教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

保護者とは子育て協働の関係でありたい

学校と保護者の関係をいうとき、子育ての「協働」や「パートナー」などの言葉が使われます。

 

「協働」も「パートナー」も、学校と保護者の関係は対等で、子育てという同じ目標に向かって主体的に役割を果たす関係でなければなりません。

 

「言うは易く行うは難し」

 

若いころは、そんなことをあまり意識しませんでした。子どもが変われば保護者は理解してくれる、と考えていた部分もあります。

私にとっての変わり目は、9年間クラスや授業から離れたことにあります。その間に学んだことも多くありますが、再び教壇に戻った時は40代半ばになっていたという年齢的なことも大きいように思います。

 

あまりにも当たり前のことですが、学校の努力だけでめざす子どもの成長が完遂することはありません。

自身の子育て経験や学びの中で貯めてきた大事なことは、きちんと保護者に伝えなきゃダメだと考えるようになりました。

でもそれは、「協力」を求めるというものであって、なかなか「連携」、ましてや「協働」の域に届くものではありません。

 

「保護者とは子育て協働の関係でありたい」ーー志だけは高く掲げ、そのきっかけになってくれればと学級通信「おうちの方へ特集号」で伝えてきたいくつかを紹介したいと思います。

 

再び教室に戻った2002年、3年生の保護者に届けたものです。

 

■ おうちの方へ特集号■2002.6.28


永畑道子さんからのメッセージ


 随分古い話になりますが、今から17年前、1985年6月29日に永畑道子さんが「『いじめ』をめぐって」と題して講演をされました。その話の一部をテープ起こししました。時間は流れましたが、論旨は今も新鮮さを失ってはいません。どうかご一読ください。学級懇談でこんな話題で語り合えればいいですね。


--親に訴えたいこと--


 親子の関係が逆転しております。親が真ん中にいて子どもをはしっこにおきたいと思います。子どもは後で生まれてきた人ですから。これが子どもの自立を育てる子育てだと思います。一番働いている人、一番長く生きてきた人を大事にする、これ当たり前のことです。
 私は道徳教育という言葉自体は嫌いです。つまり、道徳に一番自信のない人が言い出したことですから。飲んだくれでも尊敬しろと、悪いことをしていても、税金を使い込んでいても尊敬しろと、そういうふうにおしつけた道徳は嫌いです。人間の中身で子どもの前に立ちたいから。
 お父さんもそうですよね。仕事に疲れたから、子どもの前でごろごろしているだけでは、もう、お父さんの尊敬を勝ち得ることはできないですよね。どんなに疲れていても子どもの前では、親の生きている姿勢を示してほしいです。もちろんいっしょに寝っころがって話をしてやればいいわけで、疲れているからと横になってはいけないとは、そういうことはもちろん言いませんが。お父さんであるということは、例えば朝の食事の時、この世の中に繋がる話をしてほしいですね。今、世界で何が起こっているか、ただ勉強しろとかね、お前の服装おかしいぞ、とか、細かいことじゃなくて、もっと大きい視野の話をしてほしいです。
 親は威張って家の中にいたいですね。そして、その親の生き方にあわせて子どもは育つんです。だから、親の食べたいものを子どもは食べたらいいんですね。子どもの食べたい食事を用意するんじゃなくて。だって子どもは一人前じゃないから。早く大人になりたいと思うのが子どもです。大人になるといいなあと思うわけです。子は子どもであることが楽だからいつまでも子どもでいたい。自立を教えていないわけですね。


 子どもを愛するということは、この子が生きていく先のことを考えて愛するわけでね、目の前の子どもをベタベタにかわいがることが愛情ではないですね。この親子の関係をごく自然の形に返さないと、子どもをまん中において、子どものいうことを聞いてきた家庭から、大変な問題が今吹き出ておりましてね。自分の思うとおりにこの世の中が動くと錯覚をした子どもたち。家庭内暴力の子などは典型的な子です。ある時、挫折をする。挫折を知らなかったんですね。失敗するということを知らなかった。人生は石っころだらけで、これを越えていくから大変なんだということを、どんな小さい子にも教えておきたいです。あえて不自由な環境を子どもに教えたいです。


 それは、親が、これ2番目ですけどね、親が子どもに存在の場所を与えるということです。どんなに小さくても親を助けて生きていくといううれしさを子どもに与えること。
 子どもは、親のすることすべてまねをして、そして一人前に何でも仕事をしようとしますよね。その手を払いのけて、あなたがやると掃除はできないから、あなたがやるとお茶碗が割れるからと言い続けている、私たち母親です。
 それは、私たち母親が暇だからですね。生きていくのに幸いにして忙しくなきゃいけないですね。必死で生きていくということが、子どもの手を借りて子どもに存在の場所を与えるということになるんじゃないでしょうか。


 私、子育てで仕事を、二人目の子どもが生まれたとき辞めましたときはね、PTAに飛び込んだんです。PTAやいろんな市民運動で忙しかったですね。で、帰ったら子どもに話しました。これは、あなたたちのことを思ってやっていることで、お母さんは今日こういうことをしてきた。子どもは、お母さんが何のために家にいないのかわかるから、決して親を責めない。寂しくても我慢してるんです。「ごめんなさい」と言って帰っちゃいけないですよね。「ありがとう」と言って帰りたいです。「留守番をしてくれてありがとう。あなたの力で家の中のいろんなことができてお母さんは助かる。」と言いたいですね。それは、2才3才ぐらいの子ができる精一杯のことを子どもがやるからです。ずいぶんいろんなことができるんですのね、子どもって。


 暴走族を取材したとき、この子は夏休みの暴走の時死んでしまったんです。そのフィルムを放映しているとき、テレビ朝日でしたが、その最中に電話がかかってきてね、「いま映っているあいつが死んだから、あの写真をほしい」と、暴走族の仲間から電話がかかってきたんですね。で、スタッフからすぐ私のところへ電話がかかってきました。私、その頃、1年間テレビ朝日の仕事をしていたんです。そして「あの子が死んだそうです」。私、本当にもうね、申し訳ないと思ったのは、私たちが取材をしたことで、もしかしたら、暴走族にあおりをかけたんじゃないかと、とても反省をしましたね。で、その子が番組の中で言ったことは、たいていね、親をどう思うかと聞いたとき、いい加減な返事が返ってきてたんですけどね、その子が言ったことはね、「親孝行したいんだけどね、家で何もすることがないんだ。だからオートバイ乗って遊んでまわってんだ。」これは、親である私たちの胸をグサリと突く言葉です。


 子どもはどんなに親孝行したいと思っていても、家の中に子どもの場所がない。存在の理由がない。子どもは、よく学び、よく遊べ。ただそれだけで生きている。生活をしていない。親を助けていない。今日はこの家を支えたという実感がない。どうかそういう実感を与えたいですね。私たちは必死で生きていきたいですね。子どもの力をあてにして、たよりにしてね。(完)