教科書を使って日々行われている授業というのは、「表(おもて)の教育プログラム」です。
それに対して、「表(おもて)のプログラム」に隠れた形でじわり浸透していくのが、「隠れたプログラム」です。
「隠れたプログラム」という言葉や問題意識は、近年の人権教育では比較的ポピュラーなものです。
「隠されたプログラム」という言葉はほかでは見かけませんが、一般的に使われる「隠れたプログラム」と基本的には同義語です。
「隠れた」というと、知らないうちに、意図せずにといった色合いが強いです。
前回、教師の指導が子どもたちに伝える意図しないメッセージについて書きましたが、それが「隠れたプログラム」なのです。
それに対して「隠された」は、隠した人の意図的な臭いがします。
敢えて「隠された」としたのは、それがマイナスメッセージであるとき、隠れていることに無自覚でいることはあなたが意図的に隠したのと結果的には同じだという「自覚」を促したいがためです。
さて、「隠されたプログラム」の「隠された」についてです。
「大きなかぶ」というロシア民話があります。
文字化された部分、あるいは挿絵で表現された部分が、「表(おもて)のプログラム」です。読者は、そこから「力を合わせることの大切さ」というメッセージを受け取ります。
このお話では、おじいさんの次におばあさん、そして娘、犬、猫、ネズミの順に登場します。
なぜ、この順番なのでしょう。なぜ、力の強い者から弱い者の順に出てくるのでしょう。
ここに、作者トルストイが恐らく意図的に隠したメッセージがあります。「どんなに微力であっても…」というメッセージです。
物語にしろ説明文にしろ、作者の意図・主題というのは意図的に込められたメッセージ、つまり「隠されたプログラム」と言えます。
教育において「表のプログラム」というのは、年間計画に基づいて計画的・意図的に展開される学習を指します。
では、マイナスのメッセージを伴った「隠れたプログラム」とは、どういうものなのでしょう。
ここに、少し前に使われていた算数の教科書(小学3年)があります。
まずは上の挿絵について、男の子と女の子の服装と色を見てください。
男の子はズボン、女の子はスカートです。
男の子は青系色が多用されているのに対して、女の子は赤系色が多用されています。
服装や色の固定観念は、「男らしさ・女らしさ」の象徴です。最近はファッションもカラーコーディネートも多様化していますので、以前の固定観念は崩れつつありますが…。
しかしなお、学校のそこかしこに名残が残っています。制服の規定であったり、上履きの色であったり、さらにはロッカーに貼ったシールの色であったり…。
この挿絵も同じ教科書のものですが、男の子も女の子もズボンで、色使いも男の子が赤で女の子が青と逆転しています。
これは、決してたまたまのことではありません。
服装や色の固定観念が生きにくさの温床となり、時に男女差別に繋がってきました。教科書の挿絵もまた、社会に空気の如く存在する固定観念を、無意識のうちに子どもたちに教える「隠れたプログラム」の役割を果たしていたのです。
そうした指摘を受けた教科書会社が、意図してこのような挿絵を用いるようになったのです。
次は、働いている場面の挿絵です。
家事をするお母さんと外で働くお父さんの挿絵で、性別役割分業に関わる問題です。
こうした性別役割分業もまた、社会通念として「当たり前」に存在してきました。男女共同参画社会ということが言われて久しいですが、女性の社会進出を阻んでいる根っこがこれです。ここでも教科書は、「隠れたプログラム」の役割を果たしてきました。
これは先ほどの2枚と真逆の挿絵です。男性が家事を担い、女性が外で働いています。
これもまた、指摘を受けた教科書会社が、子どもたちに「隠れたプログラム」を提供することのないようにと意図して用意した挿絵です。
いずれもみな、算数科の教育内容=「表のプログラム」とは何の関係もありません。しかし、繰り返し目に触れ、耳にすることで、無意識下に醸成されていくものの見方・考え方・価値観というものがあります。「隠れたプログラム」とはそういうものです。
無意識に隠れているプログラムを意識する感性が求められます。意識的に隠されているプログラムを注意深く見抜く感性が求められます。その感性は、子どもの前に立つ教師の人権感覚に依拠しています。あなたの人権感覚です。