教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

学級通信、このよきもの②

1986年、教師になって9年目に同じ学年を担当する若い同僚に向けて出した通信に連載した「学級通信、このよきもの」の一部を紹介しています。その第2回。

 


学級通信が学級経営の生命線であるというのはどういうことかという問題について考えてみたいと思います。


「せんせい、あのね」から「あのなあ、みんな」へ


①広める


学級通信が果たす役割の1つに、子どもたちの中に価値を広めるということがあると思います。

 

5月31日

 きょうの1日は、Fさんにとりついたみたいな私だった。Fさんはとっとも心がやさしいんだなあと思った。Iさんが一人でいる時もFさんはとんでいってあげたり、弱い者のくやしさは本気になって考えてくれる。自分がいっしょにすねるのではなく、考えをきちんと持って相手の所へ立ち向かってくれる。相手が自分の悪さに気づけば、自分が悪かったと言って反省している。Fさんはとってもいい友だちです。この学級をみんなで語り合える仲間いっぱいにしたい。

 


上に紹介したのは、Nさんの5月31 日の日記です。具体的な場面が綴られていないために様子をつかみきれないのですが、仲間に目を向けて生きている姿は読み取ることができます。この時期の日記というのは、家へ帰ってから遊んだことや、習い事に行ったことを書いているのが多いものです。そんな子どもたちに、仲間のこと、それも内面に関わって物を見つめさせたいと思うのです。Nさんの日記は、不十分ではあるけれども、子どもたちに仲間と向き合って生きることを教え、励ましていくきっかけになるだろうと思いました。

学級通信では、「なかまの中に他の人が気付いていない「よさ」を見つけよう!」という見出しでこの日記を紹介しました。そして次のように書き添えました。

先生には、Fさんの行動と同じくらい立派に思えることがある。それはNさんの「目」と「心」だ。NさんはFさんの行動を見逃さず、じっと見つめている。とりつかれたみたいだとさえ言っている。友だちの立派な行動を見て立派だと思った「目」と「心」は立派だ。そしてそのことを1日中持ち続け、1日の終わりの日記に書きとめたことがまた立派だ。なかまを見つめ、なかまと向き合って生きている姿が立派だ。

なかまの「よさ」が見えるのは、自分の中にも同じ「よさ」があるからだ。同じ「よさ」を求める心があるからだ。たくさんの「よさ」が見える人は、たくさんの「よさ」を持った人だ。

 

 

②投げかる


Nさんの日記から1カ月ほど後、学級の中にある何人かのグループがバンドエイドを手首につけることによって仲間の“しるし”にするというできごとがありました。

「”「バンドエイド」のつながり”を考えよう」という見出しの通信で、仲間とは何かということを深く考えさせることをねらって、子どもたちに投げかけました。(内容省略)


子どもたちに価値を広めること、更に価値あるものに向けて投げかけること。それが、「せんせい、あのね」から「あのなあ、みんなJ に高めていく筋道になるのだと思います。


こんなことなら口で言うだけでもいいのではと思われるかも知れませんね。一度でも学級通信を出したことのある人なら、これに答えるのは簡単だと思います。子どもの食いつきようが違うのです。通信を配った時の静寂。食い入るように見つめる目。これがたまらなく好きで、ぼくはやめられないんじゃないのかなと思ったりします。


③考え合う


考え合うことを通して集団が高められていきます。「あのなあ、みんな」の関係は、こうした積み重ねの上に成り立つのだと思います。

 

ここで、しんどいこと、重たいことをなぜわざわざみんなの中に出していくのかということについて触れたいと思います。

明るい所からは明るいものしか見えないけれども、
暗い所からは何でもよく見えているのだ。

上の言葉は、ある人の講演の結びの一節です。



さて、話は10 月末のNさんのいる教室の記録。

木下(仮名)が立ち上がった。そして、静かに話し出した。
「僕のおとうさんは、土木の仕事をやっています。僕にとっては土木の仕事はいいと思います。でもこの仕事のことで差別もありました。でも僕はお父さんの仕事はいいと思う。みんなはこういう土木や建設の仕事は、よごれるからいやという。でも僕は、お父さんのあとをつごうと思う。」
張りつめていた空気が止まった。Tiは顔をふせてしまった。彼女は土木の仕事をする父のことを書いた原稿を用意していた。しかし読めなかった。彼女は授業後の感想にこう書いている。「木下君の話を聞いてお父さんのことを読みたかったです。でも私が読んだら、つまってなにもいえなくなり、なみだが出てきそうになる」から言えなかったと……。

廃品回収の父をもつKiも語れなかった。「国がちがうからといって差別をしないで」という原稿を準備したSuも語れなかった。

Kiは「みんなの前でいえなかった。そうとうゆうきがいることがわかった。ゆうきをだして、こんどのときにはいえるようにしようと思う」と感想の中に書いた。

それでいい。今はそれでいい。自分の中にある一番重くてしんどい思いを言える自分になりたい、聞いてくれるなかまをつくりたいという自らの課題をもって生きている今を評価してやりたい。
そのあと私は、亡父の姓「松山(仮名)」と母の姓「Mo」と母の主人の姓「Sa」の3つの姓の間で生きる松山のことや、6月から3か月間父が行方不明だったSuのことなどを話した。
子どもたちの顔がゆがんだ。

「わたし、びっくりした。ほんとにびっくりした。一人一人の家庭の中にこんなことがあるなんて考えもしなかった。みんな何くれぬ平気な顔でくるんだもの。きのうとかわらぬ顔でくるんだもの。」とFは書いた。

「先生の話をきいていてなきたくなった。いつもならちゃんときいていないのに。すごく、なんていったらいいかわからないぐらい、すごくかなしくなった。なきたくなったけどなけなかった。すごくこの時間はよかった。」とMは書いた。

「今、先生が話してくれたので私の心はすっきりしました。」Mはそう書いた。

松山は「ぼくはほっとしました。たぶんHaもほっとしたと思います。」と書いた。

彼ら、彼女らは、自分の一番の“秘密”を内緒にしておきたいと思うのと同じくらいに、みんなに知ってほしいと思っているのだ。言えるだけの条件がそろいさえすれば……。

それだけではない。松山のことを「Mo君」(この時の担任の名前)とからかって呼んで遊んでいたというのだ。父親が行方不明でしずんでいるSuに「ネグラ」という言葉をあびせていたというのだ。


子どもは想像以上に深いところで“しんどさ”を背負って生きている。まわりの子がその彼においうちのパンチをくらわせていることさえある。それは、「ひごろあそんだりしているぐらいでは、とてもわからな」(Oの作文)いことである。“なかま”とか“なかまづくり”という言葉を私たちは安易に使う。しかし、“なかま”とは何と語るに易しく育てるに難しい言葉であろうか。 

 


ぼくは、自分の過去の拙ない教育にしがみついて生きようとは思いません。しかし、教師としての経験が浅い時期であればあるほど、子どもに教えられたことも多く、初めての体験ゆえの感動も深かったわけです。そういう意味で、ぼくにとって忘れることのできないものです。


生活の重みをみんなの中に出した後で、「私の心はすっきりしました」「ぼくはほっとしました」と語る子どもの言葉は衝撃的でさえありました。だって、ぼくらは、そういうしんどいことには触れないでいることがその子のためだと信じていたのですものね。だけど、子どもたちは自分のしんどさをみんなに知ってほしいと思っていたのです。自分の一番秘密にしておきたい部分をさらけ出した上で、なかまとつながりたいと思っていたのです。しかし、そういうことは、「さあ、言え。」と言われて言えるものではありませんね。その子にとって、自分の思いを受け止めてくれると信じられる集団になってなきゃ言えませんね。ぼくらがめざす集団というのは、まさにそういう質を持ったものでなくてはならないのです。しんどさを心の奥深くにしまい込ませておく集団しか作り得ていなかった、そして、そのことになんの痛みも感じずにいた、そんな自分が恥ずしかったですね。


明るい所からは明るいものしか見えないけれども、暗い所からは何でもよく見えているのだ。今なら、何となくこの言葉の意味がわかるような気がします。家庭生活のしんどさを知ったところで、一人の教師や学級の子どもたちに解決できることなんて何もないでしょう。しかし、その位置からものを見ることはできます。Su君のお父さんを捜し出すことはできないけれども、彼が沈み込んでいる思いに心を寄せることはできるわけです。彼の表情の奥にあるものが見えるわけです。そうしたら、間違っても、その彼に「ネグラ」という言葉を浴びせることはなかったでしょう。


クラスのバックボーンというのがありますね。クラスの思想性、集団の軸ということです。
なぜ、わざわざしんどいことを言わせるのか。そう問われたら、そこからしか本当のものは見えないし、本当のものは始まらないからだと答えます。そのために、子どもたちの間に価値を広め、問題を投げかけ、考えあわせることを通して、クラスのバックボーンを作っていっているのだと思います。学級通信は、そのために欠くことのできない手段であり中身なのだと思います。


一言付け加えておきますが、子どもの重みを教師がしゃべってしまっているのはあまりよくないなと思っています。実は、子どもにしゃべらせるところまでやりきれていなかったのです。