「四民平等」は何だったのか
歴史教育の周辺(その13)「士農工商」はなかったの続編になります。
「士農工商」という身分制度はなかったのなら、「士農工商」という身分制度を廃止した「四民平等」とは何だったのでしょう。
まず、言葉の整理をしておきましょう。
「四民」というのは、「士農工商」と同様に中国の古典に出てくる語(『管子』…「士農工商の四民は石民なり」)で、「すべての人」とといった意味合いの言葉です。
「四民平等」とは、辞書的解釈では「すべての人は平等」という意味です。
かつての教科書は、「士農工商」という身分制度をなくして(すべての人を)平等にしたと書いていました。私もそう教えていました。
しかし、前提となる「士農工商という身分制度」がなかったのであれば、この説明は成立しません。
「四民」=「すべての人」=「士と百姓・町人」と解せば、その点は何とかクリアします。
しかししかし、
「四民平等」という太政官布告は存在しない
「四民平等」を辞書で引くと、「明治初期、維新政府が江戸時代の士農工商の身分制を廃止したときのスローガン、あるいはそのための一連の政策。」(大辞泉)とあります。
管見では、古くは「昔の俳優はあれど、今は四民平等の世の中、華族が白粉傅けて見世物となるも不思議にあらず」(読売新聞 1897年4月10日)を知るのみで、公文書での使用例を発見できていません。
少なくとも、明治初年に「四民平等」を謳った法令(太政官布告)が出されたという事実はありません。
「一連の政策」を指すなら、それを検証するしかありません。
「四民平等」は身分撤廃にあらず
・1869年6月 版籍奉還 公卿・諸侯(旧藩主)称を廃止し、華族と称する
藩士を士族・卒とし、農・工・商を平民とする
・1869年12月 同心など下士層を卒族とする
※1872年1月卒族は廃され、郷士などの世襲のものは士族、他は平民に
・1870年9月19日 太政官布告第608号「平民苗字許可令」
〈自今平民苗字被差許〉との布告が平民の称の初出
・1871年4 月 戸籍則を定める(いわゆる「壬申戸籍」 1872.2.1 実施)
※平民に苗氏を認める
・1871年8月28日 太政官布告第61号「賤称(賤民)廃止令」(いわゆる「解放令」)
「穢多非人等の称廃せられ候条自今身分職業共平民同様たるべき事」
・1875年2月 平民の苗字を義務化
「平民苗字被差許候旨明治三年九月布告候慮自今必苗字相唱可申」
以上が身分に関する経緯です。
江戸時代の身分が廃止され、皇族・華族・士族・平民という新たな身分が設けられました。被差別身分も廃止され「平民」となりましたが、戸籍に「新平民」と記載されるなど、差別は解消されませんでした。
こうした経過からは、「四民平等」のめざした社会が身分のない万民平等の社会でなかったことは明らかです。
「四民平等」における権利の平等
ならば、自由・平等という権利に関する側面はどうでしょう。
・5 月12日 往来妨害の涼み床の禁止 [府布令]
・6 月4日 道路・橋上等の取締 [府布令]
・7 月22日 各府県に居留・旅行する者に鑑札を渡す制度廃止
(居住移転旅行の自由)
・8 月9日 散髪・廃刀の自由を認める
・8月23日 平民の襠高袴等着用許可 [太政官]
・8月23日 華族・平民の自由通婚 [太政官]
・9月15日 通婚自由の諭告 [府布令]
・12月18日 在官者以外の華族・士族・卒に、農・工・商業を営むことを認める
(職業の自由)
1872年 学制制定
1876年 廃刀令を制定する
「四民平等」における「平等」は、今日の人権感覚における「平等権」とは異質のものです。基本的には旧身分制に伴う差異(特権)を取り払うための「自由権」と言えます。
「四民平等」における義務の平等
・1872年11月28日 徴兵の詔書
徴兵告諭の太政官布告
※国民皆兵の制度化
・1873年7月28日 地租改正
※地価の3%を金納
「四民平等」なのだから、兵役と納税の義務も平等にというわけです。
「四民平等」の本当のねらいはこのあたりにあったのかもしれません。当時の為政者の意図は置くとしても、歴史の事実はそう語っています。