教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

人権教育2022② 人権教育の「不易」

「30年前に習った人権は当てはまらない」と、谷口真由美さん(大阪国際大学准教授。大阪大学非常勤講師。専門分野は、国際人権法、ジェンダー法、日本国憲法。)は言います。

 

いわく、

30年前に習った人権は当てはまらない 谷口真由美さんが語る差別

                  聞き手・小若理恵

                  朝日新聞デジタル2022年3月5日 10時00分

 「あの人にあって、私にはない人権って何なん?」。法学者の谷口真由美さんはドキッとする言葉で私たちに問いかけます。人間は差別をしてしまう存在だからこそ、「人権」を学び続ける必要がある。どういうことでしょうか。

 部落差別の問題もそうですが、当事者が「いまだにあんねん」と差別の事実を突きつけることは大事です。ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動も女性差別も同じで、「もうなくなったやろ」っていうのが「ニューレイシズム」。でも、あるやん、実際。

  かつて同和対策事業で部落出身者の公務員採用を増やしたことがありました。「人権」というのは、資源やパイを分けていく行為でもあるので、「今までこんな暮らしができたのに、あいつらが台頭してきたからできなくなった」と主張する人が出てくる。

 人間が持つ具体的な権利を指す人権や「SDGs(持続可能な開発目標)」って、語れば語るほどみんながしんどくなっていくことでもあるんです。そうすると「やつらはこんなに恵まれてるで」って、部落の人や在日コリアンが暮らす地区の映像を公開するような人が現れる。それって何の正義なんやろう。知的好奇心だろうが正義感だろうが、当事者にとって暴かれたくないプライバシーをさらすのは間違いです。

 人間って、差別をしてしまう存在やと思うんですけど、それを理性と知恵で何とかしようというのが「人権」という概念です。人間の感情に備わっている「やさしさ」とかそういうものじゃないし、欲求でもないから、勉強するしかない。

 

※この続きが「30年前に習った人権は当てはまらない」という話になるのですが、有料記事です。

 

「30年前に習った人権は当てはまらない」とは、刺激的な表現です。

「30年前に習った人権は当てはまらない」ならば、20年前のものも「あまり当てにならない」ということになるでしょう。

つまり、前回紹介した20年前の「人権教育のカリキュラムを創る」は、「あまり当てにならない」みたいです。

 

教育には「不易」と「流行」があります。

同じように、人権教育にも「不易」の部分と「流行」の部分があります。

 

人権教育における「不易」は何でしょう。

 

私は、人権教育における「不易」は「差別の現実に深く学ぶ」ことから取り組みが始まるということだと考えます。

 

かつて同和教育の目標は、「部落差別の現実に深く学び……」(もしくは「部落差別の現実から深く学び……」)との文言で始まるのが通常でした。

それは、同和教育が部落差別の実態(現実)を改善・解消すべく生み出されてきた教育の営みであるという歴史の証左でもあります。

部落差別をなくす取り組みは、部落差別の現実から出発しないと何も始まらない。すべてはそこから始まるのです。

 

人権教育は、具体的な人権侵害の課題を解決することをめざす教育です。それは、「(その人権課題の)差別の現実に深く学ぶ」ことから始まらなければなりません。

 

 

この際、加えたいことがあります。

先に紹介した「人権教育のカリキュラムを創る②」の一節です。

 同和教育の成果と課題を考える際に、奥田均氏が提示された「部落差別の現状認識の5領域(図1)」が参考になる。

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 従来、部落差別の実態把握は、「部落内」の「実態的差別」(A領域)、「部落外」の「心理的差別」(B領域)、両者の結合部分である「差別事件」(C領域)という3領域を対象としてきた。それらは、「部落の生活実態調査」「市民の人権意識調査」「差別事件の集約」によって検証されてきた。同和教育実践もまた、概ねこれら3領域を対象として展開されてきたと言える。「低学力傾向」克服の取り組み、格差是正・解消の営みの教材化(以上、主としてA領域)、差別意識を払拭するための「正しい部落問題」の教材化(B領域)、反差別の生き方を培うための差別事件の教材化(C領域)などがそれに該当する。


 注目したいのは、「図1」における欠落部分、すなわち「部落の側における心理的差別」の実態(D領域)、および「部落外」の「実態的加差別」の実態(E領域)についてである。


 「D領域」は、部落差別の実態が部落の人々にどのような心理的影響を与えているかという問題の領域である。「不安」「しまい込み」「自己制御」「気苦労」「遠慮」といった被差別の側の心理的状況を、差別の実態の副産物としてではなく、それ自体を部落差別の実態として受けとめるべきだと、奥田氏は指摘する。「自尊感情」や「エンパワーメント」は、まさにこの領域に応える教育実践だと言える。


 「E領域」は、「被差別の実態」と対をなして「部落差別の実態」を構成する「加差別の実態」の領域である。例えば「身元調査」や「釣書」など、それ自体は部落差別でなくても、結果として差別意識の拡大や被差別の実態の再生産に結びついているといった問題である。「私と部落差別」「私にとっての部落問題」というアプローチが、この領域に応える実践になる。

 

たとえば「女性差別」ということを考えてみます。

女性差別」は、基本的に男性の問題です。先の「部落差別」の図に当てはめれば、「A領域」が「女性の実態的差別」で、「B領域」が「男性の心理的差別」、両者の結合部分である「C領域」が「差別事象」になります。

「D領域」は、女性差別の実態が女性にどのような心理的影響を与えているかという問題の領域です。「不安」「しまい込み」「自己制御」「気苦労」「遠慮」といった被差別の側の心理的状況を、差別の実態の副産物としてではなく、それ自体を部落差別の実態として受けとめるべきだと、奥田氏は指摘します。その結果として、女性が女性を差別してしまっている事例が数多存在します。

「E領域」は、「被差別の実態」と対をなして「女性差別の実態」を構成する「加差別の実態」の領域です。少し視点がズレますが、「加差別の実態」の裏返しとして、男性社会を生きにくくしている(「男らしく」「男のくせに」…。それが差別につながることも)実態があります。

つまり、女性差別は、「被差別」は女性で「加差別」は男性といった単線の問題ではないのです。(先の部落差別も他の人権侵害も同様です)

女性差別には、男女に関係なく「女性差別に加担する者」と「女性差別をなくそうする者」の二者しか存在しないのです。「女性差別に加担する者」のほとんどは、気づかずにいる者、無関心でいる者でしょうが、結果として女性差別を容認し存続させる一人です。

 

「差別に加担する側」と「差別をなくそうする側」という視点は、あらゆる人権課題に適用されるものです。従来の「差別する側(加差別)」と「差別される側(被差別)」に代わる視点として、人権教育を組み立てる軸に据えることを提起します。

その際、「差別の現実に深く学ぶ」という「不易」の原則は、「D領域」「E領域」を含む5領域における「差別の現実」を指します。