教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

アクティブ・ラーニングに至る道② 新学力観・生活科

臨教審答申が求めた「個人の尊厳」という意味での「個性重視」は、まずは保育所・幼稚園で見える化します。

一斉保育から自由保育やコーナー保育に軸足を移す園・所が多くなり、自分のやりたい遊びを思いっきり遊び込むようになります。

と同時に、小学校低学年の教室から教師の悲鳴が聞こえるようになりました。子どもがじっと椅子に座っていられなくなった、指示をしても言うことを聞かなくなった…。

 

小学校には、1989年改訂の学習指導要領として見える化します。

 

改訂のキーワードは、思考力・判断力・表現力などを重視した「新しい学力観」です。

【改訂の主なポイント】
・ 豊かな心をもち,たくましく生きる人間の育成
自ら学ぶ意欲社会の変化に主体的に対応できる能力の育成
・ 基礎的・基本的な内容を重視
個性を生かす教育の充実
国際理解を深め、国の文化と伝統を尊重する態度の育成
・ 小学校1,2年生の理科・社会科が生活科となる
生涯学習の基礎を培うために、体験的学習・問題解決的な学習を推進
・ 学校週6日制→隔週学校5日制の導入

 

「新しい学力観」を具体化する目玉として登場したのが「生活科」です。

学習指導要領は1992年に全面実施されますが、その前に先行実践が行われていました。その1つに群馬県高崎市の小学校があり、公開授業のあとには生活科「生みの親」とも言われる中野重人氏(文部省教科調査官・当時)の講演がありました。その日の感想を中野氏への手紙の形式で綴ったものがあります。

 

  文部省・教科調査官 中野重人殿


拝啓「生活科」生みの親のあなたへ

高崎での講演を拝聴致しました。非常に爽やかで説得力のあるお話を賜ったのではありますが、私、いくつか見解の異なる点がございますので、敢えて文書をしたため私見を披瀝させていただきとうございます。


1.詰め込み教育の責任は文部省にある


子どもたちが楽しそうに活動している「授業」の場面は、それはそれでいいことだと思います。

あなたはおっしゃいましたね。

「先生方、こんなふうに遊ばしていて学力がつくのかしら?果たしてこれが授業と言えるのかしら?と、お思いでしょう?……先生方が心配されているのは一体どんな力ですか? 読み書きの力ですか? 計算の力ですか? それは国語や算数の時間にやるわけで、それではどんな学力がつかないと心配されているのですか?(何もないと結論付ける)……先生方は今まで子どもに教え、覚えさせるという授業をしてきましたね。生活科は子どもの自由な発想を出発点にしています。教育観や授業観の転換を求めているわけです。そして、生活科が教育を活性化させる起爆剤になればと願っています。」(講演内容を私流に要約しています。)


ちょっと待ってください。

詰め込み教育に明け暮れ、その結果子どもに歪みを生んできた責任は、私たち現場の教師にあるんですかね。私たちは、文部省の作った学習指導要領と、文部省の厳しい検定をくぐってきた教科書に依拠して授業をさせられてきました。しかも、文部行政による厳しい教員管理体制のもとでであります。文部省に忠実であった私たちに今日の子どもの歪みの責任を問われるのはいささか心外であります。

同時に、文部省の反省の弁が一言もなかったことは、学校教育を進めていくパートナーとしては残念の極みであります。


私たち現場の教師が議論する時にお互いを戒め合っていることがあります。それは、“真摯で謙虚な総括なくして責任ある次の一歩は踏み出せない”ということです。ご参考までに。


ついでながら言わせていただきます。

小学校に入った途端に固い椅子に座って45分間の授業を受ける。それに順応できる子どもづくりを就学前に求めてきた事実もありました。本当にこれでいいのか、解放保育の豊かな実践に学びながら、教室と時間の枠を外した柔軟さを持ちつつ小学校こそが変わらなきゃならない。こうした主張をもう何年も前からしてきたのは、私たち現場の教師であったことを心に留めおきいただきたいのです。

さらには、子どもにとって遊びは教育であり、遊びの中で子どもは育つのだと言い続けてきたのも私たちなのです。

 


2.序列化の責任だって文部省でしょ


「生活科を起爆剤に」という話の中で、評価・評定に関するものがありました。
生活科については評価はするが、評定はなじまないと考えているというのが基本ラインですね。現在審議中であって、来春には結論を出すとのことですが、基本ラインには私も賛成です。今、文部省で話題になっているのは、生活科の3段階評定を止めるなら、体育はどうなんだ、図工はどうなんだ、音楽はどうなんだという問題だそうです。低学年においてこれらの教科の評定が廃止されるという可能性も相当程度あることに期待を表明します。


しかし、ここでも指摘をしておきたいことがあります。

中野さん、あなたは文部省の人間ですよね。あなたは自分の仕事を「起爆剤」だと自酔しておっしゃる。ところが、私たちにしてみればあなたは文部省の中野さんです。つまり、先ほどの項でも述べましたが、文部省が評定のあり方を議論する時、今までのどこに問題があったのかという総括がなければなりません。あなたの話にはそれがありません。


そもそも、3段階なり5段階に子どもを序列化して輪切りにしていくことに異議を唱えたのは私たち現場の教師でした。例えば、序列化することの矛盾に気付いた大阪の教師が音楽科において全生徒同一の評定をした時、文部省は直接的にしろ間接的にしろその行為を評価したでしょうか。この教師の行為が処分の対象になった時、教師を支持する一片のコメントでも出されたでしょうか。そうではなかったですね。

 


3.「道徳」を教えるより「生活」を


生活科の授業を見ていて気になることがあります。

どこへ行ってもよく似たことをしているのは、文部省が指導書に書かれたことを忠実に実践されているためですから、それでいいのでしょうか?

中野さん、あなたはきっと満足されていないですよね。しかし、これは現場の教師の発想の貧困さだけではないのです。実はそれ以上に文部省の示した枠からはみ出ない教師づくりをしてきた、積年の教員管理に起因しているのです。念のために申し上げておきます。


生活科の目標は自立の基礎を育てることだと言われます。そのためにどの授業でも道徳的なめあてが必ず設けられています。たとえば遊びの授業では遊び方のルールや心掛けを相談させるとか、工作の授業では危険のないようにするにはどうすればいいかを相談させるとかいった具合に。


私は思うのです。

子どもは遊びの中で育つという時、それは子どもの自発的な遊びであって、授業として組織されたものなど誰が想像したでしょう。加えて、私たち大人の仕事は子どもに転ばぬ先の杖を与えることではないと思うのです。子どもが転んだ時になかまの力も借りながら起き上がってこれる力をどうつけていってやるのかということが、私たちの課題だと思うのです。そのためには道徳を教えるのではなく、生活者としての子どもを育てるという視点が必要です。子どもに生活の術を教えるのではなく、生活を見つめ生活を切り開いていく基礎になる力を育てることが必要です。


実は、私が今述べているような力を育てようとしていたのが低学年の社会科であり、理科であったのですよね。遊び的活動はいいのですよ。私たちはその遊び的な活動も取り入れつつ、社会や自然を認識する力を育てようとしてきたのです。


ところが、生活科の授業での「郵便」は、郵便局までの道を覚えることや手紙の書き方・出し方の勉強であって、そこに働いている人の姿を通して社会認識につながる力を育てるという視点は見られませんでした。

落ち葉を拾い集めての「理科工作」の授業は、楽しく作ることや道具を扱うマナーを身につけることが目的で、それを通して自然認識につながる力を育てるという視点は消え失せていました。

私は、うがったものの見方かも知れませんが、社会認識や自然認識を育てないことが生活科の目的ではなかったのかと勘繰ってしまいました。

 


4.教育の道徳化はいただけない


「生活科が教育の起爆剤になれば」というあなたの期待を先取りした、6年の学級活動と4年の社会科の授業を拝見しました。

共通していたのは、子どもが前面に出た活動がとても活発で、教師はよきアドバイザーとして脇役に徹しておられたことです。見掛けの素晴らしさに一瞬目を眩まされそうになりながら、でもやっぱり私には気になることがあります。


学級会の議題は「1年生をどのように招待するか」でした。

技術的に完成度の高い学級会でした。しかし、給食などの手伝いにいっている1年生からお礼の手紙が届き、それに応えるために招待会をしようという発想が、まずもって道徳臭いと思いません? 討論を貫いていたのは、1年生の子に喜んでもらえるにはどうするかということでした。道徳的です。学級のもめごとや仲間の問題をめぐる学級会をぜひとも覗いてみたいですね。私は、確かに話し合いの技術も必要だとは思いますが、それ以上に子どもが何にこだわりを持ち何を問題として取り上げてくるのかということにこだわりたいと思います。


社会科の授業はグループで調べたことを発表する時間でした。

よく訓練された巧みな発表でした。川と地域の暮らしを教材とした学習でした。曲がりくねった川が真っ直ぐに改修され、それに伴って地域が発展してきたことを調べていました。

重要な落とし穴がありました。それは、川の改修がなぜ行われたかが一連の学習の中で明らかにされていないのです。従来この学習は氾濫を起こす川に対する地域の人々のねがいやたたかいを辿ることがテーマであったはずです。ここを抜きにして改修されたあとにどれだけの家が増えたかを調べても、意味がないのです。

くらしを高めるための先達のたたかいに学ぶ学習が、取材に協力してくれた人にお礼の手紙を書く作業に集約されていくのです。これが社会科の学習でしょうか。

 

生活科の思想を採り入れることが、学習を道徳化していくという事実。

中野さん、あなたは以前社会科の調査官をしておられましたね。専門家のあなたに口はばったいですが、これはもはや社会科学の学習ではありませんよ。社会が見えなくなる社会科など、存在意義がありません。


生活科の中で多用されている授業形態を採り入れることはいいのです。しかしすべての学習が自立の基礎=道徳化に向かうとすれば、それは教育の自殺行為です。大きな危惧を抱いて帰った私は、子どもたちを思うが故に敢えて苦言を呈した次第です。

 


5.本末転倒の議論「生活科」は何のため

 

「泣いても笑ってもあと1年半後には生活科に取り組んでもらわなきゃならない。」と、あなたは言われました。そういう時期に来ているからこそ、私はあらためて今なぜ生活科なのかを考えてみたいと思います。


生活科を創設することは、同時に低学年における社会科と理科を廃止することでした。確かにあなたは生活科の生みの親ではありましょうが、低学年社会科・理科の廃止を決定した責任者ではありませんね。つまり、低学年社会科・理科の廃止は文部省調査官のあなたでさえ手の届かないところで決まってきたものですね。そして、それは高校における社会科解体と一体のものですね。生活科は社会科・理科を潰して登場してきたことで、すでに目的の半分を果たしたと私は思っています。


ここからがあなたの手腕。言い方を変えればあなたの責任です。

詰め込み教育に対する批判や、今日子どもに見られる歪みの責任を、生活科は一手に引き受けようとしています。そして生活科を「起爆剤」としつつ、教育のあり様を変えていくのだと言います。それが、授業の形態としては子どもの主体的活動を前面に出し、内容としては道徳を身につけさせ、生活の術を教えることだと言うのです。


あなたは、まず生活科ありきという議論をなさいます。本末転倒の議論を忍の一字で拝聴致し、私はある確信を得るに到りました。それは生活科で教育の危機を救うことはできないということです。

詰め込み教育は、授業の形態を変えることで解決するものとは到底考えられません。大学制度や受験体制の抜本的改革な しには解決しないと私は考えます。

さらに、子どもの上に表れている「歪み」は、受験体制と子どもにきちんと生活を見つめさせる教育を蔑ろにしてきたことに起因すると思うのです。

私は、子どもに自分の生活を見つめさせ、しっかりと生活させることが必要だと思います。そのためには、社会認識・自然認識の基礎を育てる教育が従前にも増して重要であります。

「泣いても笑っても1年半後には取り組」まなきゃならない生活科を、私たちはそうした視点に立って作っていく所存であります。


諸々申し上げて参りました。失礼の段、若気のいたり、教育を憂えるが故の熱意とお許し下さいませ。


                                   1990年11月14日

 

 

「子どもの自由な発想を出発点にして、教育観や授業観の転換を求め」「生活科が教育を活性化させる起爆剤になれば」という中野氏の願いは早々に打ち砕かれ、本格実施を前に教科書が作成されます。

そのころにしたためた文章が次のものです。

 

 

        「生活科」批判


        (はじめに)


1987年12月24日に教育課程審議会の答申が出され、「生活科」の趣旨 の徹底を急ぐ文部省は、88年4月14日、「生活科学習会」(教育新聞社主催)を行った。この勉強会に集まったのは、多くが教科書会社であった。その時の資料の中に「生活科の活動参考例」という“年間計画”があった。果たして、今回私たちの前に姿をあらわした教科書は、ほぼその「参考例」に沿ったものである。


生活科は、地域社会が教材であり、直接体験を軸にしているので、教科書は不要だとされてきた。ところが、「先導的」実践段階での停滞に危機感を持った文部省が、教科書によって「生活科」の定着をはかろうとしたのである。こうして12社が教科書作成に着手し、ほぼ「参考例」に沿った“金太郎飴教科書”が登場し、全国一律の「生活科」がスタートしようとしている。

すでに文部省の「生活科」は破綻しているのである。

私たちは教科書に呪縛されてはならない。私たちの「生活科」は、教科書を離れ、地域と子どものくらしの中から出発しなければならない。これから記す大阪書籍版教科書への批判は、教科書(学習指導要領) を離れるための視点と読み取っていただきたい。

 

        (1年生、教科書批判)


        〔1〕うれしいな1ねんせい


本単元は、学習指導要領の内容1「学校の施設の様子及び先生など学校生活を支えている人々や友達のことが分かり、学校において楽しく遊びや生活ができるようにするとともに、通学路の様子などについて調べ、安全な登下校ができるようにする。」を受けたものである。
小単元①「みんなとともだちになろう」は、集団への適応という視点からではなく、個々の違いを知り合う営みという視点から捉えたい。
小単元②「がっこうたんけんをしよう」は、労働の学習の入り口として大切に扱い、それぞれの仕事ぶりをきちんと見つめさせていきたい。
小単元③「がっこうにくるみちをしらべよう」は、交通安全指導の内容として作られている。ここは、通学路をたどることを通して地域社会に目を広げていくという視点が欲しい。
       
        〔2〕いきものとなかよし


本単元は、内容5を受けたもので、飼育や栽培活動を通して「それらも自分たちと同じように生命をもっていることに気付き、生き物への親しみをもちそれを大切にすることができるようにする。」ことをねらいとしている。この生命観がひまわりの1本1本に名前を付けたり、暑いからと帽子をかぶせたりした、あの「先導的」実践を生んだ問題の単元である。
まず、栽培活動について見ていきたい。これは、〔2〕の小単元①「どんなはなをさかせようか」、②「はなのたねをまこう」から、〔3〕「ちかくのあそびば」の小単元④「はながさいたよ」、〔5〕「みつけたよあき」の小単元①「はなのたねをとろう」と続くものである。一連の栽培活動の中で、決して擬人化するのではなく、親しみを持って植物を育て、科学的にその成長を見つめることによって、自然科学の基礎を育てるという視点をきちんと持ちたい。
次に、飼育活動について触れておきたい。これは、小単元③「どうぶつとともだちになろう」がそれにあたる。飼育活動は、いのちの尊さにふれる性教育の入り口ともなるものである。活動では、誕生から死も含めて生命に付き合いきらせたい。この営みは、学級集団づくりの核ともなるものである。そして、それぞれの動物はそれぞれに違っているが、同じように尊い生命を持っていることを感じとらせたい。併せて、動物はお互いに他の生命を殺す(食べる)ことによって生きている事実に触れさせたい。
       
        〔3〕ちかくのあそびば


本単元は、内容3「近所の公園などの公共施設はみんなのものであることが分かり、それを大切に利用することができるようにするとともに、身近な自然を観察し季節の変化に気付き、それに合わせて生活することができるようにする。」を受けている。公共施設を大切に利用するという道徳を主たる目的としている。
小単元①「あそびばをしょうかいしよう」、②「こうえんへあそびにいこう」、③「いきもののようすをみてみよう」のあと、〔5〕「みつけたよあき」の小単元②「がっこうのまわりであきをみつけよう」、③「こうえんのあきをさがそう」
と続き、さらに〔7〕「ふゆをたのしく」の小単元②「さむさにまけないあそびをしよう」、③「こうえんでふゆをみつけよう」と続いている。
遊びを学習の中に採り入れること自体は賛成である。ただし、遊びは自発的なものでなくてはならない。決して仕組まれたものであったり、ルールを教えるための手段であってはならない。「秋」や「冬」への気付きは、季節への順応や適応のためでは決してない。この気付きは自然観察の芽を育てるものであるという視点をきちんと持ちたい。
       
        〔4〕たのしいあそび


本単元は、内容4「土、砂などで遊んだり、草花や木の実など身近にあるもので遊びに使うものを作ったりして、みんなで遊びを工夫することができるようにする。」を受けたものである。
単元構成は小単元①「すなやつちとあそぼう」、②「みずやかぜとあそぼう」のあと、〔5〕「みつけたよあき」の小単元④「きのはやきのみであそぼう」と続いている。ここでは「みんなで遊びを工夫する」ことが最終的なねらいになっている。そうではなくて、みんなで遊びを工夫する中で、科学的認識を育てるという視点が必要である。少なくとも従来の理科工作は、砂や土を使った遊びでは固まる土と固まらない土を知り、丸い石からは川の流れを知り、水や風のエネルギーを感じとり、木の葉や実からは季節を感じとることを主要な目標にしていたではないか。工作や遊びは科学に近づく手段であり方法であったはずだ。これは棄ててはならない。
       
        〔5〕みつけたよあき


         〔2〕、〔3〕、〔4〕の項を参照のこと。
       
        〔6〕わたしのかぞく


本単元は、内容2「家庭生活を支えている家族の仕事や家族の一員として自分がしなければならないことが分かり、自分の役割を積極的に果たすとともに、健康に気を付けて生活することができるようにする。」を受けて設定されている。要するに子どもが自分の役割に気付いて仕事をすることをねらったもので、小単元①「うれしかったことをおもいだそう」、②「かぞくの1にちをしょうかいしよう」、③「じぶんのしごとをさがそう」という構成になっている。
ここには、家事労働をどう教えるのかという視点がない。生産労働に子どもの目を向けていく視点もない。私たちは、日々の子どもの綴り方(日記等)を基盤に、家族の仕事をしっかりと見つめさせることを大事にしたい。家族の仕事と家庭生活の綴り方やつぶやきで一杯の教室を作りたい。そうした中で、子どもが家族の一員として仕事を受け持つことは、その延長線上に起こってくることではあるが、それは副次的なものであり、仕事をさせることが主たる目的であってはならない。従来の社会科の弱点を補強しつつ、一層すすめていくことこそ重要である。
       
        〔7〕ふゆをたのしく


         〔3〕の項を参照のこと。
       
        〔8〕もうすぐ2ねんせい


本単元は、内容6「入学してから自分でできるようになったことや日常生活での自分の役割が増えたことなどが分かり、意欲的に生活できるようにする。」を受けたものである。
この単元は、小単元①「1ねんかんをおもいだそう」でできるようになったことや行事を振り返り、②「おたのしみかいをしよう」でそれを発表しあい、③「1ねんせいをむかえるじゅんびをしよう」で締めくくられている。自分自身を教材にしているという、最も「生活科」的な単元であり、「意欲的に生活すること」 をねらいとしている。
成長を振り返るという時、自分自身の育ちとともに、友だちの育ちを認め合うことを大切にしたい。これは、友だちは一人ひとりが違った個性を持った存在であることを認め合う、日々の営みのうえに成り立つものである。その上に立って、学級集団の育ちを振り返ってみたい。この視点を失った時、成長は個々人の問題として適応指導の集大成となり、揚げ句の果てに障害児やできない者を排除していく集団に堕しかねない。

 

 

文部省が実践事例を示すと、ましてや教科書を作ると、現場はそれを頼りにし、それに縛られ、やがて思考停止に陥ります。

 

私は低学年を担任した経験がないので「生活科」の実践はありません。それでも校内研に声をかけてくれる学校がありました。

その日は、校庭の隅につくられた「公園」で遊んでいる場面でした。

その学校の運動場は里山につながっていて、周囲には自然が一杯ありました。それを活用することなく、運動場に公園を作って教科書通りの展開をしていたのです。

授業後の研究協議でそのことは指摘しましたが、意欲的に取り組もうとしている学校においてさえこの体でした。

 

生活科の「失敗」は、新学力観路線の停滞を意味します。

文部省のちの文科省は、この「失敗」から何を学んだのでしょう。

私が生活科のことを長々と書いてきたのは、それが次に登場する「総合的な学習の時間」の命運を暗示しているからです。