「生類憐れみの令」第3部
第3部では、「生類憐れみの令」の起源や廃止について触れます。
将軍綱吉は、なぜ「生類憐みの令」を出したのでしょうか。
これには諸説あります。
綱吉は迷信ぶかくて、「将軍に世嗣が生まれないのは前世で殺生したからだ」というような話を受け入れて、人々に強制した。
一般に広く流布している通説です。
綱吉は学問好きで潔癖だったため、生類を憐れむことの大切なことをなんとか人々の間に広めたいと考えた。
孔子廟の「湯島聖堂」を作った綱吉は学問好きで、儒学については自ら講義するほどの秀才であったと言われています。この稿では触れていませんが、「生類憐れみの令」は「捨て子の禁止」も打ち出しています。戦乱の世が終わり、徳を重んじる文治政治を推し進めていく中で出てきた政策と考えるのが妥当でしょう。
さて、世に「生類憐みの令」という法令は1つの法令ではなく、たくさんの法令が相次いで出されたものを総称したものです。
「生類憐みの令」の始まりは、長らく貞享4(1687)年の「病気の牛馬を捨てることを禁じた法令」からとされてきました。最近では、貞享2(1685)年7月14日の「将軍の御成の際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令」からと考えられています。
それから20年以上にわたって、70とも100とも言われる法令が出されています。「生類憐れみの令」は、それらの法令群を総称して呼んでいるものです。
それでは、生類憐みの令が廃止になったのはどのような事情によるものだったのでしょう。
宝永6(1709)年正月、将軍綱吉は病の床にありました。成人麻疹であったと言われています。
死に臨んで養嗣子の家宣に、自分の死後も生類憐みの政策を継続するよう遺言します。
そして、1月10日に64歳で死去しました。
綱吉の死後、事態は一気に動きます。
死去からわずか10日後の1月20日、生類憐みの令は廃止されました。
綱吉の葬式が行われたのは、その3日後のことでした。
生類憐みの令が廃止され、犬小屋に集められていた野犬は分散させられました。また、この令に違反して獄舎につながれていた何千人という人々が解放されたそうです。
その他の法令も順次廃止されていきました。
廃止の一方で、継続された法令もあります。
「牛馬の遺棄禁止」「捨て子禁止」などは、そのまま継続されました。
「生類憐みの令」の始まりとされる「将軍の御成の際に、犬や猫をつなぐ必要はないという法令」 は、8代将軍吉宗が廃止するまで続きました。鷹狩りも吉宗の代まで行われていません。
「授業書」の最後はこうなっています。
生類憐みの令の歴史を調べてまとめましょう。
「生類憐れみの令」や綱吉について、あなたの意見をまとめましょう。
若干補足したいと思います。
「授業書」が発表された1982年当時と今とでは、「生類憐れみの令」に対する評価が違ってきています。
綱吉は「犬公方」と揶揄され、「生類憐れみの令」は「天下の悪法」とされてきました。
これには、綱吉の後に政権の要職に就いた新井白石が『折たく柴の記』で批判したことも大きく影響しているようです。白黒をはっきり付けたがる民衆心理からすれば、白石の評価は真っ当な為政者で「白」です。したがって「白」が批判する綱吉は「黒」です。綱吉や「生類憐れみの令」は、実際以上に黒く伝わっている可能性があります。
明治新政府による江戸時代のマイナスイメージなどもそうですが、誰かが意図的に色づけした歴史が「真実」として語られるのは世の常です。
1990年代に入って、網野善彦さんの『日本の歴史をよみなおす』『日本社会の歴史』、大石慎三郎さんの『新書・江戸時代』など、歴史の見直しを迫る一般読者向けの著書が相次いで刊行されています。
こうした流れのなかで、「生類憐れみの令」についても「正当な」再評価が行われるようになりました。
「授業書」は、この「再評価」の視点がまだ及んでいないと感じます。授業化においてはそのあたりを勘案し、「生類憐れみの令」や綱吉その人への意見形成がなされるようにお願いしたいです。