教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「面従腹背」という生き方

面従腹背」(めんじゅうふくはい)

 

うわべだけ上の者に従うふりをしているが、内心では従わないこと。

▽「面従」は人の面前でだけ従うこと。「腹」は心の中のこと。「背」は背くこと。
                  (三省堂 新明解四字熟語辞典) 

 

四字熟語は中国由来のものが多いですが、これは明治期の日本生まれのようです。もとは「面従腹誹」(めんじゅうふくひ)という四字熟語で、いつしか語尾の二語を読み違え「面従腹背」になったとも言われています。
 
面従腹背」の類義語には、「腹黒い」「二心あり」などが挙げられています。
対義語は「如実知見」(にょじつちけん) 「眼横鼻直」(がんのうびちょく)などで、ありのままといった意味合いの言葉です。
 
つまり、「面従腹背」という言葉は、あまりいい語感をもっていないことが分かります。
 
 
 
そうした陰のある「面従腹背」を表舞台に出したのは、おそらく前川喜平氏が最初だろうと思います。
 
前川喜平氏は、2016年6月から17年1月20日まで文部科学事務次官でした。文部官僚のトップです。
そのときに遭遇したのが加計学園問題です。「総理のご意向」文書の有無が取り沙汰されたときです。
 
次官辞任後の2017年6月1日、テレビ朝日報道ステーション』のインタビューで次のように語っています。

私ね、座右の銘が「面従腹背なんですよ。あの、これは普通は悪い意味で使われるんだけど、役人の心得としてある程度の面従腹背はどうしても必要だし、この面従腹背の技術というか資質はやっぱり持つ必要があるので、ですから表向き、政権中枢に言われた通り、「見つかりませんでした」という結論に持っていくけれども、しかし、巷では次々にみつかっているという状態ということを考えたかもしれない。

そういう面従腹背しきれなかったかというと、しきれたかもしれません。いま私、面従する必要がなくなったんでね。だからいま、「面背腹背」なんですよね。けしからんと思われる方もたくさんいると思うんです、「今になって」と。38年宮仕えして、初めて自由を獲得したんですよ。「表現の自由」をですね、本当に100パーセント享受できる喜びというのはね、これは大変なものですよ。多くの公務員はものすごく息苦しい中で、暮らしているわけですよね。もともと政治活動についてものすごく制限されていますし、物言えば脣寒しなんてどころじゃない。「辞めた人だから気楽でいいね」と言われるんですが、その通りなんです。

 

この発言に対して、元通産官僚だった岸博幸氏(慶応大学大学院教授)がかみつきました。

 

 安倍内閣が人事権を握っているから逆らえないともいわれるが、本当に日本のために必要だと思うなら、クビを恐れずにやればいい。自慢する気はないが、竹中氏の秘書官として不良債権処理をやっていたときは、竹中氏が失敗したら私も辞めるつもりでいた。人事権を握られたぐらいで何もできないなんて、その程度の志しかない人間が偉そうにモノを言うなと思う。

 前川氏の座右の銘は「面従腹背」だそうだが、論外だ。そんなことを正々堂々という官僚なんて官僚のクズだと思う。一時期とはいえトップを務めた人間がそんなことを言えば、文科省がそういう組織に見える。文科省の後輩たちに迷惑をかけると思わないのか。

                     「産経新聞」2017.6.13 

 

前川喜平氏には、『面従腹背』(毎日新聞出版、2018年6月27日)という著書があります。 とても面白い本です。
前川氏のその後のメディアでの発言や、夜間中学への関わりをはじめとする活動なども合わせ考えると、私には岸氏が言うような「官僚のクズ」だったとは思えません。
いやむしろ、「面従腹背」という生き方に共感を覚えますし、振り返ってみれば自分もそうして生きてきたんだと思います。
 
岸氏の言う「日本のため」を、「学校のため」「会社のため」と置き換えてみましょう。
本当に学校のために必要だと思うなら、クビを恐れずにやればいい人事権を握られたぐらいで何もできないなんて、その程度の志しかない人間が偉そうにモノを言うな
座右の銘は「面従腹背」だ」なんて「論外だ。そんなことを正々堂々という教師なんて教師のクズだ
 
どう思います?
 
岸氏は、竹中平蔵氏が議員を辞めたときに官僚を辞めて、慶応大学助教授になりました。
しかし、官僚の末端はそううまくはいかないでしょう。ましてや一教員や一会社員に至っては…。
 
「面従腹」を違和感なく続けられるなら、それはそれでいいでしょう。
以前、政権交代がありました。そのとき、ダム建設推進からダム建設中止に政策が180度転換しました。きのうまで推進に「身も心も」捧げてきた官僚が、きょうからは阻止に「身も心も」捧げるなんてあるのでしょうか。仕事を続けようとしたら、少なくともどちらか一方は「面従腹背」でないと自己矛盾に苛まれます。
 
「面腹背」となると、組織の構成員ではいられなくなるでしょう。
意に沿わぬ仕事はどこにだってあります。反発もします。私もそうでした。そのときは「面」の様相を呈することもありますが、やがては「面従」に収まるしか仕方ありません。社会人として生きていくというのはそういうことだと思います。
 
面従腹背」という生き方には、組織人としての責任と、一個人としての精神の自由が併存していると思います。
 
最近、日本学術会議の任命拒否問題で前川喜平さんのコメントを目にすることが多々あり、ふと思い出した次第です。