飛鳥人の美意識(エンタシス)
7世紀終わりに再建が始まった法隆寺。
693年ごろに、まず金堂が建造されました。
そのあと、710年ごろに五重塔が再建されたと思われます。
心柱が立ち、基壇ができあがると、いよいよ初層の建造です。
自作60分の1スケール法隆寺の基壇部分に心柱を立てたところです。心柱には直径12㍉の丸棒を使っています。
構造のところで詳しく書きますが、心柱は五重塔の建物とは接触していません。製作作業の邪魔になるので、完成まで抜き取っておきます。
基壇に礎石を置き、その上に柱を立てます。
礎石には2㍉厚の板、柱には直径8㍉の丸棒を使っています。縮尺をもどすと、12㌢と48㌢になります。
柱は全部で16本あります。
内側の4本を「四天柱(してんばしら)」と言います。この4本の間隔は、5層目まで変わりません。
外側の12本を「側柱(がわばしら)」と言います。本来、外から見える部分の柱となります。法隆寺の場合は、ある事情からさらに外側(上の写真で鉛筆線をつけたところ)に囲いがあります。
16本の柱は、円柱です。
伐採された木材は、木の心をさけて角材に製材されました。
建築の現場まで運ばれた角材は、墨付けをして八角形にしました。
八角形の柱にさらに墨付けをして、今度は十六角形にしました。このあたりまではもっぱらチョウナの仕事だったと思われます。
十六角形の角を落としながら、少しずつ円柱にしていきます。ヤリガンナが活躍したでしょう。
柱は「円柱」だと書きましたが、通常の円柱ではありません。柱の真ん中部分に比べて上と下の部分が細くなっているのです。
これは法隆寺回廊のものですが、右端の白壁を見ると、太さの違いが分かります。
なぜ、このようなカタチにしたのでしょう。
『法隆寺』には、こう書かれています。
建物は柱が太いほど安定しますが、太すぎると、ぜんたいとの調和が保てません。また、柱のように大きな部材は目だつので、それじたい彫刻のようによい形にする必要があります。そこで、太い柱の上方を細め、上にのる部材と大きさのつりあいをとり、下方も細めにして、柱じたいの形をよくしたのです。
この柱のカタチは実用目的ではなく、「調和」「よい形」という見た目の問題によるものです。ここに飛鳥人(あすかびと)の美意識を見る思いがします。
このカタチ。
どこかで見たことがあります。
そうです。これは教科書で習ったギリシャ・パルテノン神殿の「エンタシス」です。
パルテノン神殿は、紀元前447年に建設が始まり、紀元前438年に完工しています。
古代ギリシャ建築の柱に施されたエンタシスは、ヘレニズム時代にペルシア・中国を経て東方に伝わりました。
中国や朝鮮の建造物にも見られるエンタシスが、仏教寺院建築とともに日本に伝えられたのでしょう。
柱の1本1本に、大きなロマンを感じます。