教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

人権教育のカリキュラムを創る⑤

人権教育のカリキュラムを創る

第1章 人権教育のカリキュラムづくりにあたって
1.人権教育の概念
 (1)人権教育とは
 (2)同和教育を人権教育として再構築する           以上①で紹介
2.人権教育の構想
 (1)同和教育が拓いた地平と残した課題
 (2)人権教育の「本体」と「土台」
 (3)普遍的アプローチと個別的アプローチ
 (4)人権教育のカリキュラム構想               以上②で紹介
第2章 「人権の基礎」について考える~「セルフエスティーム」に着目して~
1.「人権の基礎」を構成する4つの力
 (1)「人権の基礎」を構成する4つの力
 (2)「人権の基礎」を構成する4つの力の関係         以上③で紹介
2.「セルフエスティーム」について考える
 (1)「風船型」と「いがぐり型」のセルフエスティーム
 (2)「風船型」と「いがぐり型」の関係            以上④で紹介


第3章 「普遍的な視点からのアプローチ」による人権教育について考える

 

1.「普遍的な視点」=「人権一般」ではない

 

 「部落問題を人権一般に埋没させてはならない」という主張がある。この文脈において、「人権一般」は「普遍的な視点からアプローチする人権教育」とほぼ同じ意味で使われている。きわめて「個別的」な課題である部落問題を、人権教育の名においてないがしろにしてはならないという主張である。


 一方では、「同和教育は終わった。これからは人権教育だ」という主張もある。ここでは、「同和教育」=「部落問題学習」、「人権教育」=「普遍的な視点からアプローチする人権教育(人権一般)」の意味で使われている。


 いずれにせよ、「普遍的な視点からアプローチする人権教育」は「部落問題学習」と対置する形で私たちの前に登場した。そして、「部落問題」の対立軸として語られるだけで、「普遍的な視点」とは何かといった議論は皆無に近かったように思う。


 「普遍的な視点」=「人権一般」ではない。本稿では、「個別的な視点」と対をなして人権教育を構成する「普遍的な視点」について整理しておきたい。この整理はきわめて重要である。なぜなら、人権教育の流れは、個別の視点を持たない普遍的な視点のみの教育(いわゆる「人権一般」の教育)に陥る危険性を常に孕んでいるからである。

 

2.「普遍的な視点」について考える

 

 (1)普遍的な視点

 

 普遍的な視点からアプローチする人権教育は、これまでの同和教育が体系的に取り組んでこなかった領域である。したがって、外国で進められているさまざまな人権教育のプログラムを参考に課題を整理し、それぞれの課題に応える教材を創っていかなければならない。主な課題としては、「子どもの権利」「基本的人権」「個人の権利」「葛藤・対立」「平等・不平等」「公平・不公平」「責任・義務」「ステレオタイプ」「偏見」「差別」などが挙げられる。

 

 (2)ステレオタイプ、偏見、差別

 

 ここでは、部落問題学習の課題を普遍化していくために、ステレオタイプ・偏見・差別という3つの概念の定義を行っておきたい。以下、岡隆さん(東京大学)の「ステレオタイプ、偏見、差別の心理学」(『現代のエスプリ』1999.7、p.6~9)より引用させていただく。


  ステレオタイプ


 ステレオタイプ(stereotype)という言葉は、1798年に、印刷用の原型から作り出される鉛版を表わすために造語された。この言葉を、最初に社会科学に持ち込んだのは、アメリカのジャーナリストであるウォルター・リップマンの著書『世論』(1923)である。彼は、ステレオタイプを、さまぎまな社会的集団に関する「私たちの頭のなかの画像(picture)」と定義した。人びとは、客観的な現実に対して反応しているのではなく、人びとが心のなかに作り上げた表象に対して反応しているのである。このステレオタイプ的表象は、現実の部分的な表象であり、それは、選択的、自己成就的、自民族中心主義(ethnocentrism)的である。このステレオタイプは、教育や批判に抗い、現実の変化に即応しない頑なさ(rigidity)をもち、多様性や個性を無視して過度に一般化されたイメージ、バイアスのある誇張されたイメージを提供する。


 定義についてはさまざまな点で議論が分かれるが、その核は、ステレオタイプは、ある社会的集団やそれに属するメンバーの属性に関する人びとの信念(belief)であるという部分であろう。


  ②偏見


 偏見は態度(attitide)のひとつと見なされてきた。態度とは、ある対象に対する好き嫌いの評価を伴う反応傾向である。ステレオタイプが、ある社会的集団やそのメンバーの属性に関する信念であるのに対して、偏見は、ある社会的集団やそのメンバーを肯定的または否定的に評価する心的準備状態である。ただし、ステレオタイプ的信念の内容は、肯定的である場合もあれば否定的である場合もあるが、偏見は、否定的な態度と考えられている。


 態度は、認知と感情と行動の三つの成分から構成されると伝統的に考えられてきた。ジョン・ハーデイングらは、この考えに従って、偏見を、認知的成分(ある社会的集団に関する知覚、信念、期待)と感情的成分(その集団に対する嫌悪、敵意)と行動的成分(その集団に対する拒杏や攻撃など)で特徴づけた。このように、偏見がこの三成分を含むという考えがある一方、偏見を、主に態度の感情的成分に位置づけ、その認知的成分にステレオタイプ、行動的成分に差別行動を主に位置づけて考えることもできる。


  ③差別


 偏見は態度と定義されてきたが、差別(discrimination)は、ある社会的集団のメンバーに対して選択的に行う否定的な行動である。ゴードン・W・オルポートは、外集団に対する拒否的行動を、その強度が弱い順に、誹誘(antilocation)-回避-差別一身体的攻撃-絶滅(extermination)に分類するなかで、差別の位置づけを行い、差別を「個人あるいは集団に対して、その人たちの望んでいる平等な待遇を拒否」する行動と定義した。国際連合規約では「差別とは、自然的、ないしは社会的カテゴリーに根拠をおく区別をもとにしてなされた一切の行為を含む。ここでのカテゴリーには、個人的な能力とか美点とか具体的行為は無関係である」と定義されている。


  ステレオタイプ、偏見、差別の関係


 ステレオタイプ的信念が、偏見や差別の基盤となり、ステレオタイプと偏見と差別が一貫した関係をもっている。人びとは、ある社会的集団に対する否定的な信念に基づいて、その集団に対する否定的な偏見感情を抱き、差別行動をとるのである。しかし、それと同時に、人びとは、否定的なステレオタイプをもっていても、必ずしも偏見を示さず、偏見をもっていても、必ずしも差別行動に現わさないことがある。ステレオタイブと偏見の関係については、たとえば、人びとが意識的に否定的なステレオタイプの抑制に成功すれば、偏見に基づく反応が生じないであろう。偏見と差別の関係は、態度と行動の(非)一貫性の問題として扱われている。たとえば、行動が態度だけでなく、差別を禁じる主観的規範によっても左右されること考慮すれば、偏見と差別との非一貫性が予想できるであろう。