称であり(漠然とした人権教育なるものが存在するのではない)、その内容としては「知識」「スキル」「態度」の3領域からなり、「人権文化」(注4)を世界中に築き上げることを目的とする教育ということができる。

 

(注1)「国連人権教育の10年のための行動計画の準備・事務総長報告」1994年

(注2)「『人権教育のための国連10年』○○市行動計画」2000年 3ページ

(注3)国際理解教育・資料情報センター編訳『WORLD STUDIES』ERIC 1991年 10ページ

(注4)「人権文化」(culture of human rights)という訳語は、日本語として定着しているとは言い難い。人権教育の目的を示す過程で、具体的に定義づける必要がある。

 

 

 (2)同和教育を人権教育として再構築する

 

 「同和教育を人権教育として再構築する」という表現をしばしば見かける。


 「『人権教育のための国連10年』○○市行動計画」は、「具体的な分野の課題や具体的施策について」の第1に「同和問題」を掲げている。そして、「具体的施策の方向」の項で「同和教育」について触れている(注5)。そこで述べられていることは、まさしく「同和教育を人権教育として再構築」した内容になっている。しかし、「外国人」の項と読み比べた時、記述内容に明らかな違いがあることに気づく(注6)。両者の違いは、「外国人」については個別の人権問題として課題が記述されている(ここでは内容の吟味は行わない)のに対し、「同和問題」では個別の課題ではなく人権教育としての課題が記述されていることにある。つまり、「同和教育を人権教育として再構築」する過程で、結果として、「同和問題」の課題は消えたことになる。


 「○○市行動計画」では、同和教育の成果と課題を人権教育に普遍化する(換言すれば、個別の課題を包括する部分に記述する)内容を、「同和問題」の項に「同和教育」として記述している。ここでの「同和教育」は「人権教育」の同義語として使われたことになる。人権教育という枠組みで語る時、「同和教育」は「部落解放教育」の同義語と語意を限定するか、「部落問題学習」と言い換えるべきである。そうしないと、「同和問題」固有の課題が見えてこない。


 「再構築」は、国際的な人権教育の内容と方法に照らして同和教育を整理・補足し、併せて同和教育の成果を他の人権課題に普遍化するという作業過程の全体を示す語として捉えたい。

(注5)学校教育においては、これまでの同和教育の反省をふまえ、この行動計画のもと、グローバルな視点にたって人権教育に生かし自分で考え判断し、話し合って問題を解決する力を育む教育の推進に努めなければなりません。そのためには、基礎基本を大切にしながら、子どもたちが自ら課題をみつけ、自ら学び課題を解決しようとする意欲や態度・実践力を育てる教育を実践していく必要があります。また、一人ひとりの子どもたちが「学びの主体」となる授業を創造し、個性を大切にしながら自尊感情を育てる取り組みを通して、全ての子どもたちの自己実現を支援する方向で進んでいくようにしなくてはなりません。そして、グローバルな視野をもって人権・平和・環境・福祉などの社会の問題を考え、自分自身の生き方として行動していける子どもを育てていくことと、差別に出会ったとき、自らが気づき、人間関係を保ち指摘できるスキルを育てる必要があります。

(注6)「具体的施策の方向」の概要は次の通り。
① 文化・歴史認識についての教育の充実
 学校教育では知識注入型の歴史教育や国際理解教育から、体験を重視した児童・生徒の主体的な学習へとその形態を変えていく取り組みが必要であります。またアジア諸国への侵略の歴史と反戦・平和の観点から正しく理解していけるよう、地域に残る歴史的遺物の調査活動や地域の人々の協力を得ての学習をしていけるよう行政的な支援体制を創っていきます。
③ 日本在住の外国人児童・生徒への教育 の改善・充実
 市内に居住する外国人児童・生徒の教育の保障とともに、生活習慣、言語の違いなどを豊かな出会いの場としてとり入れ国際理解に努めます。

 

(2)同和教育を人権教育として再構築するの記述は、同和教育が定着していなかった地域の方、2000年代になって教職に就かれた方には理解しにくいかと思います。補足の意味で、2014年2月に書いた次の一文を掲載します。

 

■人権教育への道 ~同和教育の歩み~■

 

第1章 同和教育の歩み

 

 1 同和教育の歴史

 全国同和教育研究会(全同教)は、1953年に大阪で結成されている。

 

 ……。背景には、被差別部落の子どもたちの長欠・不就学問題があった。その深刻な実態の上に立って、部落問題の解決を図ることを目的として同和教育はスタートした。「部落差別の現実に深く学び…」というのが、同和教育運動の立脚点である。


 1965年には「同和対策審議会(同対審)答申」が出され、それを受けて1969年に「同和対策事業特別措置法」(以下、「特措法」)が公布された。同和教育推進教員の配置や同和教育補充学級の開設など、すべてこの法律によって実現したものである。

 

 「特措法」は10年間の時限立法で、1979年に3年延長された。


 3年後の1982年、「地域改善対策特別措置法」(以下、「地対法」)が公示される。名称変更と共に内容も薄められていくのだが、5年間の法的措置が延長された。


 そして1987年、「地域改善対策特定事業に係る国の財政上の特別措置に関する法律」(以下、「地対財特法」)が制定施行された。「地対財特法」は5年の時限法で、1992年に5年間延長された。


 1996年、地域改善対策協議会(地対協)は意見具申を行い、特別対策は2002年3月末で終了し基本的には一般対策に移行、教育啓発に関しては人権教育・人権啓発に再構成することを求めた。


 1997年、政府は最終の特別法として「地対財特法」を一部改正した。


 2002年3月31日をもって、「特措法」「地対法」「地対財特法」の33年間続いた財政措置が終了し、今日に至っている。

 

 2 「専門店」から「デパート」へ

 同和教育研究会組織結成の経緯からも明らかにように、同和教育は部落問題の解決をめざす教育である。つまり、同和教育は部落問題を扱う「専門店」なのだ。少なくとも、結成当時はそうであった。

 

 「差別の現実に深く学ぶ」という同和教育の手法は、実践者である教師の目を、例えば日本で暮らす朝鮮人に対する差別の問題や障害者に対する差別の問題など、部落差別以外の人権問題にも向けさせていった。


 ……。

 こうして、部落問題の「専門店」として出発した同和教育は、1980年代から90年代前半にかけて、在日外国人問題や障害者問題、男女共生問題などの人権問題を扱う「総合デパート」へと発展していった。

 

 

第2章 人権教育への道

 

 1 世界の人権教育

 1996年に地域改善対策協議会が出した意見具申において、同和対策は2002年3月末で終了し、同和教育を人権教育に再構成するという方向性が示された。同和教育が人権教育と呼ばれるようになったのも、同和教育研究会が人権教育研究会と名称変更したのも、すべてこの流れの中で起こったものだ。

 

 「同和教育から人権教育へ」ということを論じるにあたり、そもそも人権教育とは何かを整理しておこう。

 

 結論から言うと、「人権教育」という人権教育はない。

 

 「開発教育」という人権教育がある。これは、南北問題や国際協力を理解するための教育で、1960年代に欧米で始まった。ESD(持続可能な開発のための教育)はその発展形だ。


 「グローバル教育」という人権教育は、地球的課題の理解と解決のための教育で、1970年代にアメリカで始まった。ベトナム戦争の敗北を受け、アメリカ中心主義を見直し、国際社会全体の中で教育を考えようという運動として発展した。


 「多文化教育」という人権教育は、アメリカの公民権運動を起源として発展してきた。

 

 つまり、「○○教育」という人権教育プログラムは、アフリカ系移民に対する差別問題や黒人に対する差別問題など、その国が抱える人権問題の解決を目的として作られたものなのである。

 

 2 同和教育から人権教育へ

 上記の文脈で「同和教育を人権教育に再構成する」という問題を考えた時、どんな人権教育像が浮かんでくるだろうか。同和教育(部落問題教育)、外国人教育、障害児教育、平和教育などなど、人権課題ごとの教育プログラムが用意され、それら「専門店」の集合体(「商店街」のイメージ)を「人権教育」と呼ぶ。というのが、最もスッキリしている。


 しかし、これでは多くの支持を得られそうもない。なにせ、日本は人権後進国なのだ。現実的には、人権教育という「デパート」の1階を総合フロアとし(ここでは、自己肯定感を高めたり、なかまづくりをしたりする)、2階から上に「部落問題教育」「外国人教育」などの「専門店」を配置するというのが賢明だろう。■人権教育のカリキュラムを創る■(2001年)も、そうした考えに基づいている。

 

 今日の人権教育に大きく影響している審議会の答申や法律は、次のようなものである。膨大な紙数ゆえタイトルのみ記しておくので、興味があればインターネットで検索してほしい。
1996年 地域改善対策協議会(地対協)意見具申
     「同和問題の早期解決に向けた今後の方策の基本的な在り方について」
1996年 同和問題の早期解決に向けた今後の方策について
1997年 「人権教育のための国連10年」に関する国内行動計画
2000年 人権教育及び人権啓発の推進に関する法律
2002年 人権教育・啓発に関する基本計画
2004年 人権教育の指導方法等の在り方について【第一次とりまとめ】
2006年 人権教育の指導方法等の在り方について【第二次とりまとめ】
2008年 人権教育の指導方法等の在り方について【第三次とりまとめ】


 最新の指針は2008年の「第三次とりまとめ」なのだが、その考え方は一貫して1996年地対協意見具申にある。


 ここでは、2002年3月15日に閣議決定された人権教育・啓発に関する基本計画の内容を紹介する。言うまでもなく、これは2000年に成立した人権教育及び人権啓発の推進に関する法律に基づいて策定されたものである。まず、人権教育とは人権尊重の精神の涵養を目的とする教育活動と定義し、「人権一般の普遍的な視点からの取組」と「各人権課題に対する取組」に分けて方策を述べている。そして、各人権課題として、「女性」「子ども」「高齢者」「障害者」「同和問題」「アイヌの人々」「外国人」「HIV感染者・ハンセン病患者等」「刑を終えて出所した人」「犯罪被害者等」「インターネットによる人権侵害」「その他(同性愛者への差別等新たに生起する人権問題)」を列挙している。


 「同和問題」については、1996年に閣議決定された「同和問題の早期解決に向けた今後の方策について」に基づいて推進すると書かれている。そして「96年方策」には、差別意識の解消が課題だとして、これまでの同和教育の手法への評価を踏まえ、すべての人の基本的人権を尊重していくための人権教育として発展的に再構築すべきだと述べる。具体的には、人権教育に再構成して、進学意欲と学力の向上を推進する内容をも含むものにするとあるのみである。


 ■人権教育のカリキュラムを創る■の「同和教育を人権教育として再構築する」においても同様の論を展開しているのだが、そこでも「外国人」を「同和問題」との対比項目にしているので、「2002年基本計画」の「外国人」の項を見てみよう。ここでは文科省の取り組みとして、「学校においては、国際化の著しい進展を踏まえ、各教科、道徳、特別活動、総合的な学習の時間といった学校教育活動全体を通じて、広い視野を持ち、異文化を尊重する態度や異なる習慣・文化を持った人々と共に生きていく態度を育成するための教育の充実を図る。」と明示している。


 「外国人」の記述に比して、「同和問題」の記述をどう評価するか。同和教育を人権教育として再構築するというなら、同和教育の普遍性の部分と個別課題の部分を整理した上で、「外国人」のように具体的な課題を記述すべきだ。1996年以降の「政府系」文書には、一貫してそれがない。なぜか。私は、そこに政治的な意図を感じている。

 

 この文書は、2002年の法切れから10年が経過した現状を踏まえ、人権教育とは何かを明らかにすることを目的に書いている。


 私は私なりに同和教育を人権教育に再構築しようとしてきた。しかし、それは「政府系」の再構築とは、部落問題の扱いにおいて最も大きく異なっている。そして、それは最近の人権教育の流れに対する違和感と共通する感覚である。