前回の記事の流れです。
「心の病で休職の公立校教員が過去最多 背景に長時間労働など」
「毎日新聞」の見出しです。
「心の病」の背景に、「長時間労働」の問題があります。
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それにしても、と考えます。
長時間労働、多忙ということでいえば、民間にはもっと大変なところがいくらでもある。
そんな反論が聞こえてきそうです。
忙しさ比べをするつもりはありません。「民間にはもっと大変なところがいくらでもある」ことも事実だと思います。
では、教員の「心の病」が突出して多いのは何故(なにゆえ)でしょう?
さて、今回は「何故(なにゆえ)」について考察することになります。
どうも統計には表れない「闇」があるようです。
そしてその「闇」が、教員の「心の病」の突出した多さに関係していると私は考えています。
とりわけ小学校では、学級内で起こる諸問題の責任が担任教師個人に直接的に被(かぶ)さってきます。
これは、小学校教育の制度的あるいは構造的なあり方の当然の帰結だと思います。
そして、公務員制度において、いや民間企業を含めても、これほど問題の責任を個人が問われる職場は稀有だと思います。
さらにその責任の重さは、学級担任であればベテラン教員であっても、新採教員であっても、臨時採用の講師であっても、同等です。
「学級内で起こる諸問題」というのは、じつに多様です。
それが「教える」ということに関するものであれば、プロですから甘受しなければならない、乗り越えなければならないことも多いです。
問題は子どもに関することで、それも教師が直接関与していない「諸問題」です。
たとえば子ども同士のトラブル。
加害児童と被害児童の双方から話を聞き、家庭訪問をして保護者の理解を得て一応の解決。さらりと書くは易し、実際の心労は相当なものです。ましてや経験年数の浅い教師にとっては…。
しかし、子どもの関係はそれほど単純なものではなく、トラブルが繰り返されることも少なくありません。そうなれば保護者対応のハードルも当然高くなります。
こうなってくると、問題事案に至らない日常の些事に振り回され、神経をすり減らすようになります。いつしか心が折れ、心が潰れ……。
どれほど職員室の風通しが良くても、集団指導体制が整っていても、微妙な学級経営の機微(「問題事案に至らない日常の些事」というのもここに含まれる)は担任教師の領域です。
ここがしんどい。
私が職に就いた頃は、いろいろ問題はあっても若い教師を育てようという空気が保護者にもあったように感じます。そんな社会の寛容さは、いまや昔話です。
非常に厳しく責任を問われる保護者は、昔もありました。しかし、振り上げた拳の落とし所は、たいていは「子どもをしっかり見てや」というものでした。ときには校長が出張って「私に免じて…」と頭を下げれば収まったといったこともありました。
そう言えば、上のような校長は、「思い切ってやれ。失敗したらオレが責任を取ってやるから」とよく口にしていたものです。1980年代の後半あたりからでしょうか。「問題を起こすな」と訓示する校長が増えてきました。言外に「問題の責任を取るのはお前だ」との含みを込めて。
2000年代になると、小さくまとまってしまった教師の頭上に、落とし所を持たない保護者の声が降り注ぐ事案が増えます。
統計には表れない「闇」というのは大凡そうした類いのもので、担任教師の多くは心理的プレッシャーの中で働き続けているのだと思います。「心の病」として表面化しているのは、そのごく一部に過ぎないでしょう。
とにもかくにも、学級内で起こる諸問題について担任教師個人が直接責任を被る状況が変わらない限り、「心の病」の多さは改善しないというのが私の肌感覚です。
複数担任制や当番担任制など、新たな試みのプランがあるやに聞きます。そうしたものがこの問題に有用かどうか、私にはよく分かりません。
その一方で、これらのプランは今までの小学校学級担任の醍醐味を削ぐことは想像できます。しかし、一定程度のマイナスはあるとしても、何らかの制度的改革を伴わなければ現状を変えることはできません。