「江戸時代」という呪縛
江戸時代には、厳しい身分制度があった。
江戸時代には、たびたび飢饉があった。
江戸時代には、子捨てや間引きがあった。
江戸時代には、百姓一揆や打ち毀しが頻発した。
………………
江戸時代の農村風景と言えば、鉛色をした厚い雲に覆われた寒々とした冬空を想像してしまいます。それは、私たちの中に「江戸時代の百姓は虐げられ貧しかった」というステレオタイプの「貧農史観」が貼り付いているからです。
冒頭に列挙したようなことは事実としての出来事であり、百姓が貧しかったことも事実でしょう。
しかし、江戸時代だけがそうだったのでしょうか。
江戸の前後の時代、室町時代の百姓、明治時代の百姓は貧しくなかったのでしょうか。
圧倒的多数を占める名もなき百姓は、「裕福」という尺度で言えばいつの時代も貧しさのなかで生きてきたのです。
問題は、貧しさのなかで前向きに生きていたのか、打ちひしがれて生きていたのかという、「心のエネルギー」の部分です。
江戸時代に貼り付いたイメージには、このエネルギーが感じられないのです。
それが私だけの問題なのか、意図的に作られたものなのかは分かりません。
『貧農史観を見直す』(佐藤常雄著 講談社現代新書 1995年)という本があるくらいですから、どうも個人的な問題ではなさそうです。
貼り付いたイメージを剥がすことが、歴史の真実を見ること、ひいてはまともな歴史教育につながります。
ここでは、そのきっかけとなる資料を提示します。
1つは、人口動態です。
国勢調査以前の数字ですから、参照する資料によって数字のばらつきはあります。しかし管見では「誤差」の範囲と考えてよいと思われます。
クラフが示すとおり、江戸時代に人口が急増しています。
江戸幕府成立期から享保改革期は、日本の歴史において最も急激に人口増加が生じた時期の1つです。この1世紀の間に、日本の人口は 1,200 万人余から 3,000 万人以上へと2倍半に急増しています。この人口増大には、小農の自立という家族形態の変化が深く関わっているようです。(詳細は、「立法と調査」 〈2006.10 No.260〉所収の「歴史的に見た日本の人口と家族」〈参議院第三特別調査室 縄田康光〉を参照のこと)
なお、江戸時代後期の人口の停滞期については、同書は「この背景としては、(1)工業化以前の時代、農業生産の拡大には限度があったこと、(2)18世紀を中心として世界的な寒冷期が襲い、日本でも飢饉が相次いだこと、(3)生活水準を維持するため、産児制限が行われていたと推測されること、等が考えられる。」と指摘しています。
2つめは、耕地面積の推移です。
8世紀末 約100万町歩
16世紀末 約200万町歩
19世紀後半 約400万町歩
(出典 『近世の新田村』 木村礎/著 吉川弘文館 1995)
1600年 2065千町
1650年 2354千町
1700年 2841千町
1750年 2991千町
1800年 3032千町
1850年 3170千町
(出典 『日本の歴史 近世・近現代編』 藤井譲治/編著 伊東之雄/編著 ミネルヴァ書房 2010)
概数で言えば、
8世紀末 100万ha
16世紀末 200万ha
1600年 206万ha
1650年 235万ha
1700年 284万ha
1750年 299万ha
1800年 303万ha
1850年 317万ha
19世紀後半 400万ha
1873年 413万ha
となります。
これも参照する資料によって数字にばらつきがあります。細かい数字はともかく、江戸時代に耕地面積が急拡大することは共通しています。
耕地面積の推移に人口動態を重ねてみます。
長い米作りの歴史において、江戸時代は「特別」な地位を占めていると言えます。
8世紀末から16世紀末までの800年間(農水省資料ではさらに100年さかのぼって900年間)で2倍に増えた耕地面積を、江戸時代の300年でさらな倍増させたのです。
耕地面積の拡大は、米の穫れ高の増加を意味します。米の生産量の増大は、人口増を支える基盤になります。
耕地面積の拡大は、なぜできたのでしょう。
そこには、耕地拡大に対する為政者も含めた熱意があったでしょう。そして、それを可能にする治水・灌漑技術の進歩があったはずです。
米の収量増大には、農業技術や農具の進歩があったはずです。「農書」を著した学者がいて、農民の知恵と努力があって、百姓身分の鍛冶職人が精を出していた光景が浮かんできます。
耕地面積が拡大し、米の収量が増大した時代。それは、私たちの知る高度経済成長期のエネルギーに満ちた時代と重なりそうです。
こうした視点から江戸時代をとらえ返してみれば、歴史学習の語り口も子らへの課題の示し方も自ずと変わってくるのではないでしょうか。