教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

安倍教育改革の遺したもの(その3)

教育基本法の「改正」②

 

今回は、教育基本法はなぜ、何のために「改正」されたのかについて考えます。

 

まずは文部科学省の公式アナウンス。

 

教育基本法について


 平成18年12月15日、新しい教育基本法が、第165回臨時国会において成立し、12月22日に公布・施行されました。

 

昭和22年に教育基本法が制定されてから半世紀以上が経過し、この間、科学技術の進歩、情報化、国際化、少子高齢化など、我が国の教育をめぐる状況は大きく変化するとともに、様々な課題が生じております。

 

このような状況にかんがみ、新しい教育基本法では、国民一人一人が豊かな人生を実現し、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の平和と発展に貢献できるよう、これまでの教育基本法の普遍的な理念は大切にしながら、今日求められる教育の目的や理念、教育の実施に関する基本を定めるとともに、国及び地方公共団体の責務を明らかにし、教育振興基本計画を定めることなどについて規定しました。

 

この新しい教育基本法の公布・施行を受けて、教育関係者だけではなく、全ての国民の皆様に、この法律についてご理解頂くことが重要と考えており、今後、このホームページ等を通じて、情報提供していきたいと思います。

 

また、文部科学省では、新しい教育基本法の精神を様々な教育上の課題の解決に結びつけていくため、関係法令の改正や教育振興基本計画の速やかな策定など、教育改革のための具体的な取り組みをしっかりと進めてまいります。

 

教育関係者、保護者の皆様をはじめ、国民各界各層の皆様のご理解とご協力をお願い申しあげます。

 

これではあまりに味気ないので、ベネッセが文部科学省大臣官房審議官(当時)の板東久美子さんに行ったインタビュー記事を紹介します。

2006/06/27

今なぜ「教育基本法」改正なの? 文部科学省に聞く【1】

6月18日まで開かれた第164回国会では、「教育基本法」の改正案が政府から提出され、約50時間の審議が行われました(次期国会で継続審議)。1947年に制定されて以来、約60年間一度も改正されることのなかった「教育の憲法」を、今なぜ変えようとするのでしょうか。文部科学省大臣官房審議官(大臣官房担当)の板東久美子さんへのインタビューを3回にわたってお届けします。


「国民の共通理解」のために

——今回の改正案は全面改正ということですが、今なぜ「教育基本法」を変える必要があるのでしょうか。

現行の「教育基本法」は終戦直後、民主的で、個人が尊重される国家・社会を建設するためには「教育の力」(前文)が大きいということで作られたものです。しかし、戦後60年近くが経ち、いろいろな意味で社会は大きく変わりました。そのなかでの子どもたちの問題を一言で言えば、基礎的な「人間力」が総合的に落ちている、ということです。

今、子どもたちの学力低下や学習意欲、体力の低下をはじめとして、規範意識の希薄化、対人関係能力の低下、生活習慣の乱れなど、さまざまな問題が指摘されています。これまでは個々の問題を、もぐらたたきのように対症療法で解決しようとしてきたのではなかったでしょうか。それが最近、これらが決してバラバラの問題ではなく、互いに関連しており、教育の土台をしっかりすべきだという認識が高まってきました。

他方、学校、家庭、地域社会が全体的に教育力を低下させるなかで、本来は家庭や地域社会で行われるべき子どもの育成までもが、学校に期待されるようになってしまいました。過剰な課題を抱えた学校がその役割を果たし切れなくなり、それがまた社会全体の教育力低下を生む、という悪循環に陥っているのです。

そこで今一度、基本に立ち返って、教育の理念として何を大切にしようとするのか、幅広く議論をして、これからの時代にふさわしい教育理念を国民の共通理解として打ち立てるために、国民全体による教育改革を進め、「教育基本法」を全面改正しようということになったのです。
改正案には、学校だけでなく家庭や地域社会など、いろいろな分野の教育力が重要だという考えを盛り込んでいます。さまざまな人たちがそれぞれの役割を果たしながら、社会全体で教育をしていこう、という機運を高めることが重要であり、「教育基本法」の改正論議はそのためのスタートラインだと考えています。

 

全体から考えを読み取って

——改正案をめぐっては、「愛国心」の表記(伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する)が注目されています。

国を愛することは確かに重要なことですが、改正案の焦点はそれだけではありません。教育の目標(第2条)には5本の柱を掲げ、豊かな情操と道徳心、公共の精神なども盛り込んでいます。また、「生涯学習の理念」(第3条)も新たに規定することにしました。これらは一見、当たり前のことばかりですが、当たり前のことが当たり前にできなくなっている、というのが、ここ最近ますます深刻化している問題ではなかったでしょうか。

ですから個々の条文だけを取り上げるのではなく、全体を読んで、何を国民の共通理解として持つべきか、という考えを読み取っていただきたいと思っています。

 

これからの時代にふさわしい教育理念を国民の共通理解として打ち立てるために、国民全体による教育改革を進め、「教育基本法」を全面改正」するという論理展開に納得できる人はどれほどいるでしょう。

 

つぎに、「池上彰の『解決!ニュースのギモン』」から「教育基本法改正は何のためか」(2006年11月21日)を紹介します。そこで池上さんが争点、危惧される点として述べられていること(青色文字の部分がそれに該当します)が、すなわち「改正」の目的ということになります。

 

第45回(1) 2006/11/21
教育基本法改正は何のためか

 

 教育基本法の改正案が11月16日、反対の野党欠席のまま衆議院を通過しました。これから参議院で審議が行われます。これまでの国会審議は、審議時間は長かったのですが、その多くは、いじめ問題やタウンミーティングでの「やらせ質問」についてのものが多く、基本法のあり方についての審議は、決して深まったとは言えません。

 それにしても、なぜいま教育基本法を変えようというのでしょうか。

 

(中略)


「権力拘束規範」から「国民命令規範」へ

 憲法は、そもそも国民が、権力者に対して、一定のタガをはめるものです。権力者は、とかく権力を乱用するもの。だから、国民の側から、権力に対して、何をするべきか、何をしてはいけないか、定めたものなのです。

 いまの憲法と一体になって成立した教育基本法も、権力者に対して、するべきこと、してはいけないことを定めています。こうした性格の法令を「権力拘束規範」といいます。

 それに対して、改正案では、国民に対して、「こういう教育をさせる」と定めたものが多く、いわば「国民命令規範」の性格があります。従来の法律とは、正反対の性格を持っているのです。


「我が国と郷土を愛する」「態度を養う」

 教育基本法を変えることをめぐって、最も論議を呼んでいるのが、「我が国と郷土を愛する」という部分です。教育基本法改正案の第2条第5項は、こうなっています。

「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」。

「平和と発展に寄与する態度」とは意味不明ですが、その前段では、「我が国と郷土を愛する」という「態度を養う」ことになっています。

 ここが、大きな論議を呼んでいる部分です。愛国心というのは、法律で強制すべきものではない。「心の内面」の問題だ。心の内面に法律が介入してはいけない。

 これが、改正案に反対する意見です。

 教育基本法は、日本の教育の方向を定めるものですから、学校現場では、教育基本法の規定を実践することが求められます。「我が国と郷土愛する」「態度を養うこと」と定められていれば、その態度が養われているか、達成度を検証しようということになります。通知表に、「我が国を愛する態度」という項目が入り、その成績をつけるような時代が来るかも知れません。基本法に定められれば、そうなっていくのです。

 こうした方向に対して危惧を持つ人たちがいるのです。もちろん、その一方で、「国民として国を愛するのは当然のことだ」という意見もあります。


「義務教育は9年」の規定が消えた

 現行の教育基本法では、第4条で、「国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う」とあります。

 ところが、改正案では、この項目が消えました。その代わり、第5条で、「国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う」となっています。

 つまり、別の法律で、義務教育を何年にするか定めることになっています。現行の学校教育法に、小学校は6年、中学校は3年と明記してありますから、とりあえずは変化がないのですが、将来、学校教育法を改正すれば、義務教育の年限は自由に変えられることを意味します。

 成績がよければ、義務教育を7年か8年受けるだけで、上の学年に「飛び級」できる仕組みを簡単に作れるようになっているのです。

 
「教育は不当な支配に服することなく」

 改正案で議論となっている点に、「不当な支配」とは何か、というものがあります。

 現行の教育基本法では、第10条に、「教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」とあります。

 これが、改正案では、第16条で、次のような表現に変わりました。

「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない」。

 どちらにも「教育は、不当な支配に服することなく」とありますが、それに続く文章が変わってしまったことで、意味する内容が180度変わりました。

 現行の表現だと、地方自治体や地方の首長が教育現場に介入した場合、「不当な支配」に該当する可能性があります。それは許されないことになります。それだけ権力に対して厳しい法律なのです。

 ところが改正案では、地方公共団体がすることは「不当な支配」には該当しないことを意味します。むしろ、地方公共団体の方針に反対する行動の方が「不当な支配」に当たる、という解釈も成り立つのです。たとえば教員団体が、文部科学省教育委員会の方針に反対した場合、「教育に対する不当な支配」とみなされる可能性があります


「子の教育に第一義的責任」は?

 改正案では、初めて家庭の責任に言及しました。第10条で、こう述べています。

「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする」。

 現行の教育基本法は、行政がとるべき方針を定めていますから、家庭については言及していません。それが、家庭に対して、いわば「お説教」するものになっているのです。

 このところ家庭の教育力が低下しているのは事実です。家庭が大事と言いたいのは、気持ちとして大変よくわかります。しかし、法律が家庭に介入してもいいのか、という批判があるのも事実なのです。

 
自主的精神か、自律の精神か

 教育は、どんな子どもに育成するのか。現行の法律では、「教育は」「自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」となっています。また、「自発的精神を養い」となっています。

 これが改正案では、「自主的な精神に充ちた」という表現が消えました。また、「自発的精神を養い」という部分は、「自主及び自律の精神を養う」という表現に変わりました。「自立」ではなくて「自律」です。

 つまり、子どもをひとりの人間としての人格を認め、自主的・自発的精神を持つように育つのを助けようとするのか、それとも、国家として、自らを抑制できる人間に教育するのか。法律の趣旨が大きく転換しているのです。

 これが、教育基本法をめぐって論議が起きている理由なのです。

 

「危惧」が「杞憂」に終わらなかったことは、こんにちの「現実」が示しています。