「針の穴から天井覗く」ということわざがあります。
私が見聞きする学校や授業は、地図帳の日本列島にチョンと突いた針穴のような世界。まさに「針の穴から日本教育を覗く」です。
しかし、「針穴」の風景が日本全体の風景の縮図であることもしばしばあるものです。
「針穴」の風景を眺めつつ、口を突いて出た言葉が「大丈夫か?学校!」「大丈夫か?授業!」でした。もちろんこれは反語ですから、全く大丈夫じゃないと感じているわけですが……。
今回の稿は、ICT教育と深く関わります。
まずは、この2年の間に発信した関連記事を振り返ります。
■2020.4.13 タブレットはコロナ禍休校を救えるか?!
この稿では、タブレット学習(オンライン学習)の課題として、
(最底辺の子、学習意欲が乏しい子の場合)この子たちには背中を押し、前に回って引っ張りといった個別支援が欠かせません。対面学習がセットでない限り、タブレット学習はこの子たちには届かないのです。
と指摘しました。
さらに、
再開された学校ではタブレット学習が加速度的に増えていくでしょう。時代の流れと言えばそれまでですが、そこには「個の学力」と「集団の学力」という古典的な課題が横たわっています。いずれ稿を起こしたいと思います。
と結んでいます。
■2020.7.6 オンライン授業への期待と危惧と
オンライン授業について、
小学校においては、それもとりわけ低学年においては、極力慎重であるべきだと思います。
もし導入するにしても、かつてのNHK教育番組のような完成された(=子どもに伝わる)ものを配信すべきです。お金で解決できる部分は、教育行政がその責を果たすべきです。先生の仕事は、完成された配信でも届かない子のフォローにこそあると思います。
気がかりなのは、授業の「質」です。それも、先生たちが一定程度のリモート授業スキルを身につけたあとの授業の「質」です。
知識を「伝達」することが主の授業は比較的ウマくいくのではないかと思います。
私が危惧するのは、心に揺さぶりをかけながら主題に迫る文学の読みの授業(一部の道徳の授業も含まれるかもしれません)、試行錯誤の摺り合わせの中から定理や公式を「発見」する算数の授業などです。
こうした授業は、適度に張り詰めた空気と緊張関係の中で成立するものです。私は、教師と子どもの「真剣勝負」の時間と位置づけてきました。授業は「生もの」です。私は教室という囲まれた空間の中で空気を感じ、表情を読み、勝負を仕掛けてきました。
モニター越しの子どもと、同じ緊張感を持ちながら授業を成立させることはできるでしょうか。大いに疑問です。
2年前の「危惧」は、いまなお「危惧」のままのような気がします。
■2020.7.7 個の学力と集団の学力 ~タブレット時代の学力考~
授業改革は教える側の問題であり、「集団の学力」をターゲットにしています。
学習の個別化は学ぶ側(学ぶ意欲)の問題であり、「個の学力」をターゲットにしています。
教える側からの学力アプローチ、つまり授業改革でめざしたのは、個々の子の学ぶ意欲につながる授業です。集団としての学びの質が高ければ高いほど、個々の子はそこから学び刺激を受けます。その結果として個の学力が高まり、それが集団の学びをさらに高めます。そういう学力の好循環を育てようとしたのです。
タブレット時代の入り口に立って感じるのは、機器に使われている教師と子どもの多さです。しばらくは機器に振り回され、過度に依存する時期が続くのでしょう。やがて機器をツールとして使いこなせるようになった時、立ち止まって考えていただきたいのです。
タブレットは育てようとする学力のどの部分を担い、それはあなたの授業にどう位置づけられるのでしょう。検証の軸は「個の学力」と「集団の学力」という古くて新しい永遠のテーマです。
■2020.11.6 GIGAスクール構想は学校を変える?
先生たちのスキルアップも必要です。
効果的な活用の研究も必要です。
これらは少し長い目で見守るしかありません。
それよりも気になるのは、「中途半端」な整備のありようです。
現段階の整備の完成形は、「1人1台の端末」と「高速通信網」までです。
その結果、教室はおよそ次のようになります。
まず、教室の前面には黒板があります。その脇に大型モニターが鎮座します。
教師は、黒板とチョークを使った指導をしつつ、必要に応じて小型端末を操作し大型モニターに映し出します。
子どもの机には、教科書とノートと筆箱と、さらにはドリルや資料集が乗っています。それに加えて、取扱注意、落下注意の端末が乗ります。
授業場面において、子どもは黒板に注目し、ときに大型モニターに注目することになります。視線の移動が大きいです。
この状況下で集中力を切らせる子どもがいます。
ノート、プリント、端末といった対象物の多さに対応しきれない子、整理できない子がいます。
「誰一人取り残すことのない、個別最適化された学びの実現」を標榜しながら、憂いを増大させる結果になりかねません。
「GIGAスクール構想」を本気ですすめるつもりがあるのなら、検討して欲しいことがあります。
紙の教科書の廃止です。「デジタル教科書も認める」ではなく、「デジタル教科書しか認めない」のです。物の煩雑さが解消されます。
教科書のデジタル化にあわせて、教室の黒板を撤去します。
前面の真ん中に大型モニターを据え、その左右は電子黒板になっています。少なくとも、モニターとシームレスな平面のホワイトボードであるべきです。教師にとっては、小型端末をのぞき込んだりすることなく授業が進行できる環境が提供されるべきです。こうした環境が整うことで、子どもの視線が落ち着きます。
子どもの机の上からアナログツールを原則として取り除きます。
デジタル端末がノートであり、プリントです。手書きペンの文字をファイリングしておけば、従来のノートと同様の使い方ができます。もちろん例外的にアナログツールを使うこともあるでしょうが。
現実の「GIGAスクール構想」はどこをめざすのでしょう、どこまで行くのでしょう。
いま、その幕が開きました。
上の記事を書いてから1年半になります。
デジタル教科書は一歩前進しましたが、「中途半端」な整備という評価を大きく変えるような現状ではありません。
■2021.2.15~19 デジタル教科書時代・2035年の物語
シリーズ④の記事を再掲します。
デジタル教科書時代の学力
2035年の教室。
デジタル教科書は、教室風景と授業風景を一変させていました。
教室に一歩足を踏み入れると…
黒板がありません。白墨の筆記音もありません。
かつて黒板が設置されていた教室前面は、巨大な「モニター」に変わっていました。(私の時代の言葉としては「モニター」ですが、今はこの巨大な画面を何と呼んでいるのでしょう。)
そこに教科書が大きく映し出され、先生が専用の「ペン」で書き込みをしています。
2020年の秋、GIGAスクール構想ですべての子どもたちにデジタル端末が配布されたときのことを思い出します。当時、私は次のように書いていました。
それよりも気になるのは、「中途半端」な整備のありようです。
現段階の整備の完成形は、「1人1台の端末」と「高速通信網」までです。
その結果、教室はおよそ次のようになります。
まず、教室の前面には黒板があります。その脇に大型モニターが鎮座します。
教師は、黒板とチョークを使った指導をしつつ、必要に応じて小型端末を操作し大型モニターに映し出します。
子どもの机には、教科書とノートと筆箱と、さらにはドリルや資料集が乗っています。それに加えて、取扱注意、落下注意の端末が乗ります。
授業場面において、子どもは黒板に注目し、ときに大型モニターに注目することになります。視線の移動が大きいです。
この状況下で集中力を切らせる子どもがいます。
ノート、プリント、端末といった対象物の多さに対応しきれない子、整理できない子がいます。
「誰一人取り残すことのない、個別最適化された学びの実現」を標榜しながら、憂いを増大させる結果になりかねません。
「GIGAスクール構想」を本気ですすめるつもりがあるのなら、検討して欲しいことがあります。
紙の教科書の廃止です。「デジタル教科書も認める」ではなく、「デジタル教科書しか認めない」のです。物の煩雑さが解消されます。
教科書のデジタル化にあわせて、教室の黒板を撤去します。
前面の真ん中に大型モニターを据え、その左右は電子黒板になっています。少なくとも、モニターとシームレスな平面のホワイトボードであるべきです。教師にとっては、小型端末をのぞき込んだりすることなく授業が進行できる環境が提供されるべきです。こうした環境が整うことで、子どもの視線が落ち着きます。
子どもの机の上からアナログツールを原則として取り除きます。
デジタル端末がノートであり、プリントです。手書きペンの文字をファイリングしておけば、従来のノートと同様の使い方ができます。もちろん例外的にアナログツールを使うこともあるでしょうが。
現実の「GIGAスクール構想」はどこをめざすのでしょう、どこまで行くのでしょう。
いま、その幕が開きました。
15年前の「夢想」空間が、いま目の前に広がっているのです。
「黒板」が変われば、「ノート」も変わりました。
デジタル端末がノートになっています。
デジタル教科書が変えたのは、「風景」だけではありません。
学びの「質」をも一変させていたのです。
私は、訪れた教室でデジタル教科書時代の「学力」を垣間見ることができました。
以前の教育は覚えることを重視してきました。そして、テストで「知識の量」を問い、それを「学力」として評価していました。もちろんそれだけではありませんが、知識偏重の教育と言われながら脱却しきれなかったのです。
デジタル端末を常時手にしているこの時代、覚えていることの価値などほとんどありません。知識など検索機能を使えば瞬時に取り出せます。すべての子どもが巨大な図書館を持ち歩いているのです。
授業で教えていたのは「知識」ではなく、「知識の取り出し方」、「知識の信頼性の確保」、「知識を活用する際のルール」といったことに関するものでした。
6年生の教室では、社会科で江戸時代の学習をしていました。
「江戸時代が265年も続いたのは素晴らしい時代だったからである。この主張に対するあなたの意見を、考えのもとになった根拠を示してまとめましょう」
いくつかのテーマから各自が選択して、調べたことをまとめます。
意見を持ち寄って、グループで討論するのがその日の内容でした。
賛成派の子は、文化の発展、米の生産高の増加などを取り上げていました。
それに対して反対派の子は、身分制度や、百姓一揆などを取り上げていました。
結論などありません。
各自のテーマに沿って資料を見つけ、信頼性を担保した上で必要な情報を取り出して、論理的に自分の意見をまとめます。そしてそれを発信します。
その一連の過程が学びであり、デジタル教科書時代の学力なのです。
訪問した学校を出ると、そこは2021年2月の街でした。
さあ、これから15年。デジタル教科書時代の幕が開け、どんな歩みを残しつつ2035年を迎えるのでしょうか。
2021年2月の街の風景は、そのまま2022年5月の風景です。
■2021.2.22~25 「個別最適化された学び」を考える
「誰一人取り残すことのない、公正に個別最適化された学び」の実現には、「ICT 環境を基盤とした先端技術や教育ビッグデータの効果的な活用」に大きな可能性があると、「新時代の学びを支える先端技術活用推進方策(最終まとめ)」といいます。
そして、「ICT 環境を基盤とした先端技術や教育ビッグデータの効果的な活用」の中心をなすのが「個別に最適で効果的な学びや支援」です。
果たして、「個別最適化された学び」構想は功を奏するのでしょうか。
30年前に私が手作りで似たようにシステムを模索したときは、子どものメンタル面へのアプローチがセットでした。AIのシステムには、それはありません。
AIを使いこなす教師がよほど教育者としての力を身につけていないと、無味乾燥なシステムの一人歩きになりそうな気がします。
杞憂に終わればいいですが…。
■2021.6.14 どうなるデジタル教科書時代
■2021.6.15 あらためてICT教育を問う
文部科学省が進める「GIGAスクール構想」は、学びを個別最適化し、創造性を育むと言う。
しかし「ICT(情報通信技術)教育が学力向上につながるというエビデンス(科学的根拠)はほとんどない」(佐藤学氏)。
というのです。
佐藤氏は、その論拠としてPISA2015報告書の「学校でコンピューターの使用が長時間になると、読解力も数学の成績も下がっていた」という事実を引きます。
その理由として、
○深い思考を育む先生と子どもの対話がコンピューターによって阻まれる可能性(PISA)
○従来の授業スタイルのままコンピューターを入れることの限界(PISA)
○今のICT教育の現場で使われるソフトの質(佐藤氏)
の3点を挙げています。
その上で、「GIGAスクール構想は20年前のコンピューター教育。協同で探究する学びに改革する必要」と結論づけています。
この短い文章において語られていることは、実に深いです。
PISAの分析や佐藤氏の指摘から言えることは、紙の教科書をデジタル化するだけではダメだ。もっと言えば、教え込み型の一斉授業が根底にある教育観ではダメだということです。佐藤氏が提唱してきた「協同的学び」(文科省の「協働学習」は似ているようで、異質)の教育観を、ICT教育の土台に据える必要があると思います。
次回は、こんにちの「危惧」の中身について書きます。