教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

世界遺産学習 法隆寺(その2)厩戸王(聖徳太子)

厩戸王聖徳太子

 

法隆寺と言えば聖徳太子

「キオスクは駅の中、そんなの常識」と同じくらい、常識。

 

ところが、近年はその常識が揺らいでいるのです。

今回は、聖徳太子にスポットを当てます。

 

まずは、聖徳太子系図。(「日本の歴史アップデート」より引用)

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聖徳太子の父は用明天皇で、母は父と異母きょうだいの皇女です。妻は蘇我馬子の娘で、推古天皇は叔母になります。

 

さて、聖徳太子の人物像です。

聖徳太子は、20才で天皇の政治を助けるために摂政になると、当時大きな力を持っていた蘇我氏と力を合わせて、天皇を中心とする国づくりを始めました。太子は仏教をあつくたっとび、17条の憲法を定めて政治を行う役人の心構えを示しました。また、中国(隋)へ小野妹子を送って対等な付き合いを求め、その後も使者や留学生を送って大陸の文化を取り入れました(遣隋使)」

                   (『新編新しい社会6上』東京書籍)

私たちが持っている聖徳太子像はおおむねこの教科書のようなものです。10人の話を同時に聞き分けたなどという超人ぶりも耳にしたことがあります。

上に紹介したのは現行の小学校教科書でしたが、次に紹介するのは現行の高校教科書です。

推古天皇が新たに即位し、国際的緊張のもとで蘇我馬子(そがのうまこ)や推古天皇の甥の厩戸王(うまやどのおう)(聖徳太子)らが協力して国家組織の形成を進めた。603年には冠位十二階、翌604年には憲法十七条が定められた」

                   (『詳説日本史B山川出版社

名前の出し方も業績の評価も明らかに異なります。

いったい何が起こっているのでしょう。

 

1999年、中部大学名誉教授・大山誠一氏が『《聖徳太子》の誕生』(吉川弘文館)を刊行しました。

同書の中で大山氏は、推古天皇の時代に厩戸という名の皇子はいたが、当時、皇太子や摂政という制度はなかったうえ、そもそも彼自身、政治の中心人物ではなかった。それを後の権力者・藤原不比等らが『日本書紀』で聖人のように創作したのだと主張しました。

教科書記述の大きな変化は、大山氏の説の延長線上にあるようです。

 

聖徳太子の再評価は、同時に推古天皇の再評価につながります。

朝日新聞 2022.3.09 耕論「歴史の中の女性たち」

「ガラスの天井 破った推古」
                     歴史学者 義江明子さん

 古代の女帝であり初の女性天皇として知られる推古天皇(在位593~628年)は、長らく「中継ぎ」の天皇とみなされてきました。しかしこの1年ほどの間に歴史学の世界では、その見方を塗り替える作業が進んでいます。


 中継ぎ説は明治期に誕生し、1960年代に学説として確立されました。
 明治政府は「男系男子」が皇位を継承するという制度を創設しましたが、古代には8代6人の女性天皇がおり、直前の江戸時代にも2人いました。 矛盾なく説明しようとして持ち出したのが、「女性天皇もいたが、あくまで男性から男性への継承が難しい際の緊急避難的なつなぎ役だった」とする中継ぎ説です。


 この説への異議が歴史学界で高まり始めたのは30年代で、2000年代に加速します。 私自身も女性天皇の研究を始めた際は愕然としました。 先行研究の史料の見方がおざなりだったからです。二重のジェンダーバイアスがかかっていると思いました。


 一つは、基本史料である日本書紀がはらむジェンダーバイアスです。 日本書紀が編纂された8世紀は、中国から父系 (男系)制度が公的に導入された直後でした。中国に合わせる政治的必要があったからです。そのため書紀は、実際にはそれまでの日本は父系の継承も母系の継承もある「双系」社会だったのに、皇位が一貫して父系で継承されてきたように記しています。


 もう一つは、近代の歴史研究者が抱いてきた「常識」のバイアスです。男性が研究の『 中心を担い、男尊女卑的な考えも根強い社会で、研究者は3史料を読んだ。ゆがんだ史料をゆがんだ目で読んだら、「政治はずっと男性が担ってきた」という説明に疑問を抱くチャンスはありません。


 日本書紀を虚心に読めば、双系的な継承がありえたことや女性が政治力を持っていたことを示す記述があちこちにあります。 推古が統治力を認められていたことや、「実際に統治を担っていたのは推古でなく聖徳太子蘇我馬子だった」とする説が疑わしいことも分かってきました。
 父系的な中国の影響を受けざるをえない当時の王権内部にあって、推古は30年以上にわたって女帝の座を担いました。 没後の約150年間には7代5人の女性が即位しています。 男性天皇女性天皇の数がほぼ同じという「女帝の時代」を切り開いた。推古はガラスの天井を打ち破った存在だったと私は思います。
 王権内での女性の政治参加の流れを見ると、「王」だった時代から、幼帝の後見などとして参加した「母」の時代へと移ります。 近代以降は政治権力を行使できない皇后という「妻」に転じ、女帝即位の可能性も排除されました。前近代との落差は巨大です。
                      (聞き手 編集委員塩倉裕

 

私たちの中にある政治家としての聖徳太子像は、一旦白紙に戻した方が良さそうです。

しかし、聖徳太子は実在しなかったとしても、厩戸王は実在しました。

厩戸王」は、「うまやとのおう」とも「うまやどのおう」とも読みます。「ど」と読むのが普通と思うのは現代の常識で、当時の人がどう呼んでいたかは分かりません。

厩戸王」は「厩戸皇子」とも表記されます。「厩戸皇子」は、「ーーおうじ」とも「ーーみこ」とも読みます。

 

日本史の知識を更新します。

法隆寺は「厩戸王」によって創建されました。