教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

計画はゴールから立てる ~私家版・仕事の流儀~

計画はゴールから立てる、文章は結論から書く。--これが、私流仕事の流儀です。

 

これは「教師力」というより「社会人力」と言った方がいいかも知れません。

それにしても、この力の弱い教師があまりにも多いように感じます。そして、それを致命的な欠如だと認識していないというのが、まさに致命的なのです。

 

説明文(論理的文章)の読解を想起してください。

まず、「はじめ(問い・話題提示)」と「おわり(答え・まとめ)」を読む。そして、「中(答えに説得力をもたせるための説明部分)」を読む。

なぜ、そうした読みをするのでしょう。

それは、伝えたい何か(答え・まとめ)がまずあって文章を書いたという、筆者のロジックに適っているからです。


私は文章を書く時、例えばそれが原稿用紙50枚の論文であるならば、まずは「目次」を作ります。そして、「章」(節・項)ごとの枚数を決めます。文章の体裁を整え、バランスをとるためです。その上で、「はじめ」と「おわり」を書きます。こうすれば論旨がぶれません。

 

文章作法が目的ではありません。言いたいことは仕事作法です。


計画はゴールから立てる。--ゴールは、締め切り日であることが多いです。つまり、仕事は締め切り日から逆算してプランニングしようということです。

それを昔は「段取り」と言いました。今風に言えば「工程表」、「プランニング」です。教科の単元指導計画然り、学校行事の計画然り、学級経営の年間見通し然りです。

 

 

次の文章は、ある年の運動会後に若い同僚教師に寄せた「私信」の一部です。そのとき彼は体育主任を務めていました。


        指揮者の仕事

指揮者は動かないというのがここでの結論です。なぜ動いてはダメかというと、全体が見えなくなるからです。まあ、山本直純という演奏中に動き回る天才指揮者もいましたが、それは極めて例外的です。


体育主任というのは、運動会における指揮者の仕事です。常に全体が見える所にいて、必要に応じて指示を出します。これもまた例外的に演奏者も兼ねる指揮者がいますが…。しかし主たる役割が指揮者であることに変わりはありません。


全体が見えるということは、すべての奏者は目を上げればその先に指揮者を捉えることができるということです。それが演奏に安心と安定を与えるのです。


           (中略)


指揮者は全体が見える位置にいて動かないという鉄則は、子どもへの指導にも生きてきます。

たとえば、応援練習では団長は動くなという指導を徹底します。団長のAくんが低学年を呼びに行こうとしたとき、私は「きみはここにいて、副団長に行ってもらいなさい」と言いました。また個別の指導に動いた時には、「近くにいる高学年に指示をしてやってもらいなさい」と言いました。こうしてリーダー(指揮者)としての役割を教え込んでいきます。

似たような場面は、6年生を送る会での司会役や全校遊びのゲームリーダーを指導する時にもあります。高学年の指導には欠かせない教育技術の1つと言えそうです。


ここで翻って全校ダンスです。

指揮者は明白です。奏者も明白です。では、先の子どもの例における「副団長」や「高学年」は誰だったのでしょう。これは職員集団であるはずなのですが、現実には存在しませんでした。指揮者の指示がなかったことが主因です。その結果、その場その場での細かな個別指導はできていませんでした。組織運営に若年の遠慮など不要です。


運動会で全校ダンスを発表するという「ゴール」に向けて、練習の日程表を作るだけでは不十分です。「全校」である以上、全職員(少なくとも全担任)が指導のどの場面でどんな役割を果たすのかという工程表が要ります。


           (後略)

 

例はたかが運動会の1場面ですが、組織運営の力はこうした経験の積み重ねの中で培われるのです。そして、教師が力をつけることで、結果として子どもの力を育てることができるのです。

場面は小さいですが、その意味するところは決して小さくはありません。

 

 

計画はゴールから立てるという「仕事作法」は、前に書いた「森を見る力」の具体的表現の1つなのです。