「生類憐れみの令」第2部②
人々が野犬に対する警戒を強めると、今度は飢えた犬同士が食い合うようにもなります。じっさい、やがて江戸市中ではそういう事件が相次いで起こるようになりました。犬同士が食いつきあった結果一方の犬が死んだりしたら、誰が罰せられることになったでしょう。
噛み殺した犬は死刑?
いえいえ、犬を憐れむための施策ですから、犬を罰することはしません。
罰を受けたのは、見ていた人です。
幕府は、「けんかをしている犬を見つけたら水をかけて引き分けるようにせよ」と指示を出しました。
その後、次々にいろいろな問題が出てきたので、幕府は直営の犬小屋を建てます。
今の東京の大久保、四谷、中野に幕府直営の犬小屋を建てて、江戸中の野犬をそこに集めて育てることにしました。元禄8(1695)年のことです。
この犬小屋は「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれ、特に中野の犬小屋は「中野御用御屋敷」と呼ばれました。
犬小屋の敷地は、大久保がおよそ2万5000坪(82500㎡)、四谷がおよそ1万9000坪(62700㎡)、中野は16万坪(528000㎡)でした。中野は最終的には30万坪(東京ドーム20個分)になりました。
そこに暮らしていた人たちは立ち退きを強制されました。
犬小屋は1棟あたり25坪(ほぼ1辺が9mの正方形の広さですから、小学校の教室よりも少し広めです)で、中野の場合こうした小屋が290棟ありました。
さて、この小屋に収容された犬の数ですが、驚くなかれ、多い時には10万匹が収容されていたようです。
当時の江戸の町人は50万人ですから野犬だけで10万匹というのはすごい数です。
野犬を10万匹とすると、1棟に300匹~400匹の犬が収容されていたことになります。25坪は畳50枚の広さですから、畳1枚の広さに6匹~8匹の犬がいたということです。
犬小屋の規模もさることながら、運営費も莫大です。
『加賀藩史料』に収められた『政隣記』の元禄8年12月6日条には、中野の犬小屋には当時82000匹余の犬が収容され、犬1匹の餌代は1日あたり米2合と銀2分で、その合計は1日銀16貫目余となり、1年間の餌代は金98000両余(今でいうと40億円近く)にのぼったと記されています。
この維持費用は、すべて江戸町人から「御犬上ヶ金」として徴収されたということです。
「授業書」は、「あなたの感想を書いてください」で第2部を締めています。