小学校の歴史学習で最初におぼえる西暦は、「645年」です。
645年「大化の改新」
聖徳太子亡きあと、勢力を強めた蘇我氏に危機感をもった中大兄皇子は、中臣鎌足とともに蘇我氏を倒した。そして、元号を大化と改め天皇中心の政治をめざした。これを「大化の改新」という。
と、かつては教えていました。
「大化の改新」というのは645年の出来事だと、教える側も教えられる側も認識していたと思います。
645年「乙巳の変」
最近では、645年は「大化の改新」ではなく「乙巳の変」と呼んでいます。
「乙巳(いっし)」というのは、干支の一つで、第42番目の組み合わせになります。 十干は「乙(きのと)」十二支は「巳(み)」の年に起きた「変」(クーデター)という意味です。
蘇我氏が天皇家と姻戚関係を深めるなかで権勢を振るうという構図が続いています。
欽明天皇と蘇我稲目の娘①の間にできたのが、用明天皇、推古天皇です。
欽明天皇と蘇我稲目の娘②の間にできた皇女が、用明天皇の妻となります。この異母きょうだいの間にできたのが聖徳太子です。
聖徳太子が仕えた推古天皇は叔母であり、ともに力を尽くした蘇我馬子は両祖母のきょうだいです。
聖徳太子は622年に亡くなっています。
推古の後、舒明、皇極天皇と続きます。
皇極天皇(女帝)は、蘇我氏にとってあくまで次の天皇までのつなぎでした。
山背大兄王、古人大兄皇子、中大兄皇子の3人が次の天皇の候補者でした。
蘇我蝦夷・入鹿父子は古人大兄皇子を強く推していました。
古人大兄皇子の母法提郎媛(ほてのいらつめ)は蘇我馬子の娘です。
一方、山背大兄王の母刀自子郎女(とじこのいらつめ)も蘇我馬子の娘なのですが、蘇我氏と聖徳太子の一族はうまくいってなかったようです。
中大兄皇子に至っては父が舒明天皇、母が皇極天皇。蘇我氏とは血縁関係がありません。
643年、蘇我入鹿は巨勢徳太臣(こせのとこだのおみ)・土師娑婆連(はじのさばのむらじ)に山背大兄王の舘を襲撃させます。
残る候補者は2人。
中大兄皇子は、蘇我石川万呂の娘・遠智娘(おちのいらつめ)を妻に迎えます。
蘇我石川万呂も入鹿と同じく馬子の孫にあたります。蘇我一族ではありましたが、宗家とは上手くいっていなかったようです。
中大兄皇子と中臣鎌足が選んだのは、蘇我氏と手を結ぶことではなく、敵の敵を味方に付けるという道です。
中大兄と遠智娘との間には3人の子どもが生まれます。
645年に生まれた次女・鵜野讃良皇女が、後の持統天皇です。
こうした状況下で、乙巳の変が起こります。
中大兄と中臣鎌足が蘇我入鹿を殺害したのは正義のためではなく、権力闘争の一環であっということです。
また乙巳の変は、皇極天皇(中大兄皇子の母)もしくは皇極の弟(中大兄皇子の叔父)・軽皇子(のちの孝徳天皇)が黒幕であったのではないかとも言われています。
『日本書紀』に描かれている、悪の蘇我氏、正義の中大兄皇子、中臣鎌足という単純な図式は、現在では完全に否定されています。
そもそも『日本書紀』は藤原不比等の手によるもので、藤原氏の始祖である鎌足を正当化して描こうという意図が強く出ていることを考慮して読む必要があります。
乙巳の変の後、646年に「改新の詔」を出して「大化の改新」を行ったと『日本書紀』にあります。しかし、「詔」の存在が確認されておらず、中大兄皇子(のちの天智天皇668-672)、中臣鎌足(藤原鎌足)の業績を過大に書かれているとも考えられます。
実際には、孝徳天皇の時代(645年~654年)に行われた中央集権国家をめざす、
公地公民制
国郡制度
班田収授法
租調庸の税制