教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 4月20日

郵政記念日

 

4月20日は「郵政記念日」です。

日本郵政」のHPより紹介します。

郵政記念日は、逓信省時代の昭和9(1934)年に、一般会計から分離して通信事業(郵便や電話など)の特別会計が創設されたことに伴う記念事業の一環として、郵便事業太陽暦での創業日の4月20日を「逓信記念日」として定めたことが始まりです。

昭和24(1949)年に逓信省が郵政省と電気通信省に分割されたことを受け、翌年(1950年)には「郵政記念日」に改称されました。

 

郵便事業の創業については、「日本郵政」HPの「郵政150年史」をご覧ください。

www.japanpost.jp

「郵政150年史」より「創業」部分のみ引用して紹介します。

[創業]
 1871(明治4)年正月24日(太陽暦3月14日)、郵便創業の布告が太政官から発せられた。この布告では、これまで民間に依頼していた飛脚便は停滞がひどく、といって急便は賃銭が高くついて貧窮の者には四方の安否や物の相場もつかみ難い。そこで、その弊を改め上下一般の急便が自由に通じるように、「来ル三月朔日ヨリ京都迄三十六時大阪迄三十九時限ノ飛脚毎日御差立両地ハ勿論東海道筋駅々四五里四方ノ村々並勢州美濃路等モ右幸便6ヲ以相達シ候様」との趣旨が述べられている。
 創業の布告とともに、民部省は、切手の発行及び売りさばきの件のほか、「各地時間賃銭表」、「書状ヲ出ス人ノ心得」等、新式郵便の実施に関する諸規定を公示した。
 新式郵便の創業は、当初は1870年12月25日に予定していた。しかし、同年11月末に至って準備の状況から年内は困難であると判断し、1871年正月に3府及び各駅の状況を調べた結果、3月1日に決定した。

 郵便物を差し出すための箱(ポスト)は書状集箱又は集信函と呼び、前年の末までに各所に置いた。その形は、江戸時代の目安箱(訴状箱)にかたどり、東京では四日市の郵便役所等12か所、京都では4か所、大阪では7か所に、また、東海道の各駅では上り方・下り方と2個ずつ置いた。設置場所は、その後郵便線路の延長に伴って逐次増やした。
 郵便切手は、当初は賃銭切手、信書賃銭切手、書状切手等と様々な名称で呼ばれた。「郵便切手」という名称を用いるようになるのは1871年11月のことであった。
 そもそも「切手」は、古くから用いられた語で、金銭を受け取った又は預かったという証券のことに用いられてきており、切符、手形等と同じ意味のものであった。そのような用法は、現在でも小切手という語に残っている。前島は、当初は「印紙」と名付けることを考えた。しかし、郵便という名称さえ一般の人々には分かりにくい。その上に印紙というような新規な文字を用いるのは創業のために不利益であると考え、多くの人になじみがある「切手」を採用した。
 切手の種類は、当初の前島の構想では100文(後の1銭)、200文及び500文の3種を考えた。郵便料金を最も近い駅まで5匁(18.75g)までで100文というようにしていたからであった。しかし、5匁を超えた場合は5匁ごとに半額の料金を加えることとしており、加算料金のための切手も必要と考えられた。このような結果、杉浦は、48文の1種を加え、合わせて4種の切手を発行することとした。なお、当時は、九六勘定と言って、1文銭を96個揃えれば100文として通用した。したがって、100文切手は96文で購入することができた。その半額が48文に当たった。
 切手の製造は大蔵省が担当することとなり、1870年11月、民部省が大蔵省に4種計43万枚を注文した。1871年正月に至り、この数量では不足が見込まれたため、更に同数を追加注文した。実際の製造に当たったのはその頃政府発行の紙幣(太政官札及び民部省札)の製造を請け負っていた京都の松田玄々堂であった。玄々堂の松田敦朝は、オランダ人から修得した銅版エッチングの技術を伝え、当時としては最も精巧な印刷能力を有していた。

 切手の図案は、当初の前島の案では料額の周りを梅花の模様で囲んだものであった。前島が切手の実物見本としていたフランスの不足税切手の図案にヒントを得たと言われている。しかし、創業までには既に時日が切迫していた。そこで、図案は、松田が作っていた民部省札と同様の竜の模様を用いることとした。全て手彫りであり、1シート40枚で構成した切手の1枚ごとに図案を彫った。このため、細かい部分は1枚ごとに違うという結果となった。また、裏のりも目打ちも施さなかった。
 このようにして、1871年3月1日(太陽暦4月20日)、我が国は新式郵便を創業した。この日、第1便が東京を午後4時、大阪を午後2時に、それぞれ出発した。
 大阪発の上り第1便は75時間余りで4日午後5時35分に東京に着き、次いで2日の第2便は76時間余りで5日午後7時39分、3日の第3便は79時間余りで6日午後9時16分にそれぞれ東京に着いた。東京・大阪間を78時間(郵便創業の布告の「三十九時」)で結ぶという構想は見事に達成された。

 一方、創業当初の利用は、新式郵便についての知識がまだ十分に普及していないこともあって、前島が予期した1日300通には達しなかった。3月4日、政府は、それまで毎月4と9の日に東京から京都に差し立てていた御用便を廃止し、この後は官用通信も一切新式郵便によることとして差立て数も次第に増加したが、民間の利用は必ずしも盛んではなかった。
 ところで、定飛脚問屋仲間は、上述した嘆願運動の際に、これまでの半額料金で送達すると申し出たが、その料金で飛脚便が成り立つとすると、新式郵便とある程度まで競合する力を持っていることとなるわけで、事実、新式郵便の創業後、3府の定飛脚問屋は、連合して郵便と同額の料金、同程度の継走時間で飛脚便を毎日差し立て、新式郵便と実力による競争を展開した。このような競争を飛脚業者が挑んだのはそれが死活問題だったからではあるが、競争し得たという事実は新式郵便の側に弱点があったことを示しており、特に、宛地別制としていた料金がまだ比較的高い状態にあった点に問題が残っていた。