先日、ある公立高校の校長先生と話す機会がありました。
その高校の生徒たちは、車で学校敷地内に入ると立ち止まってあいさつをしてくれます。あいさつの言葉は明瞭で、態度もきびきびしています。それも、やらされてる感が漂っていないので、すがすがしいです。
そのことをお伝えしたら、校長先生がおっしゃいました。
私は着任以来、生徒に「あいさつ」を求めてきました。
と同時に、先生たちにもお願いをしてきました。
「生徒があいさつをしたら、必ずあいさつを返してやってください。決して無視をしないでください。」
「生徒が立ち止まってあいさつをしたら、どんなに急いでいても先生たちも立ち止まってあいさつをしてやってください。」
「あいさつを交わしたら、できれば一声添えてやってください。」と。
あいさつだけなら、犬でもしますもんね。
大事なのは、あいさつの向こうです。
含蓄のあるお話でした。
お話を聞きながら、私は、私の中で長年のテーマになっている問題について思いを巡らせていました。
そのテーマというのは、1つは「教育」と「調教」についてで、もう1つは「教育の敗北」と「敗北の教育」についてです。
まず、「教育」と「調教」について。
生徒指導の場面で、子どもにきちんとさせることは大事なことです。きわめてきちんと指導される担任のクラスでは、子どもたちはそれなりに規律正しい生活をするようになります。
問題は、担任以外の授業時間、あるいは担任不在時の生活です。ときに耳目を疑う子どもの姿に出会うことがあります。
私は考えます。このクラスの担任は確かに熱心に訓練して教えてきたのだろうけれど、それは「教育」だったのだろうか、それとも「調教」だったのだろうかと。
ある目的をもって訓練することが「調教」です。その訓練を「教育」と呼ぶには、子どもの育ちがなければなりません。
高校の話に戻りますが、別の高校では礼儀正しさに違和感を覚えたことがありました。すがすがしい礼儀正しさと違和感のある礼儀正しさの違いは、それが「教育」であるか「調教」であるかの違いだと思います。
そして、訓練が「調教」に終わらず「教育」に昇華するカギは、件の校長先生の言われた「あいさつの向こう」があるかどうかだと感じています。
つづいて、「教育の敗北」と「敗北の教育」について。
「教育の敗北」・「敗北の教育」というのは、私の若い頃の造語です。
ある高校へ出向いた時のことです。
学年集会でお話をさせてもらったのですが、公演中に私語が途切れることは片時もありませんでした。先生たちは時には怒鳴りながら注意しておられましたが、状況は何ら変わりませんでした。
次の年もその高校へ出向きました。私語が絶えない状況は前年と同じでした。
その次の年も、私語の多さは全く変わりませんでした。
この状況をどう考えればいいのでしょう。
「みんなが集まったら静かにする」「人の話は静かに聞く」ーー小学校で繰り返し指導している集団規律の1つです。
私語が絶えない状況が3年も続けば、それはたまたまではなく、この高校の「伝統」になってしまっています。最低限の当たり前が当たり前でなくなっている状況というのは、「教育の敗北」以外の何ものでもありません。
最初に出てきた高校と偏差値レベルでは有意な違いはありません。あいさつをしない生徒がこぞってこの学校を選んでいるとも考えられません。生徒の質の問題にしてはなりません。先生たちが変わらない限り、この学校は再生しないでしょう。
別の高校、先ほど礼儀正しさに違和感を覚えたと書いた高校です。
先生たちの細やかな指導があって、礼儀正しくあいさつができる生徒たちになったのでしょう。そのご努力には頭が下がります。
問題は、先生たちが生徒たちの現状をどう評価しているかです。
つまり、あいさつができるようになったことに満足しているのか、それとも「あいさつの向こう」をめざす通過点と位置づけているのかです。
きちんとさせることが教育の目標・目的になっているとすれば、それは「敗北の教育」だと私は考えます。そこに自立した子どもの育ちを思い描くことはできません。
教育とは、「あいさつの向こう」にあるものを問い続ける営みなのですね。