教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

日本語探訪(番外2) 教育のことば「勉強」と「学習」と「study」と

「日本語探訪(番外)」では、元教員として気になっていることのいくつかを「教育のことば」として取り上げます。

今回は、「勉強」を基本語として、「学習」と「study」をあわせて取り上げます。

 

勉強

 

「勉強」の読み方

べんきょう

 

「勉強」の意味

①精を出してつとめること。

②学問や技術を学ぶこと。さまざまな経験を積んで学ぶこと。「数学を―する」「何事も―だ」

③商品をやすく売ること。「お値段は―しときます」広辞苑

 

ここで取り上げているのは、②の意味です。

 

「勉強」の語源・由来

「勉強」の出典は、『中庸』です。『中庸』は、朱子によって儒家の根本的な教典である「四書」の一つとして定められたものです。

 

或生而知之;或学而知之;或困而知之:及其知之,一也。

或安而行之;或利而行之;或勉强而行之:及其成功,一也。

【読み下し文】

或ひは生まれながらにして之(注:「之」は「道」)を知り、或ひは学んで之を知り、或ひは苦しんで之を知る。其の之を知るに及びて一なり。

或ひは安んじて之を行なひ、或ひは利して之を行なひ、或ひは勉強して之を行ふ。其の功を成すに及びては一なり。

【現代語訳】

ある者は生まれながらにして道(注:「人として守るべき道徳の規範」の意)とは何かを知っている。ある者は学んで道を知る。またある者は苦しみながら道を知る。このように、道を知る方法は三者三様であるが、結果的に道を知ったという点では同じである。

ある者は何事でもないように道を行い、ある者は道とは何かを確かめるようにこれを行い、またある者は頑張って道を行う。このように、道の実践のしかたは三者三様であるが、道を実践しその功を発揮したという点では同じである。

 

※語源から導かれる「勉強」の語意は、「困難なことをむりにがんばってやること。」(学研漢和大字典)です。「広辞苑」では、「①精を出してつとめること。」がそれに該当します。

 

「学研漢和大字典」の「」の項

《意味》
❶{動詞}つとめる(つとむ)。むずかしさを押し切って励む。無理をする。《対語》⇒怠・惰。《類義語》⇒励・努。「子必勉之=子必ずこれを勉めよ」〔孟子・滕上〕
❷{動詞}はげます。無理を押して、すすめてやらせる。「勉励」「兄勧其弟、父勉其子=兄は其の弟に勧め、父は其の子を勉ます」〔漢書・貢禹〕
《解字》
会意兼形声。免は女性が股(マタ)を開いて出産するさまを描いた象形文字で、分娩(フ゛ンヘ゛ン)の娩の原字。狭い産道からむりをおかして出る意を含む。勉は「力+音符免」で、むりをして力む意。⇒免

」の項

《意味》

❻{副詞}しいて(しひて)。むりやりに。▽彊に当てた用法。上声・去声に読む。「強行」「強奪(コ゛ウタ゛ツ)」「強為之名曰大=強ひてこれが名を為して大と曰ふ」〔老子・二五〕

 

「勉強」の蘊蓄

「勉強」を英語に訳すと「study」です。

study」の語源を調べてみました。「語源英和辞典」には、

中期英語 studies(勉強)→estudies(勉強)→studium(没頭)→studeo(打ち込む)→stewd-(打つ)が語源。「学業に打ち込むこと」がこの単語のコアの語源。etude(練習曲)と同じ語源をもつ。

とあります。

「study」の語源は「没頭(熱意・情熱)を表すstudium」や「打ち込む(専念・勉強する)という意味のstudeo」など辿って派生した単語です。

 

「勉強」の語源は、「困難なことをむりにがんばってやること。」でした。

それに対して、「study」という単語には「自分から学業にのめりこんでいく」語感があります。「勉強」とは真逆に近い語感です。

 

学習」という語はどうでしょう。

広辞苑」には、

①まなびならうこと。
②経験によって新しい知識・技能・態度・行動傾向・認知様式などを習得すること、およびそのための活動。

とあります。

 

白石崇人さん(大学教員、教育学博士)のブログ「教育史研究と邦楽作曲の生活」から引きます。

語源から考える「学習」とは何か―教育と学習との不即不離
2009年05月27日
今回は、「学習」という文字の語源から、学習とは何か考えて見ましょう。また、最終的には、前回の語源から考えた「教育」の意味と絡ませ、学習とは何かという観点から教育とは何か考えてみたいと思います。

 「學(学)」という漢字と「まなぶ(学)」という日本語、および「習」という漢字と「ならう(習)」という日本語は、そもそもどんな意味を持っていたのでしょうか。
 「」の漢字は、「コウ(例の×が2つ上下に重なった字)」が「キク」という字にはさまれて「ヤネ(ウ冠のような字)」の上にのっている部分と、「子」の部分から成る漢字です。「コウ」は交差・交流などの意を表し、「キク」は両方(2人?)の手、「ヤネ」は屋根のある家を表します。子(弟子)が師に向き合って交流し、知識などを伝授される様を表す漢字です。師と弟子との間における知識等の伝授は、まずは師による行為としてあらわれます。続いて、「コウ」の字があることからわかるように、弟子による授けられた知識等を受け取る行為も意味しています。すなわち、「學」の字は、師弟が向き合い、師が知識等を授け、弟子がそれを受取ることを意味しているのです。
 「まなぶ」という日本語は、「マネブ」「マ・ナラフ」という語が転じたものと言われています。「マネブ」は「真似ぶ」「真(誠)擬ぶ」であり、マコトたる真理と誠実とについて、正しい手本をまねることです。「マ・ナラフ」は「真(誠)習ふ」であり、真理と誠実とについて習うことです。「まなぶ」という日本語には、真理(すなわち深い知識)と誠実(すなわち道徳)について、正しい手本からまね、習うことという意味があるのです。
 では、「習」という漢字はどうでしょう。「習」という漢字は、「羽」と「白」の2つの部分から成っています。「羽」は、鳥の二枚のはねを並べた象形文字。「白」は、この場合、「曰」の変形文字で、発語に限らず、さまざまな行為が行われる意味を示す字です(「自」の変形で鼻を表すという説もあります)。「」の漢字は、鳥が二枚の羽を何度も何度も羽ばたかせている様を示した文字です。習得しなければならない行為は、習得しようとした時点ではまだ十分に身に着けていない行為です。そうなると「習」の字は、もっと言えば、巣立ちを迎えた雛鳥やうまく飛べない若鳥が、繰り返し羽根を羽ばたかせて、よりよい飛び方を身に着けようとしている様を示しているともいえましょう。「習」という漢字は、何度も繰り返してある行為などを身に着けようとする行為を意味しています。
 「ならう」という日本語は、「ナレアフ」「ナラシフ」「ナラブ」という語が転じた語といわれています。「ナレアフ」は「馴合う」であり、「ナラシフ」は「馴歴」であり、何らかのものごとやルールに合った行動をするようになることです。「ナラブ」は「並ぶ」であり、高度な知識・態度・能力などを身に着けている者と、同等程度のものを身に着けている状態のことです。「ならう」という日本語には、手本とすべき人物などを見習って、高度な知識・態度・能力を身につけるという意味があるのです。
 以上、語源から「学習」の意味を探ってきました。「学習」とは、師によって伝授された高度な知識・態度・能力などについて、学習者が何度も何度も繰り返しまねをして、ついに同程度のものを身に着けるという、一連の主体的行為なのです。ここには、師から施された教育的行為がなくては、「学習」が成り立たないことがわかります。
 前回、教育が成立するには、被教育者の学ぶ姿勢が必要だとしました。つまり、教育と学習とは、別々に成立しうるものではなく、不即不離の関係において成立すると言えるでしょう。教育者による教育は被教育者の学習あってはじめて成立し、学習者による学習は教育者による教育あってはじめて成立するのです。

 ということで、教師が学生をほったらかしにしていては、教育は成り立たないのではないかと思います。教師には、学ぶべきもの(知識・態度・能力)に学生を近づけていく姿勢が必要でしょうね。そして、学生には、教師が教えることを素直に受け止める姿勢が必要でしょうね。

 

 

こうしてみてくると、私たちが目指す教育というのは「study」なのだということが分かります。

 

では、「study」を訳す日本語は何なのでしょう。

「study」の日本語としては、「勉強」というのはちょっと距離がありすぎます。

「学習」にも「study」のもつ能動性が欠けています。しかし、一般的に使われている語としてはこちらのほうが語感が近いように思います。

 

学びを意味する「勉強」は、江戸時代から使われてきた伝統ある語です。

しかし、アクティブ・ラーニングが世界標準となる時代、伝統よりもその中身を体現する造語があって然るべきです。

 

じつは、問いたいのは言葉の問題ではなく、教育や学びのあり方なのですが…。