順番が後になりましたが、ブログ「教育逍遙」開設の「口上」です。
二松学舎大のアンドロイド夏目漱石が公開されたとき、ふと考えました。
めざましい進化を続けるAI(人工知能)が、近い将来教壇に立ち、教師に取って代わって授業をするようになるのだろうかと。
教師の職にある人もそうでない人も、「そんなことはあり得ない」と答えるでしょう。私も、そう思います。人間教師にしかできない教育の「機微」というものがあるのだよ、漱石くん。
にもかかわらず、一方で私は、AI教師の登場を心待ちにしているのです。なぜでしょう。
答えははっきりしています。
AI教師によって救われる子どもが数多いると思えるからです。
理由は大きく2つあります。
1つ。
AI教師は、ポイントをきちんと押さえた授業をすることが期待できるからです。
教育内容はすべてプログラミングされているわけだから、ハズレの授業はなくなるはずです。子どもたちとの対話により授業の難易度を調節するくらいは、進化を続けるAIにはさほど難しいことではないでしょう。
2つ。
AI教師は、子どもを公平に扱い、冷静に指導することが期待できるからです。
少しクールすぎるかもしれなませんが、「一人ひとりの子に寄り添って」などと過度な期待をしなければ十分OKでしょう。
近年、教師力と総体としての学校力の低下振りは、目を覆いたくなるほどにヒドイです。少なくとも私にはそう映っています。
ピントのずれたハズレ授業が溢れています。
依怙贔屓と脅しで子どもたちを支配する教師、自分の感情を抑えられずその日の気分で怒鳴り散らす教師がいっぱいいます。
教室には、教師の顔色を窺いながら、苦役の45分に耐えている子どもが少なからずいます。
そして、一概には言えませんが、ベテラン教師の中に上のような傾向が強いように感じます。そんな職場で、若い教師は、どこを見て何を学べばいいのでしょう。
21世紀末になっても、教育は人間教師によって行われるべきです。
そのためには、子どもにとって教師は尊敬と敬愛の対象でなくてはなりません。
退職前の2年間、私は若い人たちに向けて「教育の森」というメルマガを発信していました。若い人たちへのメッセージのつもりだったのですが、実際には中堅からベテランの域に達した人たちに反響がありました。
教師の職を離れ、もはや完全に外(そと)の人になりました。今さら口出しなどすれば、「年よりの冷や水」と疎ましがられるのがオチだと知っています。それでも敢えて筆を執ろうと思ったのは、「ポイントをきちんと押さえた授業をする」教師、「子どもを公平に扱い、冷静に指導する」教師が増えることで、子どもにとって教室が楽しい学びの場になることを願ってやまないからです。
本ブログ「教育逍遙」は、メルマガ「教育の森」時代の内容も含めて小学校教育の小径をまさに「そぞろ歩き」します。「年よりの冷や水」が、「ポイントをきちんと押さえた授業をする」力や「子どもを公平に扱い、冷静に指導する」力を鍛えるヒントになれば幸いです。