実は、一度だけ子どもを叩いたことがあります。
それは今から40年以上も前、教職に就いた年の1学期でした。
私は3年生のクラスを担任していて、そこにOくんがいました。ある日、彼がたばこを吸っていることが分かって、指導していた時のことです。悪びれた様子もないOくんを前に、私は「そんなことをしてはダメだ」と彼の左の頬を打ちました。その時、彼の目から涙がポロッと落ちました。
いまもその時の情景を思い出します。
Oくんはその後喫煙することはありませんでした。結果オーライですが、私は必要のない平手打ちだったと思っています。なぜ叩いたのかと問われれば、許せないという自分の感情をコントロールできなかったとしか言いようがありません。
教師になって5年目、こんな日記に出会いました。
たたかれなくとも (10月11日)
帰り道
通学路を通らなかった
まわりの子が
何かを言ったが
知らないふりをした
と、先生がやって来た
これはしかられる
いっせいに思い
頭を手でかくした
「たたけばちがう道を帰らなくなるか」
ふつうの先生 頭をたたく
でも ちがった
いつもと……
この言葉で知った
たたかれなくても知った
Oくんの1件以降、私は子どもを叩いたりする教師ではなくなっていましたが、この日記に出会って、「体罰で教えられることは、言葉で教えられる」という信念になりました。
いや本当は、体罰では言葉で教えられることの何分の一かしか教えられないのだと思います。自戒も込めて、体罰は教師の感情の昂ぶりや怒りのはけ口でしかないと断言します。私にとって、この詩は生徒指導のバイブルです。
体罰はダメとして、それでは懲戒は教育なのでしょうか。
学校教育法のいう「教育上必要と認められる」懲戒とはどんなものでしょう。
文部科学省通知「体罰の禁止及び児童生徒理解に基づく指導の徹底について」(平成25年3月13日 文科初第1269号)は 、「肉体的苦痛を伴わないものに限る」という限定条件をつけた上で、認められる懲戒として次の例を示しています。
・ 放課後等に教室に残留させる。
・ 授業中、教室内に起立させる。
・ 学習課題や清掃活動を課す。
・ 学校当番を多く割り当てる。
・ 立ち歩きの多い児童生徒を叱って席につかせる。
・ 練習に遅刻した生徒を試合に出さずに見学させる。
懲戒は「懲らしめ」です。
では、「肉体的苦痛を伴わない」居残りや、起立で何を「懲らしめ」て「戒め」ようとしているのでしょう。
こころです。
では、心を「懲らしめ」てどうしようというのでしょう。
教師は善人であるという前提で申し上げれば、反省を促すためです。
さて、ここで立ち止まって考えます。
仮に子どもが始業から10分も遅れて教室に戻ってきたとします。
「いつまで遊んでいるの。これで何回目だと思ってるの。立ってなさい。」
指導の目的は、子どもの行動改善にあります。この場合だと、次からは始業の合図で教室に戻るようにさせたいわけです。
立たせることが最善の指導だったのでしょうか。懲戒を伴わない言葉かけはないのでしょうか。
立たされた子どもは反省し、戒めとするでしょうか。
心を「懲らしめ」られたことが、心の傷になったり怨みになったりすることはないのでしょうか。
そもそも、懲戒権を行使した時点で、あなたは教え育むという営みを半ば放棄していませんか。
さらに心配なことがあります。
それは、マイナスの擦り込み効果です。
特定の子が繰り返し懲戒の対象になっている、あるいは懲戒に近い注意を繰り返し受ける対象になっていることはないでしょうか。
その時、周りの子たちはその子をどう見ているでしょう。
あなたの指導が、「ダメな子」「仕方のない子」というレッテル貼りになっていることはないでしょうか。「ダメな子」だから「懲らしめ」られても当然と思わせてしまっていないでしょうか。それは、いじめや疎外の温床になりかねません。
教師の指導が意図せず子どもに教えてしまっている。擦り込み効果とはそういうものです。
私は、体罰のみならず懲戒という行為においても、教師の感情の昂揚が大きく関わっていると感じています。もしも教師が冷静に指導できていたら懲戒ではなく建設的な指導になっていたというのが、「認められる懲戒」の大半ではないでしょうか。セルフコントロールがうまくできるトレーニングを実践しませんか。
「懲らしめる」ことで子どもを導くなどという発想を一度捨てることから仕切り直してみませんか。