教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「教師力」とは何か

「教師力」とは何か

 

「○○力」をテーマにした本がいくつもあります。ふと、「教師力」ということについて考えてみました。その思索の小径を書き記してみたいと思います。

 

 

教育が何かしら困難に直面するたびに、「教師の資質向上」という処方箋が出されます。「教師の資質」の中身は、処方箋の内容、つまり文科省(教育委員会)が実施する研修会を精査すれば概要をつかめます。

 

果たして、「教師の資質」=「教師力」なのでしょうか。


結論から言うと、私の考える「教師力」は、文科省の言う「教師の資質」と重なる部分もありますが微妙に違う気がします。そして、この違いこそが「教師力」の本質的部分だとも考えています。

 

「教師力」を構成する要素は数多くあります。

教科に関する知識、授業力(授業技術)。児童理解の力、指導力(指導スキル)。--大雑把な括り方をすれば、これが「教師の資質」ということになるでしょう。

視点を変えれば、これらは教職の専門性に由来する力という言い方ができます。だからこそ、教職研修のテーマになっているのですが…。


ところが、教育現場の実感として、これとは別のもう一つの座標軸があるように思うのです。そして、それこそが「教師力」の核になる部分だと考えています。

実を言えば、これから述べることは教職の専門性に由来することではありません。極めて普遍性のある、社会人としての力量と考えて良いでしょう。

 

つまるところ、社会人としての力量を磨くことが「教師力」を高める本質的部分だというのが、私の主張の結論です。

 

 

「木を見て森を見ず」という諺があります。

それは、教育の現場でも、非常にしばしば目にする光景です。

 

求められているのは、「木を見ると同時に森も見る」力であり、「木を見て森を思い描く」力であり、「森の視点から木を見る」力なのです。

--仮にこれを「森を見る力」と名付けるとしましょう。

この「森を見る力」というのが、我が「教師力」論の核心であります。

 

 

ところで、「森を見る力」の視点は、教育界でも耳慣れてきた「メタ認知力」の視点と重なります。

現実の自分を見つめる高次の自分の視点があって、それが現実の自分をコントロールするというのが「メタ認知力」。子どもに必要だと言われている力と、自らに求められている力は、その視点の置き方において本質的に差異がありません。

 

 

さて、「森を見る力」を教育の場に引き寄せて、少し具体化しましょう。


私はかねてより、教育の「縦糸」と「横糸」ということを言ってきました。「縦糸」は教育理念であり、「横糸」は具体的な教育実践です。

つまり、どんな学級集団をめざすのか、子どもたちにどんな力を付けたいのかという理念や目的がまずあって(これが「縦糸」)、それを達成するための手段・方法として教育実践があります(これが「横糸」)。

1つひとつの実践は、子どもにとっては目的であるが、教師にとっては目的であると同時に目的を向かう手段です。
それは、学級集団作りという年間を通したものから、1単元の指導、1時間の授業に至るまで、然りです。


ここで言う「縦糸」が先の諺の「森」であり、「横糸」が「木」ということになります。

多くの知識やスキルを駆使して準備された授業なのに、研究授業の前後が見えてこないといった光景に出合うことがあります。まさに「木を見て森を見ず」状態で、「縦糸」がしっかりしていないのに「横糸」ばかりを主張するからそうなってしまうのです。

 

 

この稿において、「俯瞰する力」といったような確立された一般名詞でなく、「森を見る力」などという造語を用いているのには、私なりの理由があります。

この力は一般名詞で固定化するよりも、漠然とした言葉の方がよいのです。「森を見る力」というのは、いくつもの力の集合体として在るからです。

 


いくつもの力から3つ挙げるとすれば、論理力、想像力、創造力でしょうか。


想像力(イマジネーション)と創造力(クリエーション)は、「森を見る力」の必要条件(前提条件と言った方が適切かもしれない)です。気になる子どもに思いを馳せる、ことの行く先を思い描く、そしてよりベターな方策を生み出す。これは教育活動の出発点です。


論理力というのは、 筋道を立てて考え、根拠に基づいて判断し、分かりやすく表現する力をいいます。ある研究校は、論理力を比較・分類・分析・評価・選択・推論・構想の7要素に整理しました。平易に言えば、筋道を立てて教育活動を構想していく力ということです。

 

想像力、創造力、論理力を核とする「森を見る力」を鍛える。と同時に、ツールとしての専門性を磨く。--それが私の思い描く「教師力」です。

 

 

小学校教師のキモ

 

小学校教師の「キモ」、つまり小学校教師の「教師力」として、私は「学級経営力」と「国語教育力」を挙げます。


「学級経営力」

学級担任が1日の学校生活の相当部分を担任学級の子どもたちと過ごす小学校において、「学級経営力」は絶対条件です。

さて、その「学級経営力」には、“子どもたちとの間にいい関係を築く力”と“子どもたちをうまく伸ばしていく力”という2つのファクターがあります。

 

 “子どもたちとの間にいい関係を築く力”というのは、子どもと仲良くすることでも、どもに言うことを聞かせることでもありません。

子どもと友だちか、或いは子どもの召使いかと思えるような教師もいます。空恐ろしいことですが、徹底したアメとムチによって子どもを従属させている教師も実在します。

自覚のあるなしに関わらず、子どもにとって教師は絶大な権力を持った存在です。先の教師たちは、一方は無自覚であり、他方は自覚した上でそれを悪用しているのです。

私たちは、職業上必然的に持てる「権力」に対して謙虚でありたいです。そして、子どもたちとの間に心地よい緊張感を保ちつつ、親しみを持って尊敬される存在でありたいものです。

“いい関係”というのは、絶妙のバランスで成立しているのです。

 

“子どもたちをうまく伸ばしていく力”は、「うまく」というのがミソです。

子どもの力を伸ばせない学級経営では意味がありません。先の子どもの召使い教師やアメとムチ教師の学級では、子どもの伸びはまず望めないでしょう。どちらがニワトリでどちらがタマゴか定かでありませんが、2つの力が相互に作用し合って初めて効果を発揮するのです。

さて、「うまく」についてですが、これは「計画的に」とか「戦略的に」といった意味合いで理解してほしいと思います。

例えば教科の単元計画を立てる時、子どもたちにこんな力を付けたいと考えて、授業の内容や方法を工夫します。

それと同様に、クラスの子どもたちにこんな力を育てたいと、おそらく学級経営案に書かれているでしょう。そのための年間見通し、子どもたちを鍛える場としての授業・行事の位置づけ…。そうしたものをちゃんと持っているでしょうか。

1例として「リーダー性を育てたい」のであれば、そうした役回りと場を提供しなければなりません。全校○○といった行事や運動会を目標に対してどの段階かを明確に位置づけ、そこで子どもを鍛え、成功体験を重ねさせることが大事なのです。

「計画的に」とか「戦略的に」というのは、そんな長期プログラムとノウハウのことなのです。


「国語教育力」

教師力のキモが授業力ではなく「国語教育力」であることに驚かれたかも知れません。しかし、私の長い経験から得た答えは、授業力一般ではなく、とりわけ国語教育力だということなのです。

 

私の言う「国語教育力」は、「国語科の授業力」よりもっと大きな概念で、日本語を操って教育する力といった意味合いのものです。日本人教師なら誰だって日本語を使って授業をしているじゃないかと言われそうですが、そうではありません。

「日本語を操って教育する」といのは、日本語指導の特性とか文法とかを押さえて授業をするということです。そして、その前提として、教師がそうした日本語の良き使い手であるということです。

 

教育委員会などは外国語(英語)指導の研修に強制参加させても、日本語指導の悉皆研修を企画したことなどありません。なぜか。彼我ともに、日本人なのだから日本語くらい使いこなせると思い込んでいるからです。

しかし、現実は違います。主述さえ整わない文章力の教師がいっぱいるし、日本語指導の特性を押さえられない国語授業が溢れています。そんな教師に、例えば他教科で論理の指導ができるでしょうか。


国語の免許を持っている人はともかく、社会科専攻の私自身がそうであるように、ほとんど教師は体系的に日本語指導を学んだことがありません。そんな教師たちが日本語の体系を教えているのですから、まるで詐欺のようなものです。

私は、筑波大学付属小の授業に出会って「詐欺師」である自分を自覚しました。私の学び直しテキストは、下村昇さんの『下村式・国語教室3 わかってる先生の読みとり講義』(論創社〈1999/06〉)という本でした。(詳細は、「国語力を鍛えよう」の項をご覧ください)

この学び直しと白石範孝さんの著書で自分がスッキリすると、国語の授業も随分スッキリしてきました。(白石範孝さんは筑波大学付属小の国語科教師で、2015年度末に定年退職。2020年2月現在、明星大学教育学部教授。著書は別の稿で紹介します)

すると、他の教科の指導まで不思議と整理されてきたように思います。曖昧で感覚的な表現をしていますが、日本語で指導し日本語で表現させているのだから、理に適ったハナシなのです。

国語教育力が育つと授業力そのものが向上するというのが、私の経験から得た教訓です。もしかすると自分も「詐欺師」の類いかもと思われたら、是非学び直しをお薦めします。