教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「1ヶ月で勝負」したクラスの記録⑥

 ■「1ヶ月で勝負」したクラスの記録■その5

 

「1ヶ月で勝負」と言っても、1ヶ月で「勝負がつく」わけではありません。1ヶ月で「勝負できる体勢」に持ち込めたに過ぎません。

 

本当の勝負はここからです。 

 

実際は集団は思ったよりもっと深いところで病んでいました。

詳しくは書けませんが、いつの頃からか女子は問題が起こると、自分たちで解決する習慣を身につけていました。ところが、これが非常に危険な「話し合い」で、力による支配と抑圧の温床になっていました。

私はまず自主解決を禁止し、私が全面的に介入することを了解させました。それでホッとした子もいたのですが、子どもたちを覆う見えない圧力のようなものは容易に解消されませんでした。

 

5月16日の学級通信№29は、「風薫り、クラスの胎動を感じつつ…」というタイトルで、「『胎動』というのは母体で赤ちゃんが動くことですが、まさに何かが生まれる前の動きを感じるできごとがありました。13日の放課後、運動場の東の端で7人の女子がボールで、西の端で6人の女子が一輪車で遊んでいました。ぼくは、バレーボールの輪のとなりにいて、時々参加していました。しばらくすると、6人がその輪に加わり、女子全員が一つのボールを追っていました。それは、6年生になって初めて目にする光景でした。いつもいつもみんな一緒がいいというのではありませんが、これもまたいい光景だと思いました。」というコメントが添えられています。

これが実情でした。

 

数日後の通信から3回「ひとりつぶやき」が登場します。是非とも届けたいAさん、Bくんが存在しました。

これもまたクラスの実情でした。

 

★☆★ひとりつぶやき★☆★


■10の誠意■ (『きらきら』№33 2005.5.20)
 「10の誠意に対して10の誠意で答えてくれる人が好きだ」--友だちとか友情といったことについて書いた10代の頃のノートに、そんな1節がある。「誠意」とは、「うわべだけでない、心の底からの本当の気持ち。真心」のことを言う。友情は誠意と誠意で育てていくものだと、30年以上たった今も考えている。
 友だちの問題は、子どもにとって重大問題だ。だれもが悩み苦しみながら、大人への階段を上っているのだ。ぼくが出会ってきたたくさんの子どもたちの中から、3つ紹介しよう。
 Aくんは体が大きく、力も強かった。Aくんの周りに人は集まっていたが、特に親しい友だちはいなかった。みんなはAくんの力が恐くて言うことをよく聞いた。ある時、Aくんはぼくに言った。「本当の友だちがいない。さびしい。」「さびしさをまぎらすために、悪いと思っていても暴力をふるってしまう。」「友だちがほしい。」と。
 女の子たちの中にグループがあって、ある時ふと気が付くと、グループの全員が同じデザインのキズテープ(そのころバンドエイドという商品がはやっていた)を手首にはっていた。テープは、同じグループの友だちであることの“しるし”だった。同じ“しるし”がないと不安になる。ぼくは、「バンドエイドのつながり」と呼んだ。
 ある時、一人の女の子が小さなプレゼントの包みを持っていた。よく見ると、同じ包みを持っている子が数人いた。彼女たちはみな、同じ仲良しグループの子たちだった。グループの中でもめごとがあって、一人の子が「ごめんなさい」という気持ちを伝えるために渡(わた)した物だった。手を触(ふ)れると壊(こわ)れてしまいそうな友だちとの関係。ぼくはそれを「ガラス細工の友情」と呼んだ。
 どれもこれも、結局はうわべだけの友だちでしかなかった。彼ら彼女らがぼくの心から長く離(はな)れないのは、うわべたけの現実からスタートして、「10の誠意に対して10の誠意で答える」ような友だちに向かって、悩み苦しみながらも歩んだからだ。その姿を、彼ら彼女らのとなりにいてぼくは見てきた。そう、友情は誠意と誠意で育てていくものだ。


■楽しいウソ・悲しいウソ■ (『きらきら』№34 2005.5.23)
 ウソには、楽しいウソと悲しいウソがある。楽しいウソは人を幸せにし、悲しいウソは人を、そして自分をも、不幸せにする。
 大笑いをして終われる楽しいウソは、人をあたたかい気持ちにしてくれる。信頼(しんらい)関係があるからこそ成立する笑いなのだが。
 悲しいウソには、自分を守るためのウソと人を守るためのウソの2つがあるように思う。たとえば、いたずらがバレて怒(おこ)られそうになったとき、責任逃(のが)れのためにとっさにつくウソが、自分を守るためのウソだ。それに対して、いたずらをした友だちをかばうためにつくウソが、人を守るためのウソだ。(本当は、人を守るためのウソには別の種類の物もあるのだが、今は省(はぶ)く。)
 教師になって27年。ぼくは、たくさんの悲しいウソを見てきた。今確かに言えることは、結局のところウソでは自分も人も守れないということだ。たとえ他人をだますことができても、自分自身をだますことはできない。ウソをついた自分を一生背負っていくことになる。そんなとき、ぼくはいつも思う。この子はウソをつくことで、人からの信頼を捨てるのと引き換(か)えに何を得ようとしているのだろう。本当の友だちを失ってまで守るものって何だろう。ぼくは、未(いま)だその何かを見たことがない。笑えないウソは悲しい。


■つながる言葉・切る言葉■ (『きらきら』№35 2005.5.24)
 言葉には、人とつながる言葉と人とのつながりを切る言葉がある。
 Aさんは、Bさんに打ち明けた秘密をCさんにバラされた。Bさんを信じて打ち明けたAさんはショックを受けた。そして、AさんはBさんに向かって言った。「あなたって、最低。
 Dくんは、Eくんのミスで試合に負けたことが悔(くや)しくて仕方なかった。すっかり沈み込んでいるEくんに向かって、Dくんは横目でにらみつけるような視線を送った。
 Aさんの「最低」という言葉も、Dくんの「視線」も、ともに人とのつながりを切る言葉だ。「視線」を言葉というのは変かも知れないが、時として目は口以上にものを言う。Aさんはもう二度とBさんと顔を合わせないつもりだろうか。Dくんは金輪際(こんりんざい)Eくんとは遊ばないつもりだろうか。少なくともBさんやEくんにとっては、それほどに重い言葉だと承知の上で使っているのだろうか。つながりを切る言葉の傷は、鋭いナイフで刺(さ)された傷よりも深い。
 「あなたを信じていたから、今私はとても悲しいの。今度から秘密はちゃんと守ってね。」「今日の試合を楽しみにしていたから、負けたのはすごく悔しい。もっと練習をしようぜ。」AさんやDくんが、先ほどの場面でこんな言葉をかけていたらどうだろう。自分の悲しい思いや悔しい思いを相手に伝えているが、決して相手を責めたり切り捨てたりしていない。それは、BさんやEくんがこれからも付き合っていく友だちだからだ。人とつながる言葉は、きりっとしていて、それでいてどこか優(やさ)しい。

 

 届けたいAさん、Bくんがありながら、ナマの話ではなく「ひとりつぶやき」というカタチで間接投球しているところに、言いがたい苦悩がありました。