教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

きょうは何の日 6月2日

横浜港開港記念日

 

1859(安政6)年6月2日、前年(1858年)に締結された日米修好通商条約により、それまでの下田・箱館(現:函館)に加えて、横浜と長崎の港が開港しました。

 

6月2日は旧暦です。新暦では7月1日になります。

 

日米修好通商条約

第3条

・下田・箱館に加え、次の場所を開港・開市する。
  ・神奈川:1859年7月4日(安政6年6月5日)
  ・長崎:1859年7月4日(安政6年6月5日)
  ・新潟:1860年1月1日(安政6年12月9日)
  ・兵庫:1863年1月1日(文久2年11月12日)

・神奈川開港の6か月後に下田は閉鎖する。

 

日米修好通商条約で「神奈川」開港であったものが、実際には「横浜」になりました。

 

Wikipedia」より引用します。

開港場
草案では、候補地として、箱館、大坂、長崎、平戸、京都、江戸、品川、日本海側の2港、九州の炭鉱付近に1港となっていた。これに対し、幕府全権の岩瀬忠震は横浜の開港を主張し、大坂の開港に反対した。大坂が開港すると経済の中心が完全に大坂に移り、江戸の経済的地位が低下するというのが理由であった。ハリスは品川は遠浅で貿易港に適しないことを理解し、横浜開港に同意した。しかし、江戸・大坂の大都市を開港することを強く要求したため、商取引のための滞在のみを許すということで同意された。大坂の外港として兵庫が開かれることとなった。平戸は小さすぎ、また長崎近郊に炭鉱が発見されていたため、九州の開港場は長崎のみとなった。日本海側はとりあえず新潟が選ばれた。ただし、幕府は新潟、兵庫、江戸、大坂は後に開くことを主張し、認められた。

なお、幕府側の開港予定地は横浜であったが、交渉の過程で神奈川・横浜となり、条約には神奈川のみが記載された実際に開港したのは横浜のみであったため、条約を結んだ各国から批判もされたが、幕府は横浜を神奈川の一部と主張した。結局幕府は領事館を神奈川に設置することを認めたが、実務上は横浜の方が有利であり、早いうちに各国領事館は横浜に移動した。また兵庫ではなく神戸が開港している。

 

横浜市のHPに掲載されている「みなとへGO! 横浜港の歴史」には、横浜開港の事情を次のように記述しています。

日米修好通商条約の交渉のときに、アメリカ総領事ハリスがのぞんだ開港地の中には、神奈川や横浜の名はありませんでしたが、幕府がハリスに、神奈川の開港を提案したのは、日米和親条約ゆかりの地であり、さらに「江戸にいちばん近い港で、江戸が外国貿易にむけて開かれるときには必ず重要な場所になるにちがいない」ということで、ハリスはこの提案を受け入れたと考えられます。

ただし、ハリスが考えていた神奈川は、現在の神奈川区東神奈川あたりの神奈川宿であり、一方、幕府は横浜を考えていました。幕府としては、外国人と日本人を遠ざけるために交通の頻繁な、東海道の宿場を開港場にすることは避け、横浜の開港を強く主張し、一方的に横浜に開港場をつくってしまいました。

当時の横浜は、港の施設がほとんどない小さな漁村だったので、開港すると、現在の大さん橋の付け根の付近に2か所の波止場がつくられました。

船は波止場にじかにつけることができないので、沖に停泊し、「はしけ」や「汽艇」とよばれる小さな船が陸との間を往復して、荷物や人を運びました。

 

「神奈川」と「横浜」の位置関係を、「幕末トラベラーズ」掲載の地図で確認します。

横浜