教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

Repost: 教師入門⑦ ~歩き始めた先生たちへ4~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

授業のキホン

 

同じ教科書を使って授業をしても、教師それぞれの個性というかクセのようなものがあるものです。それは案外教師になって最初の1、2年の間に基礎が形成されていくように感じます。だからこそ「キホン」をしっかり身につけてほしいと願うのです。


高度なテクニックや独創的な工夫など、教師になったばかりのころは必要ありません。いや、むしろ独創的な工夫などしてはいけないとさえ思います。変な工夫をして、その結果的外れな授業にしてしまった例を、私はいくつも見てきました。「キホン」ができてないのに独創的な工夫などすれば、それは砂上の楼閣になること必定です。

 

では、授業の「キホン」とは何で、どこで学ぶのでしょうか。

 

だれもが手にすることができるツールは、教科書の赤本(赤い字で書き込みのしてある教師用教科書)と教科書会社が作っている指導書でしょう。かつては教科書批判も随分しましたが、普通学級における特別支援教育が言われるようになってからの教科書はかなりいいと感じています。赤本や指導書に忠実な授業ができれば、少なくとも的外れな授業はなくなるはずです。

 

そんなお仕着せはつまらないと思うかもしれません。

ですが実際には、赤本や指導書に忠実な授業ができる教師はそれほど多くないのです。

 

具体的に話しましょう。

国語の教科書を見ると、教材名の前に単元名と単元のねらいが書かれています。単元のねらいは、学習指導要領の指導内容と合致しています。このねらいを学ぶ手立てが、単元の最終ページに「学習のてびき」などの形で出ています。

まずは、これを拠り所に授業を組み立てるとよいでしょう。参考書は赤本と指導書です。

実際の授業には子どもの実態等を勘案した工夫が必要になります。ここでいう「工夫」は先に書いた「独創的な工夫」とはまったく別物です。「工夫」の前提として、「てびき」や指導書の該当箇所を何度も何度も読み込んでみましょう。そして、1時間の授業のねらいや指導のポイントを読み取ります。その上で、そのねらいを達成するための学習活動をどう組み立てていくかを工夫すればいいのです。


残念な例ですが、「学習のてびき」を朗読させ、「登場人物の気持ちの変化を読み取る」という部分を板書し、「では、読み取りましょう」と切り出した授業を見たことがあります。いや、これでは授業とは言えません。

「変化を読み取る」ことはねらいであり、1時間の授業の達成目標です。ねらいを達成するための活動が授業であり、どんな活動をどのように差し出すかというのが「工夫」です。

 

算数の教科書は、随分親切になりました。感覚的な表現ですが、「中の下」「下の上」くらいに位置する子が救われるものになっていると思います。

例えば「わり算の筆算」を見ると、筆算の計算手順が実に親切丁寧に書かれています。教師がその通り親切丁寧に指導し、定着するまで手順を手抜きせず繰り返させれば、大部分の子どもがマスターできるはずです。最もダメなのは、教師が安易に手順の省略を認めることだです。


教科書の「親切丁寧」さは、子どものつまずきのメカニズムと密接に関係しています。詳しくは別の機会に触れます。

特別支援教育の視点を踏まえた教科書編集の意図を理解しない教師の指導が、基礎・基本でつまずく子を大量生産している現実だけは心に留めておいてほしいと思います。

 

つまり、赤本や指導書に忠実な授業をするというのは、文字化された授業の流れを十分に咀嚼し、文字化されていない筆者・編者の意図も含めて具体的活動に落とし込んでいくということです。

「学ぶ」は「真似ぶ」が転訛したものとの説もありますが、教師になって最初の1~2年は徹底して真似ましょう。そして、授業を組み立てる基礎力を手に入れましょう。

 

その上で、授業の「キホン」として、2つだけ加えておきます。


1つは、教師の目線の位置です。


すべての子にわかる授業と言葉で言うのは易しいですが、実際にはなかなかそうはいかないないものです。しばしば陥るのが「できる子」に依存した授業です。たしかに授業はスムーズに進みますが、理解できていない相当数の子を取り残しています。


すべての子にわかる授業の工夫は少し先に置くとして、まずは授業のレベルをクラスの平均よりもやや下の子に合わせる習慣をつけてほしいと思います。それが教師の目線の位置です。目線の位置が定まれば、経験値から集団の実態を読み取りレベルを上げ下げできるようになります。


「できる子」に依存した授業が当たり前になっている教師は、できないことを子どものせいにしてしまいます。苦しんでいる子をいっそう苦しめ、それでいて平気です。そんな教師の轍を踏まないためには、最初に自分の立ち位置を定めることです。

 

もう1つは、禁句です。


教師が無意識に多用する言葉に「わかりましたか」というのがあります。

しかし、これほど無意味で怪しい言葉はありません。分かっていないことを自覚して意思表示できるのは、いわゆる「できる子」たちです。分からない子は周りに合わせて何となく「はい」と言い、あるいは教師の心を忖度して「はい」と言っているのです。

「わかりましたか」は教師の自己満足、マスターベーション以外の何ものでもありません。「はい」の一言で授業が先に進んでいるなら、百害あって一利なしだと私は思います。


子どもが分かっているかどうかは、目と表情から読み取るべきです。禁句と言えば過ぎかもしれませんが、多用は禁物と心しましょう。