教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

学級通信、このよきもの③

1986年、教師になって9年目に同じ学年を担当する若い同僚に向けて出した通信に連載した「学級通信、このよきもの」の一部を紹介しています。その第3回。 

 



教師もまた労働者です。ですから、“教育のため”、“子どものため”という美名のもとに、無制限に働くなど絶対に間違っています。家庭生活を著しく犠牲にし、命を切り売りすることの上に成り立っている教育は、その中身がどんなに素晴らしくても、間違っていると言わなければなりません。


ぼくらに与えられている時間は、等しく1日24 時間です。あれも大事、これも大事と言っていけば、することなどいくらでもあります。1日が24時間ではとっても足りないほどに仕事はあるわけです。そこで、仕事の取捨選択が必要になってくるのです。


気まぐれ発行のすすめ


学級通信を1年間続けて出すというのは大変なことです。日刊でやる人もいますが、こういう人にはそれなりに敬意を表しますが、決してまねをしようとは思いません。


ぼくは、書きたいときに書く、その気にならないときには無理をしない、そういう気まぐれ発行を鉄則にしています。この気まぐれこそが、長続きの秘決だと思っています。例えば、10日間に12号も発行している時もあれば、およそ1か月間休刊が続くという時期もあります。


教育は熱だとぼくは思っています。技術が決して無意味だと言うのではありませんが、教育の多くは教師の熱によって伝わるものだと思っています。だから、どうしても伝えたいことが多くあるときには、一生懸命に書きます。熱く燃える思いに包まれているときには、必至でそれを伝えようとします。

 

教師の思いが熱い時には、その思いを学級通信にぶつければいいのです。しかし、お互い人間ですから体調のすぐれない時や、心配ごとや悩みごとのある時もありますよね。そういう時には、思いきって休みましょう。やすっぽい使命感で書いたところで、どうせろくな中身になっていないのですから。よって、気まぐれ発行なのであります。


レイアウト、カット、etc.


書きすぎないということが大事ですね。紙一面に文字を埋めると、読むのがしんどいのです。内容がすばらしかっても、読む気のおこらない通信では、意味がありません。余白を上手にいかすということを考えたいものです。余白が紙面を落ち着かせるのです。

 

文字の大きさもできるだけそろえた方が読みやすいと思います。達筆は紙面の落ち着きを失わせるような気がします。 (この部分は削除します。手書きの通信なんてまずないですよね。)

 

書きすぎないということとある面では通じることですが、1つの号に書く中身は1つにしぼるということです。お知らせ程度のことを囲み記事などで書くのは別として、同じくらいの重みを持つ記事を書くのはどうかと思います。いろんなことを書くと、結局は何も伝わらないのです。(注:私の通信では、各号に内容を伝える見出しが付いています。)


カットなどにはこらない方がいいと思います。時間の無駄ですし、それがために発行が遠のくことだってあるからです。もっとも絵の得意な人はその限りにあらずですが。ぼくなんかいつもカットなしです。 (この部分は削除します。手書きの時代は昔の話、今やパソコンで編集しますから、カットの苦労はコピペで解消です。)

 

子どもに配った学級通信は、必ず教師の声で読むようにしましょう。できれば、文章につながる話をしながら読む方がいいのですが、どんなに忙しいときでも、どんなことがあっても読んでほしいのです。教師の声とともに、それを書いた教師の思いが子どもに伝わっていくのです。

 

創刊号を出すときに、学年の終わり(あるいは学期の終わり)にとじるから大事に残しておくように予告しておきましょう。そして、実際に子どもの版画なんかを表紙に刷って、とじてあげましょう。単なる思い出のためではありません。自分たちが何を考え、どう生きてきたのかを残すためです。子どもは、1枚1枚増えていく通信を宝物のように残していくことでしょう。

 

学級通信には子ども集団を育て、学級を変えていく力があります。結果として、保護者をも変える力があります。少なくとも、私はそう信じて実践してきました。

 

2014年に若い仲間に紹介する際に、若干に補足を付けました。

 

補足として❶ 2013.3

私の学級通信の対象は、原則として子どもです。保護者も読まれることを想定はしていますが、完全に子ども向けに書いています。


実は対象が誰なのかというのは大事なことです。これが明確になっていない通信をしばしば見かけます。具体的に言うと、保護者に向けて報告する文章として書き出したのに、段落途中から子どもへの呼びかけに変わったりしています。せめて、段落内は統一すべきです。

 

私の場合、保護者に向けて書きたい時は、次の2つの方法をとっています。


① 子ども向け通信の中に保護者向けメッセージを入れる時
通信の中に「おうちの方へ」というコーナーを設けます。囲み記事にしてしまうこともあります。いずれにしても、一目で子ども向け部分と区別が付くようにしています。
「保護者」ではなく「おうちの方」という言葉を使っている理由に触れておきます。ある年に担任した家庭の場合、保護者は父親一人で、日常的子育てはおばあちゃんがされていました。そんな家庭に出会ってから、「おうちの方」という言葉を意識的に使うようになりました。

② 保護者向け通信として発行する時
保護者向けに発行する時は、「おうちの方へ特集号」として出します。
「おうちの方へ特集号」は、子育てや教育の情報を提供したり、総合や運動会の取り組みで注目してほしいところを伝えたりするときに出します。子育てや教育の情報を提供するときは、説得力を持たせる意味でも新聞記事を使うこともあります。

 

繰り返しになりますが、学級通信は単なる「お知らせ」ではなりません。子どもを繋ぎ、子どもを変えていく、学級経営にとって欠くことのできないツールなのです。

 

補足として❷ 2013.3

これまで紹介した通信の中でもそうであったように、私の通信では子どもの綴ったものが大きな位置を占めます。その多くは日記ですが、日記には生活のかなり深い部分まで記述されています。子どもには、「通信には載せないで」といった断りがない限り、原則として掲載される可能性があると伝えていましたので、重たい内容の通信もありました。子どもたちは、それを受け止めることで育ち合っていったという側面もありました。


「個人情報保護」が学校の果たすべき大きな責任になった今日、「法」制定以前のような通信は考えられません。私の通信でも、子どもの綴ったものは学校内のことが多くなり、家庭生活の場合でも内容が「軽く」なりました。さらに加えて、地域社会の崩壊が進行していますから、保護者もプライバシーに関することを通信に書かれることを良しとしません。したがって、私の通信でも1990年代はじめごろまでのものと、2002年以降のものでは明らかに趣が違っています。どちらがいいということではなく、時代の要請だと受け止めています。

 

今、私は、かつて通信が担っていた「生活交流」の場面を「スピーチ活動」に求めています。スピーチであれば活字と違って後に残ることはありません。もっとも、通信を受け止められる子どもと同様に、友だちの生活を共感的に受け止め、言いふらしたりしない集団でなきゃなりませんが。


ここで「スピーチ活動」のノウハウを述べることはしませんが、通信と補完関係を持って捉えているということだけ紹介しておきます。