「なかまづくり」「学級集団づくり」を“学級経営”の目標に掲げない学級は、まずあり得ないでしょう。
ところが、思い描いている「ゴール」は千差万別、いや、「同床異夢」という言葉の方が当を得ているかと思うほど違うようです。
これも30年あまり前のこと。
当時、私は障害のある子どもも健常児と言われる子どもたちの中で学ぶ取り組みを推進していました。
ある研究会で、「時間と空間を共有することから教育の営みは始まる。切り離せば離した分だけ、子どもたちのつながりが切れる」と私は発言しました。
それに対して、「週に1時間でも一緒に過ごせば、なかまづくりなどできる」と反論が返ってきました。
--見ている世界が違う、と思いました。「集団」「なかま」と同じ言葉を使いながらも、この言葉の意味世界は決して“共通語”ではないのです。
私が「学級集団」と言う時、それは単に構成員による集合体を指す言葉ではありません。
担任教師と構成員である子どもたちによって作られた、ある種の価値観を伴う芳しい「空気」というものがあります。その“芳しい「空気」”は、担任にとっても子ども一人ひとりにとっても居心地のよいものです。
「学級集団」とは、この「空気」を共有する集合体のことだとイメージしてもらえばいいでしょう。
したがって、たとえクラス替えのない学級であったとしても、担任教師が替われば、「学級集団」がリセットされるのは自明のことなのです。
“芳しい「空気」”は一朝一夕にできるものではありません。
「集団は1日にして成らず」なのです。
学級で取り組んでいるあれやこれやを、片っ端から書き出してみましょう。
学級の係活動、班活動、学級通信、グルーブ学習、……。
書き上げていけば、学級で行っているどれもこれもが、学級集団づくりにつながっていることに気づくでしょう。
「すべての道は集団に通ず」なのです。
「すべての道は集団に通」じているのに、「集団は1日にして成らず」とはどういうことでしょう。
一見矛盾する2つのテーゼの間にはどんな関係があるのでしょう。
すべての教育活動は学級集団づくりにつながっているのだから、特別に考えなくても集団はできあがる--というのは、まちがっています。
先ほど“芳しい「空気」”という抽象的な表現を使いましたが、これはめざす集団像と考えればいいです。“芳しい「空気」”を作るという意図を持ってあらゆる教育活動を組み立てた時、その結果として学級集団が形成されるのです。
集団づくりとはそういうものなのです。
詳細は、学級文化と集団づくり の稿で述べたいと思います。