「生類憐れみの令」第2部①
第2部では、「生類憐れみの令」の対象を犬に限定して追求します。
江戸幕府は犬を保護するために、江戸の町人たちにまず「犬毛付書上帳」(いぬけつけかきあげちょう)という犬の戸籍簿のようなものを作らせました。
下谷坂本町 犬毛付書上帳
一.2匹(一匹は黒虎男犬、一匹は赤ぶち男犬)主 孫左衛門〔印〕
一.1匹(白男犬) 主 新右衛門〔印〕
……(中略)……
総犬数、合わせて99匹
どの家には犬が何匹いて、その犬の色などの特長を届け出させたのです。
こうすれば飼い犬が死んだり傷ついたりしても責任の所在がはっきりするというわけです。
一見、名案のように思われます。
しかし、これがもとで問題が起こります。
飼い犬が行方不明になった時、さがし回らなければなりません。探して見つかればいいのですが、もし見つからなかったら…。
飼い犬が行方不明になれば飼い主が罰せられますから、他人の似ている犬を連れてきてしまうというような「事件」が起こりました。
そこで、人々は「何とかしてほしい」と訴えます。
それに対して幕府は、「犬がどこかへ行って見つからなかったら、できるだけさがして、それでも見つからなかったら、無理にさがさなくてもよい」としました。
しかし、犬の数だけ合わせるという現象に対して綱吉は「心得違いをしている人がいる。できるだけさがして、なおざりにするものがいたら訴え出、他人の犬が来たら育てなさい。飼い主が分かれば返してあげなさい。」ということを申し渡しました。
『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」
(貞享四年二月二十一日条)
飼犬の毛色簿書にしるし、もし犬見えざる時は、何方よりか他の犬をつれ来り、其員数を合するよしの聞えあり、畢竟人々をして生類愛養せしめらるべきの盛(誠)意にて、しばしば令し下さるゝ所に、実意あらざる挙動なれば、今より後、飼犬見えざる時は、成べきほど尋ね出べし、もしなおざり(等閑)にするものあらば、所属へうたふ(訴)べし、他の犬まからば、これもよく畜養し、その主しれば還しやるべしとなり
さて、「生類憐みの令」が出てから人々は犬を大切にして、棒でぶったり傷つけたりしなくなったのでしょうか。
人々は犬をいじめることが少なくなり、犬を恐れてさけて歩くようになりました。
野良犬が来た場合でも、以前より野良犬などにエサをやるのをきらうようになりました。
その結果、野犬がだんだん狂暴化して人間や馬にかみつくようになりました。
しかし、人間が棒でたたいたり傷つけたり殺したりすると罪に問われます。
そこで人々は犬をさけて通るようになりました。
面倒なことには関わらないことが一番……いつの時代も処世の術は変わらないのですね。
なかには、隠れてこっそり犬を殺してしまう者もいたようです。
そういうことに対して幕府は犯人をきびしく追及しました。
元禄9(1696)年には、犬殺しの犯人を訴え出た者には金30枚(今でいうと120万円程度)与えるという高札を立てたくらいでした。
ある12~13歳の少女は「あの犬を突き殺したのはあのおじさんです」と訴え出て、30両の大金を与えられました。その犯人は数ヶ月後に捕まって死刑の上、さらし首になりました。
「授業書」は、この少女のとった行動を紹介した後にこう聞きます。
少女が「犬を殺した悪いおじさん」を訴えたことについてあなたはどう思いますか。
これもまた深い問いです。