教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

(200投稿)トップランナーとして生きる

本日、投稿記事が200の節目を迎えました。

 

 

トップランナー」というと、先頭を走っている「ナンバーワン」を想うかもしれません。

 

 

私は、若いころから「職人」教師をめざしていたように想います。できれば一流の…。

まさに、「オンリーワン」にして「ナンバーワン」の「トップランナー」をめざしていたわけです。

 

「職人」さんが腕を磨くように、私は足繁く学びの場に通いました。書籍への投資も相当額になるでしょう。

ところが職場は「出る杭は打つ」という体質が強く、新たな挑戦をしようとするとしばしば「統制を乱す」と先輩のお叱りを受けました。

 

 

9年のあいだ授業から離れ、再び教室に戻ったときは40代なかばになっていました。職業人生においては「円熟期」という表現もありますが、明らかに「下降期」に入ります。同年代の多くが管理職になっていくなかで、なお「職人」であり続けることにこだわっていました。

 

ただ、「トップランナー」への思いは少し変化していました。

それは、年齢によるものもあるでしょうが、 実はとっくの昔から気づいていたことでもありました。

 

学校という職場には、ぶっちぎりの「トップランナー」なんか要らないのです。

一人の教師がその学年の子どもたちの入学から卒業までを担任するということは、まずありません。ということは、たとえば中学年で優れた指導をしたとしても、高学年で担任する教師がダメなら子どもはダメなまま卒業です。また、高学年で優れた指導をしようとしても、中学年までの素地がなければ思うような成果は得られません。何度か苦い思いをしたこともありますし、これは自明の理。

つまり、自分一人が「トップランナー」でも前後左右の教師がダメなら、そこの教育は結果的にダメなのです。

 

学校現場の「トップランナー」は、「職人集団」でなければ意味がないのです。

冒頭の話で言うなら、「ナンバーワン」ではなくて「先頭集団」のイメージです。

 

近ごろ「チーム○○小学校」などという言葉を耳にすることがあります。これは「職人集団」としての「トップランナー」のイメージに近いニュアンスがあります。しかし、校長が「チーム○○小学校」の旗を振っているところは、しばしば怪しいものを感じます。

ハイレベルな「職人集団」は職人たちの「切磋琢磨」(月並みな言葉ですが)によってのみ達成され維持されるのです。校長は掲げた旗をリーダーに託し、見守り支えるのが仕事と思うのですがね。

 

トップランナー集団の一員としてあり続けることは、性別や年齢のより諸相あるでしょうが、やはり大変なことです。なんと言っても50歳を過ぎると体力も落ちますし、加えて知力や気力まで落ちると集団のお荷物になりかねません。

 

私は、1つ年上の管理職と同僚が定年を迎えたときに一緒に退職しました。「お荷物」にはなってなかったと思いますが、何となく「退き時」かなあと思いました。

 

顧みて、「一流の職人」には到底及びませんでした。それでも、最後まで充実した職業人生だったと思っています。

 

初任からの15年間は、ひたすら走り続けた時期でした。挑戦することで自分の器が広がり、深まりました。

いま朝食用に作っているパン作りで言えば、生地を練っていた時期になります。

 

授業を離れた9年間は、自らを客体化して整理し、新たな学びを積み重ねた時期でした。結果的に、この時間が「熟成」につながったと感じます。

パン作りで言えば、生地を寝かせて発酵させる時間です。

 

後期の13年間は、収穫の時期でした。もちろん前期の15年にもいくつもの実りはありました。しかし、同じ果実でも後期のは「熟成果実」です。

パン作りで言えば、焼き上げる時間です。この例えでは、「後期」がなければパンにはならなかったことになります。これはいかにも言い過ぎかもしれませんが、実感としてはそれに近いものがあります。

 

さて、「後期」の時間というのは、40代後半以降の時間です。それは、「職業人生においては『円熟期』という表現もありますが、明らかに『下降期』に入」ると、先だって書きました。

この「下降期」にあってなお「トップランナー集団」の一員でありつづけ、結果として「熟成果実」を手にするカギは何でしょう。

 

テレビCMなら「個人の感想です」とテロップが出そうなレベルの個人的見解ですが…

 

■挑戦し続けること

「職人」のワザにゴールなどありません。最後の最後まで新たな挑戦を続けること、そのモチベーションが、集団のなかで生きる「必要条件」のように思います。

 

■経験に固執しないこと

集団のリーダーは、おそらく30代後半から40代の教員でしょう。「下降期」にある者は、年長者ということになります。

年長者には、より多くの経験の積み重ねがあります。経験を金科玉条のごとく振りかざす年長者は、若い人たちにとってはうっとうしいものです。不易の部分もありますが、教育のあり方だって時代とともに変わるもの。経験に固執しないで高次な視点を持ちたいです。

経験に固執しない生き方は、新たな挑戦の扉を開けます。

 

■惜しみなく伝えること

年長者は、経験の積み重ねの分だけたくさんの「財産」を持っています。

固執しないことと一見矛盾するようですが、「財産」には不易の目録が含まれているはずです。そうした財産を惜しみなく後輩に伝えたいです。若い人が力をつければ、集団の質が向上します。単元まるごとの自主公開を試みたのもその一つでした。

 

 

ところで、気になっていることがあります。

 

というのは、若い人たちが挑戦したがらない傾向が強まっていることです。

これは社会のあり方が失敗に寛容でなくなっていることや、教員管理の強化の影響が大きいのだと思います。

しかし、若い人たちの「保守化」は、教育活動の先細りにつながりかねません。

ここは年長者の踏ん張りどころだと、警鐘を鳴らすとともに強く訴えておきたいと思います。