教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

歴史教育の周辺(その13) 「士農工商」はなかった

士農工商」はなかった

 

20年ほど前までの小学校では、江戸時代には「士農工商」という身分制度があったと教えていました。

「士と農工商」と、支配身分と被支配身分とを区別して教えることもありました。

また、それぞれの身分間には序列があったとも教えていました。

明治の「四民平等」は、江戸時代の「士農工商」という身分制度と対をなすものとして教えていました。

 

いま30代半ばより上の人(当然のことながら教員も含めて)の頭には、歴史学習全体のなかでも相当インパクトのある事項としてインプットされているはずです。

 

現行の教科書には、「士農工商」も「四民平等」も出てきません。

なぜでしょう。

 

東京書籍「教科書・図書教材 よくあるご質問Q&A」に、その答えがありました。


以前の教科書ではよく使われていた「士農工商」や「四民平等」といった記述がなくなったことについて、理由を教えてください。



 かつては、教科書に限らず、一般書籍も含めて、近世特有の身分制社会とその支配・上下関係を表す用語として「士農工商」、「士と農工商」という表現が定説のように使われてきました。しかし、部落史研究を含む近世史研究の発展・深化につれて、このような実態と考えに対し、修正が加えられるようになりました(『解放教育』1995年10月号・寺木伸明「部落史研究から部落史学習へ」明治図書、上杉聰著『部落史がかわる』三一書房など)。
 修正が迫られた点は2点あります。
 1点目は、身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でないということです。史料的にも従来の研究成果からも、近世諸身分を単純に「士農工商」とする表し方・とらえ方はないですし、してきてはいなかったという指摘がされています。基本的には「武士-百姓・町人等、えた・ひにん等」が存在し、ほかにも、天皇・公家・神主・僧侶などが存在したということです。この見解は、先述した「農民」という表し方にも関係してきます。
 2点目は、この表現で示している「士-農-工-商-えた・ひにん」という身分としての上下関係のとらえ方が適切でないということです。武士は支配層として上位になりますが、他の身分については、上下、支配・被支配の関係はないと指摘されています。特に、「農」が国の本であるとして、「工商」より上位にあったと説明されたこともあったようですが、身分上はそのような関係はなく、対等であったということです。また、近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ、先述した身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあったということです。
 これらの見解をもとに弊社の教科書では平成12年度から「士農工商」という記述をしておりません。
 さて、「士農工商」という用語が使われなくなったことに関連して、新たに問題になるのが「四民平等」の「四民」をどう指導するかという点です。
 「四民平等」の「四民」という言葉は、もともと中国の古典に使われているものです。『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とあります。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味です。ここで「士農工商」は、「国を支える職業」といった意味で使われています。そこから転じて「すべての職業」「民衆一般」という意味をもちました。日本でも、古くから基本的にはこの意味で使われており、江戸時代の儒学者も職業人一般、人間一般をさす語として用いています。ただし、江戸時代になると、「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方も出てきます。この用法から、江戸時代の身分制度を「士農工商」という用語でおさえるとらえ方が生じたものと思われます。
 しかし、教科書では江戸時代の身分制度を表す言葉としては、「士農工商」あるいは「士と農工商」という言葉を使わないようにしています。以前は「四民」本来の意味に立ち返り、「天下万民」「すべての人々」ととらえていただくよう説明してきました。しかし、やはりわかりにくい、説明しにくいなどとのご指摘はいただいており、平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにしました。
 「四民平等」の語は、明治政府の一連の身分政策を総称するものですが、公式の名称ではないので、この用語の理解自体が重要な学習内容とは必ずしもいえません。むしろ、以前の教科書にあった「江戸時代の身分制度も改めて四民平等とし」との記述に比べ、現在の教科書の「江戸時代の身分制度は改められ、すべての国民は平等であるとされ」との記述の方が、近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せたとも考えております。  (「四民」の語義については、上杉聰著『部落史がかわる』三一書房p.15-24を参考にしました。)

とまあ、活字にすればそういうことになるのですが、擦り込まれた認識を新たにするには整理が必要です。

 

江戸時代に「士農工商」という身分制度はなかった

 

士農工商」=「民全体」 起源は紀元前の中国

士農工商とは中国の春秋戦国時代諸子百家)における「民」の分類で、例えば『管子』匡君小匡には「士農工商四民者、国之石民也」と記されている。とは周代から春秋期頃にかけてまでは都市国家社会の支配階層である族長・貴族階層を指していたが、やがて領域国家の成長に伴う都市国家秩序の解体とともに、新たな領域国家の統治に与る知識人や官吏などを指すように意味が変質した。この「士」階層に加えて農業・工業・商業の各職業を並べて「民全体」を意味する四字熟語になっていった。四民の順序は必ずしも一定せず、『荀子』では「農士工商」、『春秋穀梁伝』では「士商農工」の順に並べている。

 

士農工商の概念は奈良時代までには日本にも取り入れられ、続日本紀卷第七では「四民の徒、おのおのその業あり」などと記されている。

                             (Wikipedia

 

士農工商」は中国生まれの「民全体」(すべての人)を指す言葉です。日本には奈良時代に伝わっています。奈良時代ですから、日本においても「士」は「武士」ではなく「知識人・官吏」を指したはずです。

江戸期にいたって、「士」=「武士」と解されるようになったようです。

 

江戸時代の身分は

支配身分の「士」と被支配身分の「百姓・町人」

 

「士と農工商」の実際は、「士と百姓・町人」であったのです。

支配身分である「武士」と被支配身分である「民衆」という構図です。(この稿では被差別身分については言及しません)

「民衆」のうち都市住民が「町人」で、他は「百姓」です。

 

「百姓」という語には「農民」のイメージがありますが、これも払拭する必要があります。

事実「百姓」の大半は農民ですが、林業や漁業を生業とする人も、魚売りの行商人も村の鍛冶職人もすべて「百姓」です。「百」は「多くの、種々の」という意味で使われています。

 

 

「四民平等」については、次回とします。