教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

Repost: 教師入門⑧ ~歩き始めた先生たちへ5~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

保護者とのつきあい方

 

保護者との信頼関係は、教室での指導を円滑に進めるためにも不可欠です。

大事なことは分かっていても、若い教師にとって悩みのタネなのが、保護者とのつきあい方ではないでしょうか。いやベテラン教師にとってもそうなのですが、保護者よりも年齢が下の間は格段に厳しいものです。

 

教師である自分を知る

 

保護者云々の前に、まずは職業としての教師が社会的にどういう位置にあり、どのように見られているのかということを自覚する必要があります。

 

 教師は「権力者」である。

役職や経験年数に関係なく、教師は「権力者」である。

と言ってもピンとこないかもしれません。

しかし、客観的事実として、教師は教育委員会(文科省)という公権力の末端に位置しています。世間は教師を公権力の体現者として認知しているのです。


さらに、教室という小社会においては、教師は「絶対的権力者」である。

子どもを評価する権限を保持することで、その地位は保証されています。


つまり、個人の人間性や努力などとは無関係に、教師とはそういう社会的存在だということなのです。

 

教師への「尊敬」「敬意」というもののなかに、権力に対する無自覚な敬意も一定程度含まれていたのではないかと思います。しかしそれは、かつてそんな時代もあったという昔話になりました。権力への無自覚な敬意は無自覚な敵意に取って代わり、今は基本的に厳しい視線が注がれています。そこのところはしっかりと自覚しておかないといけないと思います。

 

 教師は「世間知らず」である。
概して「教師は世間知らずだ」と言われるし、経験上あたっていると感じます。


「世間」には、「俗なもの」という意味合いと「一般常識」という意味合いがあります。
「俗なもの」にはオトコのアソビなんかが含まれ、そんなものにスレていないのが「世間知らず」の一面。私は、職場コミュニティと地域コミュニティの話題から認識することが多かったように思います。でもこれはバカにされることではありません。
「一般常識」がないという意味での「世間知らず」は、多分に小馬鹿にした語感を伴って発せられます。これなんぞは権力を踏みつける快感のようなものかなあと、勝手に分析しているのですが。

いずれにしても、「教師は世間知らずだ」と言われることが多いし、事実「世間知らず」であることも不思議と多い。これも自覚すべきです。

 

 教師は「ウソつき」である。
政治家にしても公務員にしても、権力を持つ者は保身のために平気でウソをつく。悲しいかな、周知の事実。

 

教師は保身のために弁解し、ウソをつく。これも残念ながら事実。

 

皆が皆そうだというわけではありませんが、いじめなどの報道では決まってウソの強弁をしています。そんな積み重ねが、「教師はウソつきだ」という見られ方につながっているのです。だからウソをついてもいいのではなく、誠実さが欠けるとにわかに悪評価に至るということを自覚することです。

 

個人の話ではありません。長い年月の営みの結果として、教師という職業そのものに厳しい視線が注がれるという現実を生んでいるのです。まずそのことを自覚しましょう。


そのうえで、保護者との間に信頼関係を築き、師としての敬意のまなざしが注がれるようになるかどうかは、まさに個々の生き方にかかっているといえます。

 


保護者は子育てパートナー


 「モンスター」などいない。
ひところ「モンスターペアレント」という言葉が流行りました。実際問題、保護者との関係が解決困難な状況に至ってしまうことが増えています。中には弁護士に委ねるしかない場合もあります。昔とは明らかに違います。


その「違い」はなんなのでしょう。

現象の表れ方の違いでしょうか、本質的な違いでしょうか。私は表れ方の違いだと考えています。

そうなんだけれど、本質的な違いかも思ってしまうほど現実は厳しいです。誠実さだけでは解決の糸口すら見えず、保護者は教師の「退場」を求めて突っ走ります。「モンスターペアレント」という言葉は、こうした現実の中で生まれました。

 

しかし、あえて言いいます。

保護者は「モンスター」なんかではありません。保護者に「モンスター」を見ている限り、問題の解決などあり得ないのです。

 

 「我が子が大事」
むかしというか私の若い頃も、子どもの問題をめぐって保護者と衝突することはありました。何度か保護者から痛罵されもしました。眠れない夜も過ごしました。


しかし、少し冷静になれば問題の構図がよく見えた時代でした。


保護者とトラブルになった原因は、私の指導に起因していました。そもそもの出発が子どもの問題行動にあったとしても、私の指導の過程で、保護者にとっての「ものさし」のある一線を越えたときに激しく抗議を受けたと思います。


私の側の思いはともかく、保護者は「ものさし」のある一線を越えたと受け止めて抗議をしています。振り上げられた拳が頭上にある間は、私は一切の弁解はしませんでした。そして、「怒りの本質」が何なのかを読み解くことに努めました。


いったん上げた拳を下ろすには、タイミングと落としどころがいります。「落としどころ」は、例外なく「ウチの子をしっかり見てやって」ということでした。

翻って、「ものさし」のある一線というのは、「我が子が大事にされていない」「我が子が差別的に扱われている」と受け止めた瞬間ということになるでしょうか。

 

教師は、子どもを集団の中の個として見ています。できる・できないという「ものさし」(能力主義)で常々子どもを見ているし、トラブルの多い子を色眼鏡で見てしまっていることもあります。そして、それは知らず知らずのうちに言動の端々に出ているはずです。

 

保護者は、かけがえのない存在として我が子を見ています。たとえどんな問題を起こしたとしても、我が子は可愛いし愛しい存在なのです。


正義がどちらにあるかという問題ではありません。保護者とはそういうものだと認識した上で事に当たらないと、往々にして思いは擦れ違うということです。

 

今の時代、「落としどころ」を持たない「徹底追及型」の保護者もいます。最悪の事態に至るまでには伏線があったはずですが、万に一つ泥沼に入ってしまったら第三者に委ねましょう。第三者は、職場の管理職、教育委員会、教委関係の弁護士と事態に応じて変わります。事ここに至っては誠実さだけでは関係修復は望めないので、決して一人で抱え込まないことです。

限られた見聞の範囲の知見になりますが、「落としどころ」を持たない「徹底追及型」の保護者が、地域コミュニティーにうまく溶け込めていないケースが多いようです。問題の背景や糸口を模索する1つの伏線になりそうです。


繰り返しになりますが、事態がそこに至るまでにできること、しなければならないことがあったはずです。

 

 「傾聴」こそ子育てパートナーへの道
若い教師が保護者に電話でトラブルの報告をしているのを、職員室で何度も耳にしました。

そのたびに言ったことがあります。

「いいことは電話で告げてもいい。でも、トラブルは家庭訪問して顔を見て話さないといけない。」

「最初のボタンの掛け違いが事態を悪化させ、解決のために何倍ものエネルギーを費やすことになる。何かあったらすぐに行く、表情を見ながら話す。それが基本だ。」

 

「報告」のための家庭訪問なら、事の経緯とこれからの取り組みを丁寧に説明します。保護者の理解と同意を得て、取り組み後の報告を約束すればいいのです。

 

「苦情」や「抗議」を受けての家庭訪問は、「報告」の家庭訪問とは違います。保護者との関係がギクシャクするのは、大抵このケースです。


「苦情」や「抗議」の一報は、学校へ電話がかかってくる、学校へ直接言いにくる、教委から連絡が入るといった形で届きます。この一報の時点で、保護者は拳を振り上げているわけです。


一報が電話であっても、電話での応答を絶対にしてはなりません。

すぐに家庭訪問することを告げて、電話を切りましょう。


「苦情」や「抗議」がまったくの勘違いであるなら、家庭訪問の場で誤解を解くことに努めればいいのです。


「苦情」や「抗議」に関して教師・学校に幾分かでも非があるなら、まずは保護者の言い分を聞きましょう。

「私はこういうつもりだった」などと弁解や言い訳は絶対にしないことです。抗議の言葉は時として厳しいかもしれませんが、大事なのは言葉のうしろにある「思い」や「ねがい」を読み取ることです。そのことだけに努めましょう。それが「傾聴」であり「落としどころ」になるわけです。


「苦情・抗議」の中身である「教師の非」と「思い・ねがい」を重ねたとき、教師として語るべきことが見えてくるに違いありません。

おそらくは、自分の不十分さ至らなさを認める言葉になるでしょう。その上で、これからの決意や覚悟を語る言葉になるだろうと思います。

 

教師・学校の言い分は、保護者が拳を下ろしてからでいいのです。

教師と保護者が子どもを真ん中に据えて同じ方向を向くことができたとき、両者は子育てパートナーとしての歩みの緒に就いたと言えます。子どもの課題を語り合えるのはそこからなのですから。

 

 

「Repost: 教師入門」は今回で終了です。

引き続き、「学級経営・集団づくり」「学びの創造」「人権教育」「教師力」などのカテゴリーにある文章をご覧いただければ幸いです。