「生類憐れみの令」第1部③
生類憐みの令の時代には、金魚を金魚鉢に飼うことについてはどうだったのでしょう。
生類憐れみの令の時代と言わずとも、これは評価が割れる問題ですね。
金魚鉢に金魚を入れて世話をすることは、間違いなく金魚を可愛がる行為です。金魚を憐れんでいるのですから、大いに奨励されるべきです。
いやいや、金魚鉢に閉じ込めることは金魚の自由を奪うことになり、これは金魚に対する虐待行為です。
うーん、どちらも言えるよなあ。
……
前回紹介した資料の省略部分に次のように書かれています。
『徳川実紀』「常憲院殿御実紀」
(貞享四年二月二十七日条)
食料とて、魚、鳥を蓄養してうりひさぐ(売販)こと、今より後かたく停禁すべし、鶏、亀もこれに同じ、但し翫弄のために魚、烏飼ふことはゆるすべし、鶏、亀、貝類に至る迄、食料とては一切飼置べからずとなり
「翫弄のために魚、烏飼ふことはゆるすべし」…「翫弄(がんろう)」は「おもちゃ」の意味合いですので、観賞用として「魚、烏飼ふことはゆるすべし」だったんですね。貞享4(1687)年2月の時点では。
ところが、……。
元禄7(1694)年りお触れには、次のようにあります。
「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」
金魚鉢などに閉じ込め、金魚の自由を奪うのけしからんということになったのでしょう。
このお触れの結果、差し出された江戸市中の金魚・銀魚が集められ、遊行寺の池に放生されました。
「生類憐れみの令」と金魚すくいのおはなし
このパートは私のオリジナルです。
金魚と言えば、奈良県の大和郡山や愛知県の弥富などが有名です。
弥富の金魚は大和郡山から伝わったと言われています。
さて、大和郡山の金魚。
金魚すくい用の金魚養殖が盛んで、金魚すくいの全国大会が毎年催されています。
大和郡山の金魚の歴史は江戸時代に遡ります。
享保9(1724)年、甲斐国甲府藩藩主柳澤吉里が大和国郡山藩に転封します。
この転封の際、柳澤氏は甲斐国から金魚を持ち込みました。
これが「金魚の町・大和郡山」の始まりです。
注目したいのは、その年代です。
「江戸市中の金魚(赤色)銀魚(白色)を所持いたすものは、その数など正直に報告し差し出すべし」という「生類憐れみの令」が発令されたのが、1694年です。
そして、詳しいことは後々触れますが、1709年1月に「生類憐れみの令」関連法がすべて廃止されます。
柳澤吉里が郡山藩に入ったのは、1724年のことです。
歴史に「もしも」はないと言いますが、もしもあと15年「生類憐れみの令」が続いていたらどうでしょう。
柳澤氏が大和郡山に金魚を持ってくることはなかったでしょう。
したがって、大和郡山市が金魚すくいの全国大会を毎年開催するような「金魚の町」になることは、おそらくなかったでしょう。
大和郡山の金魚がなければ、それが弥富にもたらされることもなかったでしょう。
もしもあと15年「生類憐れみの令」が続いていたら、こんにちの金魚事情はまったく違ったものになっていた可能性が高いのです。
歴史の偶然はおもしろく、だからこそ興味が尽きません。
ところで、水谷豊さん主演のドラマ「 無用庵隠居修行」で、直参旗本・日向半兵衛(水谷豊)が丸い桶を縦にしたようなガラス張りの器に入った金魚を愛でるシーンがあります。
ドラマの時代設定は松平定信の寛政の改革のころ、1790年前後です。
「生類憐れみの令」が続いたいたら、このシーンも時代考証でカットされていたでしょう。
さて、「授業書」では将軍綱吉が自らの鷹狩りを自粛したことにも触れ、「綱吉のことを好きですか、嫌いですか」と尋ねます。
もちろん「正解」などありませんし、多数決で決めるような問題でもありません。
何を根拠に好きなのか、嫌いなのかを討論するなかで、その子のことが今まで以上に見えてくるはずです。
これは社会科ではなく、「人間科」の授業なのです。