教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

新米と新米教師

2023年9月28日。新聞のテレビ番組欄に「新米の季節」の文字を発見。

今ごろ新採ってどこの会社?と思いきや、とんだ勘違い。

お米の話だった。

 

いや、それにしても…。

新しく採れたお米が「新米」で、新しく入った社員も「新米」。

なんで同じ?

 

同じだけど、違う。

お米の「新米」は、みんなが待ちわびていて、評価も上々だ。

しかし、「新米」教師となると、お米ほどプラス評価に満ち満ちているわけではない。「日本語俗語辞書」には、「新米とは、(仕事などに)まだ不慣れな新人のこと」とある。

 

いわゆる「新米」とは今年収穫した米のことで、つまり今がまさに「新米の季節」なわけだ。収穫前までは去年の米が「新米」だったのが、収穫を境に「古米」になってしまう。「新米」と「古米」では評価も値段も違う。当然、「新米」が上だ。

 

教師はどうだろう。

「新米」教師と「古参」教師を比べれば、一応「一般的に」とことわっておくが、実力も評価も「古参」の方が上(のはず)だ。

 

違うのに同じ「新米」なのはなぜ?

 

妙なことが気になる性分だ。調べてみた。

「雑学unun」には、次のようにある。

新米の語源とは?

「新前掛け」という商家の言葉から由来。

かつて、商家では新しい奉公人が入ると「お仕着せ」と呼ばれる、今で言うところの制服のような着物を支給していました。
この時に一緒に貰えるのが「新前掛け」つまり、新しい前掛けのことです。

大阪の船場などでは、これを「しんまえ」と呼んでおりこれに江戸の訛りが入って「しんまい」となっていつしか「新米」の漢字があてられるようになったようです。

「SMART AGRI」には、4つの説が紹介されている。

 「新米」の語源

特定の物事に対して不慣れな人という意味を持つ「新米」は、江戸時代から使われていたとされています。なぜ、「米」という字が使われるようになったのでしょうか。諸説ある「新米」の語源を紹介します。

純白なお米説
白いお米のように、まだ何色にも染まっていないことから新米と呼ばれるようになった。

江戸に人が集まるようになって米も集まった説
江戸に職を求めて人がやってくるようになるとともに、たくさんのお米が集まるようになり庶民的な食べ物になったことから、新人の「人」という文字と米をかけて新米と呼ばれるようになった。

新前掛けから新米になった説
雇われたばかりの人は新しい前掛けをしていることから、新人を新前掛けと呼ぶようになった。これが新前と略され、さらに訛って「シンマイ」となり米という字が当てられた。

新前から新米になった説
日本語では「男前」や「腕前」といった言葉があるが、元々「前」という字は「それらしいこと・もの」という意味を持つ。新人のことを新しいものという意味で「新前」と呼んでいたが、だんだんと音が変化していって米という字が当てられるようになった。

「新米」の語源は特定できないが、「新前掛け」説が有力らしい。

どうやら、お米の「新米」と「新米」教師は無関係のようだ。

 

無関係だって、これも縁。

お米の「新米」は、ツヤツヤとしていて瑞々しい。

「新米教師」だって、ツヤツヤしていて瑞々しい。これだけは「古参」がどんなに頑張っても如何ともしがたい。「新米」のウリはここにぞありだ。

あとは、「食味」。つまり、仕事の腕を磨くことだ。これは「古参」に分があるが、前向きな姿勢さえあればツヤツヤと瑞々しさで十分に勝負できる。と、私は思ってきたし、今も思っている。

 

同じく9月28日の朝日新聞に、「朝メシまで。」というテレビのことが書いてあった。私は同番組は未見だが、藤井裕久テレビ朝日プロデューサーの一文を引く。

取材相手が何げなく発する一言にハッとさせられることがあります。
「僕らが作る1千分の1の失敗もお客様にとっては1分の1」
これは、密着させて頂いた老舗かまぼこ屋さんの言葉です。
「誰かがやらなきゃいけないことを自分たちがやっている」
これは、フェリーの船長の言葉。
真夜中に働くという大変な仕事を、プロとして何年も続けている方々の、プライドを感じる瞬間です。

「僕らが作る1千分の1の失敗もお客様にとっては1分の1」

「誰かがやらなきゃいけないことを自分たちがやっている」

生き方の根っこに、しっかりと据えたい至言だ。

 

「新米教師」も、後輩が入ってくればやがて「古参教師」になっていく。

「新米」のツヤツヤと瑞々しさを保ちつつ、「古参」のワザを纏ってほしい。

 

刈り残された田んぼの稲穂がこうべを垂れる「新米の季節」の朝、「古古参」元教師のひとりつぶやきである。