教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「生類憐れみの令」を授業する⑦

「生類憐みの令」や綱吉について、あなたの意見をまとめましょう。

 

わくわくするような設問です。

切り口がいくつもあります。

 

どの子が、どんな切り口で挑んでくるでしょうか。

 

 

ここからは、私の雑感です。

 

まず、綱吉について。

 

「犬公方」「犬将軍」などの代名詞によって、徳川綱吉はまともな人ではないような擦り込みが行われています。レッテル剥がしが必要です。

 

綱吉は、儒教にとても明るく徳を重んじる文治政治を推し進める為政者です。その政治は「天和の治」として評価されています。

 

少なくとも、綱吉の人格を否定するような扱いはあってはならないと思います。

 

綱吉は3代将軍家光の4男です。4代目家綱が家光の長男ですが、その養嗣子になります。家綱の死去に伴い綱吉が将軍職に就いたのは1680年で、将軍職就任に功労のあった堀田正俊大老にします。

堀田正俊は1684年に刺殺されるのですが、それまでの為政が「天和の治」と言われるものです。

「生類憐れみの令」は1685年に始まったいます。ここからが「悪政」と言われる部分です。

綱吉の内面で何が起こっていたのかは分かりません。1684~5年を境に、政治のありようが大きく変わっていきました。

 

つぎに、「生類憐れみの令」について

 

「生類憐れみの令」と言えば「犬」と相場が決まっていますが、これもまた一旦レッテル剥がしが必要です。

 

「生類憐れみの令」は、「生きとし生けるものの命を大切に」という綱吉の「善意」から発したものとみるのが妥当と思います。

 

 

「生類憐れみの令」を斬る!

 

■善意が人を殺す

「生きとし生けるものの命」を大切にすることは、正しいことです。そのこと自体は褒められこそすれ、咎められることではありません。

正しいことをした結果、犬が人を襲う事態に至りました。

正しいことをした結果、魚屋が生きた魚貝を売れなくなりました。

善意から発した正義が、人を殺す結果を生んだのです。

 

そのことをどう考えればいいのでしょう。

「ほどほどが大事」という教訓でしょうか。

 

■個人の善、為政者の善

蚊を殺した科で罰を受けたという記録もあります。

「蚊にも命があり、人の血を吸うのも生きるためなのだから、むやみに殺生をするな」ということでしょう。

 

一個人としての綱吉がそう考えたとしても、まったく問題ありません。

生きた魚貝を食べることは殺生をすることだと考えても、何ら問題ありません。

金魚鉢に金魚を閉じ込めるのはかわいそうだと考えたとしても、一向に構いません。

「わたくし」を縛る範囲内の規範であれば、それは「その人の勝手」なのです。

 

しかし、為政者の善は違います。

社会には、蚊を殺すのは殺生だと思う人もいれば、当然の行為だと思う人もいます。

生きた魚貝を食べるのは殺生だと思う人もいれば、常識と思う人もいます。

金魚鉢で金魚を飼うことを虐待と考える人もいれば、そうは考えない人もいます。

為政者の善は、考え方の違う双方を納得させるものでなければなりません。

少なくとも、圧倒的に少数の片方に立つには、ていねいな説明と説得が必要です。

 

「生類憐れみの令」の過ちは、綱吉「個人の善」をそのまま「為政者(将軍)の善」にしてしまったことにあるのだと考えます。

 

 

■「捨て子禁止」「捨て老人禁止」を言う前に

「生類憐れみの令」には、「捨て子禁止令」「捨て老人禁止令」という「人間の命」を大切にする法令も含まれています。

これらはだれが見ても正しいことですから、綱吉の死後も廃止になることはありませんでした。

 

しかし、考えてみてください。

わが子を捨てたくて捨てる親がいるでしょうか。

わが老親を捨てたくて捨てる子がいるでしょうか。

そこには、飢饉、貧困など「止むに止まれぬ」事情があるはずです。

 

為政者の為すべきは「禁止令」を出すことでしょうか。

私は、「止むに止まれぬ」事情を取り除くことが政治だと思います。

 

 

人間科「生類憐れみの令」の授業、どんな展開が待っていますやら。