教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

Repost: 教師入門③ ~国語力を磨こう(その2)~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

国語力を磨こう⑤ 要点

 

10 要点の取り出し方

 

要点の取り出し方・表現の仕方の《ワザ》

 

中心文をもとに要点を考える

 

〈ヒント〉

(1)指示語はもとにもどす

(2)話題が入っているか

(3)中心語句はどうか

(4)表現する時の字数に注意する

(5)かざりの役目をしている部分はどうか

 

 

ここからは、下村さんの著書を離れて解説を加えます。

 

ここで、説明的な文章の3つの型について触れておきましょう。

 

①尾括型文章…結論を終わりに持ってくる書き方

 

②頭括型文章…結論を初めにおく書き方

 

③両括型文章…結論を初めに書き、説明を加えて、最後にまとめる書き方

 

 

小学校の教科書教材は、ほぼ①の尾括型文章です。それは文章全体についてもそうですし、1つ1つの段落においてもしかりです。

したがって尾括型文章において、各段落の中心文は段落の最後の1文になります。この1文をもとに要点をまとめます。要点は3年生で指導しますが、学年が上がると、中心文はまれに頭括型のこともあるし、両活型のこともあります。しかし、基本は尾括型ですので、まずおしまいの文に着目すると覚えておきましょう。

整理すると、

「要点」は、形式段落を短くまとめたものです。段落の中心文を見つけます。尾括型文章では、最後の文が中心文になります。

 

要点をまとめる演習です。

 

「ありの行列」(光村図書、3年)という教材に、

「 このように、においをたどって、えさの所に行ったり、帰ったりするので、ありの行列ができるというわけです。」

という文があります。この文の要点をまとめます。

 

■まず、述語を見つけます。

述語は「できるというわけです」。

要点をまとめる時は文末表現を常態に統一するように指導します。したがって、「できるというわけだ」となり、さらに短くして「できる」とします。

 

■述語に対応する主語を見つけます。

「できる」のは何かを探します。「ありの行列が」が主語です。

 

■述語を修飾している語句を見つけます。

「においをたどって、えさの所へ行ったり、巣に帰ったりするので」

文のまとめ方のポイントは、
    ○文末表現を常態にする。
    ○できるだけ短くする。修飾語や副詞などで可能な部分を省く。
    ○指示語はそれが指しているもとの語に置き換える。

の3点ですが、今回は省く部分も指示語の置き換えもありません。

 

■要点をまとめる

(このように)は、文章構成を考える上で必要です。

「(このように)においをたどって、えさの所へ行ったり、巣に帰ったりするので、ありの行列ができる。」となります。

しかし、これではまとめ文としてすっきりしません。かといって、「ありの行列が」から始めると、あとの文が続きません。

「述語」「修飾語」から、その「主体」が「あり」であることが分かります。3年生にはちょっと高度ですが。

そこから、

「ありは、においをたどって行ったり帰ったりするので、行列ができる。」

という要点にたどり着くのです。

 

 

国語力を磨こう⑥ 要約/要旨

 

11 要旨の取り出し方

 

要旨の取り出し方・表現の仕方の《ワザ》

 

中心段落の要点をもとに要旨を考える

 

〈ヒント〉

(1)話題が入っているか

(2)中心語句はどうか

(3)指定された字数に注意する

(4)かざりの役目をしている部分はどうか

 

 

下村さんの著書の紹介はここまでです。詳しく読みたい、掲載されている練習問題を解いてみたいという方は、古書を探してください。

 

さて、学校の先生たちがよく使っている参考書に、教科書会社が出している教師用指導書があります。

驚くべきことに、何年か前までのある指導書は、「要約」と「要旨」の区別がなく誤用もありました。「要旨」をまとめる授業を見た指導助言者が、「もう少し詳しく…」と、それでは要約じゃないかというような「誤」指導をされる場面も目にしました。

両者は、明確に違います。

 

「要約」…文章全体を短くまとめたもの。基本的には、各形式段落の要点をつないでいくと「要約」になります。


「要旨」…その文章で筆者がもっとも言いたいこと。一般的に「まとめ」の段落の「要点」が「要旨」です。

 

 

要約について詳しく見ていきましょう。

要約の基本は形式段落の要点をつないだもので、「あらすじ」と言うこともあります。

 

たとえば、「ありの行列」の要点は次のようになります。

 

①なぜ、ありの行列ができるのだろうか。                            
②ウィルソンという学者が実験とかんさつをした。               
③ありの行列は、はじめのありが巣に帰るときに通った道すじから外れていない。             
④ありの行列は行く手をさえぎってもまたできるし、帰るときの道すじも変わらない。                                      
⑤ウィルソンは、はたらきありが地面に何か道しるべになるものをつけておいたのではないか、と考えた。                             
⑥ウィルソンは、はたらきありの体のしくみを研究した。                                 
⑦ウィルソンは、ありの行列ができるわけを知った。                                                       
⑧はたらきありは、えさを見つけると、道しるべとして地面にえきをつけながら帰り、ほかのありたちは、においにそって歩く。 
⑨ありは、においをたどって行ったり帰ったりするので、行列ができる。

 

形式段落①~⑨の要点をつないで、「このように」などの接続詞を入れると要約文(あらすじ)になります。ちなみに、「⑨ありは、においをたどって行ったり帰ったりするので、行列ができる。」が、この文章の要旨になります。

 

要約の「基本」の先には、「応用」があります。それには「三段構成」についての理解が欠かせません。次回のテーマです。

 

 

国語力を磨こう⑦ 三段構成

 

小学校の教科書に出てくる説明文(論理的な文章)は、ほぼ次のような文章構成になっています。

 

f:id:yosh-k:20200203121829j:plain

「序論(はじめ)」「本論(なか)」「結論(おわり)」という文章構成を、「三段構成」といいます。

 

そして、小学校の説明的文章は、そのほとんどが尾括型の文章です。

 

つまり、

「序論(はじめ)」には、「問題提示(問い)」が、

「本論(なか)」には、説明や具体的な事例が、

「結論(おわり)」には、「結論(まとめ)」が書かれています。

 

したがって、小学校における説明文(論理的な文章)教材では、尾括型の三段構成の文章の読みを繰り返し繰り返し指導することになります。

 

「三段構成」ーー3つの大きなまとまりという文章構成図を常に意識します。

教科書によっては、「4つのまとまりに分けましょう」などという指示が出てきます。よく見ると、実験・観察の事例が2つあります。

この場合、「4つのまとまり」ではなくて、「3つのまとまり」の「本論(なか)」部分が2つに分かれているのです。

 

 

国語力を磨こう⑧ 要約(その2)

 

要約は、各形式段落の要点をつないだものです。

 

「ありの行列」では、次のようになりました。

 

①なぜ、ありの行列ができるのだろうか。                            
②ウィルソンという学者が実験とかんさつをした。               
③ありの行列は、はじめのありが巣に帰るときに通った道すじから外れていない。             
④ありの行列は行く手をさえぎってもまたできるし、帰るときの道すじも変わらない。                                      
⑤ウィルソンは、はたらきありが地面に何か道しるべになるものをつけておいたのではないか、と考えた。                             
⑥ウィルソンは、はたらきありの体のしくみを研究した。                                 
⑦ウィルソンは、ありの行列ができるわけを知った。                                                       
⑧はたらきありは、えさを見つけると、道しるべとして地面にえきをつけながら帰り、ほかのありたちは、においにそって歩く。 
⑨ありは、においをたどって行ったり帰ったりするので、行列ができる。

 

今回は、これに「三段構成」を重ねてみます。

f:id:yosh-k:20200203121829j:plain

   ⑨       ⑧⑦⑥⑤④③②     ①

 

「序論」には①段落が入り、ここには「問い」があります。

「本論」には②~⑧段落が入り、具体的な実験・観察について述べています。そのまとめが⑧段落になります。

「結論」には⑨段落が入り、「問い」に対する「答え」が書かれています。

 

さて、この文章の要約を短くまとめるとどうなるでしょう。テスト問題なら「○○字以内にまとめよ」、授業場面なら「○○秒以内で話せ」といった課題になります。

 

三段構成の各まとまりから代表を選びます。「序論」と「結論」は候補が1つですから、自ずと決定。「本論」は7つの候補がありますが、本論のまとめである⑧段落を選出。

できあがった要約文は、

「①なぜ、ありの行列ができるのだろうか。⑧はたらきありは、えさを見つけると、道しるべとして地面にえきをつけながら帰り、ほかのありたちは、においにそって歩く。 
(このように)⑨ありは、においをたどって行ったり帰ったりするので、行列ができる。」

となります。

 

さらに短くするには、「本論」を省いて「問い」と「答え」だけにします。

「①なぜ、ありの行列ができるのだろうか⑨ありは、においをたどって行ったり帰ったりするので、行列ができる。」

 

さらに短くすると、究極の要約文は「結論」の⑨段落のみになります。これすなわち「要旨」なり。

 

こうした字数制限付き、秒数制限付きの要約文を自在に操れるようになること、それが「国語力を磨こう」シリーズの到達点です。

 

 

国語力を磨こう⑨ なぜ国語力なのか

 

教壇に立つ前に、なぜ国語力を磨こうなのか。最後にもう一度、そのことについて詳しく書きます。

 

話は21世紀初頭に遡ります。

経済協力開発機構( OECD)による国際的な生徒の学習到達度調査(Programme for International Student Assessmentの頭文字を取ってPISAと言います)が、2000年から3年おきに実施されています。

この調査は、義務教育修了段階(15歳)において、これまでに身に付けてきた知識や技能を、実生活の様々な場面で直面する課題にどの程度活用できるかを 読解力、 数学的リテラシー、科学的リテラシーの3分野から測るものです。

初回2000年の日本の成績は、読解力8位、 数学的リテラシー1位、科学的リテラシー2位でした。そして迎えた2003年の第2回テストで、日本の成績は読解力14位、 数学的リテラシー6位、科学的リテラシー2位に沈みました。

これが、2003年の「PISAショック」といわれるものです。

 

当時の日本は、2002年度に新しい学習指導要領が実施され、「生きる力」を育む「総合的な学習の時間」がスタートしたばかりでした。これは、知識偏重の詰め込み教育を是正するものでもありました。

 

そこへ突然の「PISAショック」です。

 

潮目は一気に変わりました。

 

変化はいわゆる「テスト学力」へ重心を戻すものでしたが、単なる過去への回帰ではありませんでした。端的に言えば、国際水準となりつつあるPISAが求めている学力(PISA学力)を高める、そのためには基礎学力も高めるという路線です。

 

PISA学力における読解力とは、論理的な文章を読み解く力です。あるいは図表やグラフなどの非活字資料から必要な情報を取捨選択し、論理的に活用する力です。

数学的・科学的リテラシーの「リテラシー」は、「適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味あいの言葉です。ここでも論理的な力が求められていることが分かります。

つまり、PISA学力というのは論理力なのです。

 

そうした経緯から、いま求められている学力とは論理力です。

そして、論理的思考力・論理的表現力の基礎となる力は、国語科の説明的文章の授業に負うところが大きいのです。私の経験で言えば、国語科で身に付けた論理的な力は、算数の文章題や他教科の学習に大いに役立つものです。さらに、アクティブラーニングが本格的に導入されれば、論理力はいっそう重要になります。

 

いまどきの学力が求めている読解力・表現力は、尾括型の論理的文章を読み取り、頭括型または両括型で表現する力です。

 

小学校の説明文教材(論理的文章)は、基本的に結論が最後にある尾括型の文章です。文章構成としては「はじめ(序論)-なか(本論)-おわり(結論)」の三段構成で、内容的には「問い(話題提示)-説明-答え(主張)」となっています。

つまり、小学校における説明文教材の指導とは、三段構成を正しく読み取る力をつけることなのです。


こうした身につけた三段構成を正しく読み取る力は、表現力に生かされます。

 

意見を述べたり、討論に参加する際には、頭括型が基本になります。

まず結論を言う、そのあとに理由を述べるというものです。


長めに意見を述べたり意見文を書いたりするときは、両括型を使います。

つまり、まず結論、そのあとに理由、最後にもう一度結論というパターンです。

 

いずれにしても、三段構成の読み取りで培った力が生きてくるのです。

国語力が、多教科の学力の基盤となり下支えすると言ってもいいでしょう。

そのためには、まず教師がその力量を備えなければなりません。

 

国語力を磨くことは、教師力を磨くことでもあるのです。

 

 

 

Repost: 教師入門② ~国語力を磨こう~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

 

国語力を磨こう①

 

「教壇に立つ前に」の続編になります。

 

授業の現場に立つ前に、国語力を磨くための学び直しを是非やっておきましょう。

 

その前に、なぜ国語力なのかということについて触れておきたいと思います。

 

教育委員会が実施する初任者研修や経年研修には、教員の国語力あるいは日本語指導力を高めるプログラムがありません。ICTや英語などでは、悉皆研修(全員義務参加の研修)を行う教委もあるのに…。

なぜ日本語指導の基礎を学ぶ悉皆研修はないのでしょうか。答えは明白です。教育委員会にも教員自身にも、日本語は母語として毎日使っているから指導できるという前提があるからです。ところが、私の知る限りにおいて、この前提はかなり怪しいと言わざるを得ません。

 

小学校で受けた説明文教材の授業が楽しかった、好きだったという人はどれほどいるでしょう。科学読み物が好きだった人でも、授業はつまらなかったという人が案外多いです。なぜか。教師が何をどう指導すればいいのか分からなかった、つまり授業が拙かったからです。

2003年のPISAショック(詳細は別の機会に書きます)以降、求められている学力とは論理力(これについても別の機会に書きます)です。論理的思考力・論理的表現力の基礎となる力は、国語科の説明的文章の授業に負うところが大きいです。私の経験で言えば、国語科で身に付けた論理的な力は、算数の文章題やその他の教科の学習に大いに役立つものです。さらに、アクティブラーニングが本格的に導入されれば、論理力はいっそう重要になります。

 

つまり、国語力を磨くことは、教師力を磨くことでもあるのです。

 

しかるに、教師の国語力は…。

兎にも角にも、まずはトライしてみてください。

テキストには下村昇さんの『下村式・国語教室3 わかってる先生の読みとり講義』(論創社〈1999/06〉2000円+税)という本がお薦めなのですが、2020年1月時点では絶版もしくは重版未定で古書しか入手できません。(2021年1月時点においても同様)

本シリーズでは、私が2009年に教材化したものをベースに、下村さんの著書のアウトラインを紹介していきたいと思います。

 

次回より、いざ!

 

 

国語力を磨こう② 文/主語・述語

 

初回は、「文」と「主語・述語」です。小学校低学年で指導する内容です。

 

1 文章を文ごとにわける

 

文章を文ごとにわける《ワザ》


(1)どこまでが「。」(マル)かをさがす。


(2)マルが見つかったら、文頭に①②③…と番号をつける。

 

【練習】身近にある文章を用意してください。いくつの文に分けられるでしょう。文のはじめに番号①②…をつけましょう。

 

※ 文に分けるポイントは、「。」です。そんなこと分かってるってことは分かってますが、このポイントが指導する立場になった時には押さえるべきポイントになるのです。以後、太字部分は自身の理解の振り返りポイントであると同時に、指導する際のキーポイントとしてマスターしていってください。

 


2 会話文の四つの型

 

(1)サンドイッチ型…文の真ん中に「 」のあるもの
          ・弟が、「さあ、食べよう。」と言いました。

(2)前づけ型…文の始めに「 」のあるもの
          ・「はい」と、私は答えました。

(3)後づけ型…文の終わりに「 」のあるもの
          ・お母さんがよびました。「まさこ、おいで。」

(4)ひとりだち型…会話だけで一文になっているもの

   ・サンボを食べようとしました。
    「ぼくを食べないでください。…。」
    とらは、サンボの赤いうわぎをとりあげました。

 

 

3 主語・述語を見分ける

 

  主語・述語を見分けるヒント

 

(1)主語は、「…は~。」「…が~。」のように、「は」や「が」のつくことばを見          つけ出す。

 

(2)述語は主語に対して、それが〈どうだ〉〈なんだ〉〈どんなだ〉を表していることばをさがす。マルがついた文の終わりのことばをさがす。

 

(3)主語が分からないときは、述語を先にさがす。そして、〈そうなったのは なにか〉と考える。

 

【練習】身近にある文章を用いて、主語に傍線を引き、述語を四角で囲みましょう。

 

(3)の例として、次のようなものがあります。

  ・春休みの一日、家族そろって動物園に行った。

この文には主語がありません。学習理解に課題をもつ子には、(1)・(2)のやり方と(3)のやり方が別種の課題として映ることもあります。はじめから(3)のやり方で指導すれば、そうした子の混乱を避けられますし、2倍の負担を強いることもありません。

まず、述語を見つける。そして、それに対応する主語を見つける。ーーこのやり方は、先の例文の主語を問うような問題に有用です。「行った」のは誰かと少し前の文をたどって「私は」という言葉があれば、それが主語になります。また、こうした文の要点をまとめる時も、主語を補って「私は、…行った」となります。

 

 

国語力を磨こう③ 修飾語

 

4 修飾語(かざりことば)をさがす

 

修飾語(かざりことば)をさがす《ワザ》

 

(1)主語と述語を見つけて線を引く。

 

(2)残りがかざりことばなので、カッコで囲む。

 

〈ヒント〉
主語の「かざりことば」は、必ず主語の上の方に、述語の「かざりことば」は、必ず述語の上の方にある。ただし、すぐ上とは限らない。

 

【練習】身近にある文章を用意してください。文の主語にはを傍線引き、述語には二重線を引きます。そして、修飾語をカッコで囲って、その修飾語がどのことばをくわしくしているのか、→で印をつけます。

 

修飾語は、小学校3年生の指導内容です。

修飾語自体は決して難しいものではないでしょう。「主語の『かざりことば』は、必ず主語の上の方に、述語の『かざりことば』は、必ず述語の上の方にある。」ということをきっちり押さえておくことが重要です。修飾・被修飾の関係を矢印で明示する作業は、その定着に役立ちます。

私の家に中学3年になる知人の子どもが勉強に来ています。受験に向けて問題を解いていると、品詞分けと係り受けの問いが出てきます。彼には係り受けの原則が定着しておらず、矢印付けに四苦八苦しています。小学校の課題です。

 

 

国語力を磨こう④

  話題/中心語句/中心文/中心段落

 

今回は、ワザの紹介のみです。話題、中心語句、中心文、中心段落で扱っているワザは、そのあとに続く要点、要約、要旨の指導で具体的に生きてきます。詳しくはそれらの際に触れます。

2009年に私が担任した5年生のクラスは、前年に学級崩壊を経験し、極端な学力不振に陥っていました。国語の学び直しのために、いま紹介している教材を作りました。そして、教室の後ろの壁面には、各ワザをA3サイズにラミネートして掲示していました。課題に出会うたびに、「はい、後ろを見て」とやっていたわけです。

今は読み流していただいて結構ですが、いつか役立つ日が来るかもしれません。

 

5 話題のとらえ方

 

話題のとらえ方の《ワザ》

 

文のつながりぐあいから「話題」をとらえる。

 

〈ヒント〉

(1)はじめの文の主語はどうか

(2)終わりの文の主語はどうか

(3)何回も出てくることばはないか

 

 


6 中心語句の取り出し方

 

中心語句(キーワード)の取り出し方

 

《ワザ》1


話題をとらえる。それが中心語句。

 

《ワザ》2


話題を頭において文章全体を読み、その〈話題を支えていることば〉をとらえる。

 

〈ヒント〉

(1)何回も出てくることばに気を付ける

(2)一回しか出てこない場合もある

 

 

7 中心文の取り出し方 1

 

中心文の取り出し方

《ワザ》1

 

 まとめのところ、結果や結論のところを取り出す
 その取り出したものが中心文である

 

〈ヒント〉…《ワザ》1・2共通

(1)接続語や指示語に気を付ける

(2)はじめの文はどうか

(3)終わりの文はどうか

 

 


8 中心文の取り出し方 2

 

中心文の取り出し方
《ワザ》2

 

(1)次のところは取り除く
            ・わけのところ
            ・たとえのところ
            ・くわしくしているところ
            ・付け足しのところ
            ・くり返しのところ

(2)残った文をもとに中心文を考える

 

 


9 中心段落の取り出し方

 

中心段落の取り出し方の《ワザ》

 

(1)段落(形式段落)ごとに番号を付ける

(2)段落を短くまとめる(要点)

(3)段落(要点)相互の力関係を考える

(4)力の集まっている段落が中心段落

 

 

〈ヒント〉

(1)接続語はどうか

(2)はじめの段落はどうか

(3)終わりの段落はどうか

 

 

国語力を磨こう⑤ 要点

 

10 要点の取り出し方

 

要点の取り出し方・表現の仕方の《ワザ》

 

中心文をもとに要点を考える

 

〈ヒント〉

(1)指示語はもとにもどす

(2)話題が入っているか

(3)中心語句はどうか

(4)表現する時の字数に注意する

(5)かざりの役目をしている部分はどうか

 

 

ここからは、下村さんの著書を離れて解説を加えます。

 

ここで、説明的な文章の3つの型について触れておきましょう。

 

①尾括型文章…結論を終わりに持ってくる書き方

 

②頭括型文章…結論を初めにおく書き方

 

③両括型文章…結論を初めに書き、説明を加えて、最後にまとめる書き方

 

 

小学校の教科書教材は、ほぼ①の尾括型文章です。それは文章全体についてもそうですし、1つ1つの段落においてもしかりです。

したがって尾括型文章において、各段落の中心文は段落の最後の1文になります。この1文をもとに要点をまとめます。要点は3年生で指導しますが、学年が上がると、中心文はまれに頭括型のこともあるし、両活型のこともあります。しかし、基本は尾括型ですので、まずおしまいの文に着目すると覚えておきましょう。

整理すると、

「要点」は、形式段落を短くまとめたものです。段落の中心文を見つけます。尾括型文章では、最後の文が中心文になります。

 

要点をまとめる演習です。

 

「ありの行列」(光村図書、3年)という教材に、

「 このように、においをたどって、えさの所に行ったり、帰ったりするので、ありの行列ができるというわけです。」

という文があります。この文の要点をまとめます。

 

■まず、述語を見つけます。

述語は「できるというわけです」。

要点をまとめる時は文末表現を常態に統一するように指導します。したがって、「できるというわけだ」となり、さらに短くして「できる」とします。

 

■述語に対応する主語を見つけます。

「できる」のは何かを探します。「ありの行列が」が主語です。

 

■述語を修飾している語句を見つけます。

「においをたどって、えさの所へ行ったり、巣に帰ったりするので」

文のまとめ方のポイントは、
    ○文末表現を常態にする。
    ○できるだけ短くする。修飾語や副詞などで可能な部分を省く。
    ○指示語はそれが指しているもとの語に置き換える。

の3点ですが、今回は省く部分も指示語の置き換えもありません。

 

■要点をまとめる

(このように)は、文章構成を考える上で必要です。

「(このように)においをたどって、えさの所へ行ったり、巣に帰ったりするので、ありの行列ができる。」となります。

しかし、これではまとめ文としてすっきりしません。かといって、「ありの行列が」から始めると、あとの文が続きません。

「述語」「修飾語」から、その「主体」が「あり」であることが分かります。3年生にはちょっと高度ですが。

そこから、

「ありは、においをたどって行ったり帰ったりするので、行列ができる。」

という要点にたどり着くのです。

 

 

                 以下、「国語力を磨こう(その2)」に続く

Repost: 教師入門① ~教壇に立つ前に~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

アンドロイド漱石先生 VS 人間教師

 

二松学舎大のアンドロイド夏目漱石が公開されたとき、ふと考えました。

めざましい進化を続けるAI(人工知能)が、近い将来教壇に立ち、教師に取って代わって授業をするようになるのだろうかと。


教師の職にある人もそうでない人も、「そんなことはあり得ない」と答えるでしょう。私も、そう思います。人間教師にしかできない教育の「機微」というものがあるのだよ、漱石くん。


にもかかわらず、一方で私は、AI教師の登場を心待ちにしているのです。なぜでしょう。


答えははっきりしています。

AI教師によって救われる子どもが数多いると思えるからです。

理由は大きく2つあります。


1つ。

AI教師は、ポイントをきちんと押さえた授業をすることが期待できるからです。

教育内容はすべてプログラミングされているわけだから、ハズレの授業はなくなるはずです。子どもたちとの対話により授業の難易度を調節するくらいは、進化を続けるAIにはさほど難しいことではないでしょう。

 

2つ。

AI教師は、子どもを公平に扱い、冷静に指導することが期待できるからです。

少しクールすぎるかもしれなませんが、「一人ひとりの子に寄り添って」などと過度な期待をしなければ十分OKでしょう。

 

 

近年、教師力と総体としての学校力の低下振りは、目を覆いたくなるほどにヒドイです。少なくとも私にはそう映っています。

ピントのずれたハズレ授業が溢れています。

依怙贔屓と脅しで子どもたちを支配する教師、自分の感情を抑えられずその日の気分で怒鳴り散らす教師がいっぱいいます。

教室には、教師の顔色を窺いながら、苦役の45分に耐えている子どもが少なからずいます。


そして、一概には言えませんが、ベテラン教師の中に上のような傾向が強いように感じます。そんな職場で、若い教師は、どこを見て何を学べばいいのでしょう。

 

 

21世紀末になっても、教育は人間教師によって行われるべきです。

そのためには、子どもにとって教師は尊敬と敬愛の対象でなくてはなりません。


退職前の2年間、私は若い人たちに向けて「教育の森」というメルマガを発信していました。若い人たちへのメッセージのつもりだったのですが、実際には中堅からベテランの域に達した人たちに反響がありました。


教師の職を離れ、もはや完全に外(そと)の人になりました。今さら口出しなどすれば、「年よりの冷や水」と疎ましがられるのがオチだと知っています。それでも敢えて筆を執ろうと思ったのは、「ポイントをきちんと押さえた授業をする」教師、「子どもを公平に扱い、冷静に指導する」教師が増えることで、子どもにとって教室が楽しい学びの場になることを願ってやまないからです。

 

本ブログ「教育逍遙」は、メルマガ「教育の森」時代の内容も含めて小学校教育の小径をまさに「そぞろ歩き」します。「年よりの冷や水」が、「ポイントをきちんと押さえた授業をする」力や「子どもを公平に扱い、冷静に指導する」力を鍛えるヒントになれば幸いです。

 

 

 

教壇に立つ前に①

  漢字をマスターしよう

 

「教壇に立つ前に」…。そうです、これは新しく小学校教員になって4月から教壇に立とうとしている「教師の卵」のみなさんへのメッセージです。

 

 

しばらく前になりますが、『人は見た目が9割』(竹内一郎新潮新書)という本が出て、結構話題になりました。


「人は見た目じゃない、中身だよ」と反論してみるものの、よくよく我が身を振り返ってみると、第一印象が人物評価に与える影響の大きさを再認識させられてしまいます。

 

 

4月になると子どもたちとの出会いが待っています。そして、その月のうちに参観日があって、保護者との出会いがあります。


子どもとは日々付き合うことになりますから、「中身」の理解も徐々に深まるでしょう。しかし、保護者と出会う場面はそれほど多くはなく、人となりを理解されるほどの付き合いは期待できません。
その一方で、保護者の言葉や態度が年齢の小さな子どもに与える影響は絶大です。


つまり、保護者との出会いである最初の参観日での「見た目」が良くなければ、良好な関係作りには相当なエネルギーを要することになります。

 

 

「見た目」と言うと、髪型や服装のことかと思われるかもしれません。が、私がここで取り上げようとしているのは、板書の漢字です。厳密には漢字の筆順です。


中学校の先生の板書は(と一括りにするのはよくないですが)、概して字形が乱れていて筆順も間違いだらけです。それでも中学生がそれを問題にすることはほとんどありません。


小学校は違います。とりわけ低学年の板書は平仮名を含めて字形が整っていることが大切ですし、筆順も漢字指導の一部ですから子どもも意識しています。当然、保護者も同じ目線で担任教師の板書を見つめています。そこでの筆順間違いは、大きなマイナスポイントになります。

 

 

なんだそんなこと、と軽く見てはいけません。私は家庭訪問の際、「前の担任は漢字も正しく書けない先生で…」という保護者の声を聞いたことがあります。漢字を正しく書けないのは事実でしょう。でも、私は同僚としてのつきあいの中で、その先生の優れた点をいくつも知っています。しかし、保護者は筆順レベルの「見た目」で担任を評価し、それを1年間持ち続けていたわけです。

 

小学校で学習する1026字の漢字を書いてみてください。筆順のチェックには筆順辞典などというスマホアプリもあります。自分は正しく書けると思っていても、覚え間違いや長年染みついたクセのようなものがいくつかあるものです。

漢字の筆順は後々の指導にも役立つものですから、教壇に立つ前に是非とも正しくマスターしておきたいですね。

 

 

教壇に立つ前に②

  漢字をマスターしよう(その2)

 

漢字マスターとあわせてお薦めしたいのが、白川静さんの本。

 

白川静さんは漢字研究の第一人者で、2006年に亡くなられています。
白川さんには『字訓』『字統』など有名な著書があるのですが、お薦めは

白川静さんに学ぶ 漢字は楽しい 』(小山鉄郎著、新潮文庫、2009年)。

入門書としては最適ですし、なにしろ安い(473円)。

 

目から鱗が落ちるという言葉がありますが、同書との出会いはまさにその言葉通りのものでした。漢字の世界観が変わります。

 

 

学校の漢字指導にそのまま使えるというわけではありません。

それでも、たとえば「左」は「一」から書き始め、「右」は「ノ」から書き始めるワケを知っていたら、漢字指導が楽しくなると思いません?

実際、高学年の子どもにも結構好評でした。

 

 

蘊蓄(うんちく)を一つ。

f:id:yosh-k:20200124133849j:plain

上の図は、「左」と「右」の篆書体の文字です。

白川さんによると…

「左」は「一」が手で「ノ」が腕、「右」は「ノ」が手で「一」が腕を表しています。

まず手を書いて、腕を手首から肩に向かって伸ばしていきます。

よって、「左」は「一」から、「右」は「ノ」から書き始めるのです。

 

ちなみに、「左」の「エ」は呪具を表し、「右」の「口」(これは「クチ」ではなくて「サイ」)は祝詞を入れる器を表しています。

 

 

こうした知識は持っていても荷物にはなりません。ぜひご一読を。

 

 

 

教壇に立つ前に③

  声をつくろう

 

ある学校で、先生たちの自己紹介を受ける機会がありました。

20人ほどおられたのですが、名前を聞き取ることができたのは10人ほどでした。あとの数人は学年所属は聞こえたものの、名前は分かりませんでした。さらに何人かはほとんど何も聞き取れませんでした。

この学校の教師の少なくとも半分は、授業を見るまでもなくアウトだと分かります。

自己紹介の場で肝心の名前を相手に伝えられない教師が、教室で授業の肝心要を子どもたちに伝えられるとは思えません。これは授業内容や指導テクニック云々以前の問題です。逆に言うと、授業内容や指導テクニックがどれほどすぐれていても、子どもに声が届かなければ伝わらないということです。

 

教師にとって「声」は、必要条件としての重要なツールであり財産です。
それは、子どもたちがタブレットを操る時代の授業においても、不変です。


では、その「声」はどんなであればいいのでしょう。

 

端的に言えば、明瞭で張りのある声です。

 

“明瞭”さは、口形を意識して発声練習することで鍛えることができます。

“張りのある声”は、体育館などで話した時によく響くやや細くやや硬い声です。声の太さや硬さは個性の部分が大きいかもしれませんが、意識化することで鍛えることができます。

 

学校の現場は日々忙しく過ぎていきます。その現場に立つ前に、自分の「声」をつくりましょう。
それは、仕事場に向かう前の大工さんが鉋の刃を研ぐようなものです。

 

正しい口形は、インターネット上に公開されている画像を参考に、鏡に向かって真似るのがいいです。はっきり発声することをお忘れなく。

 

口のかたちができたら、発声練習です。1音1音区切るように発声します。

 

あえいうえおあお
かけきくけこかこ
させしすせそさそ
たてちつてとたと
なねにぬねのなの
はへひふへほはほ
まめみむめもまも
やえいゆえよやよ
られりるれろらろ
わえいうえをわを
がげぎぐげごがご
ざぜじずぜぞざぞ
だでぢづでどだど
ばべびぶべぼばぼ
ぱぺぴぷぺぽぱぽ

 

ボイストレーニングには、北原白秋の詩「五十音」もお薦めです。

 

あめんぼ あかいな アイウエオ  水馬 赤いな あいうえお

うきもに こえびも およいでる  浮藻に 小蝦も 泳いでる

かきのき くりのき カキクケコ  柿の木 栗の木 かきくけこ

きつつき こつこつ かれけやき  啄木鳥 こつこつ 枯れ欅

ささげに すをかけ サシスセソ  大角豆に 酢をかけ さしすせそ

そのうお あさせで さしました  その魚 浅瀬で 刺しました

たちましょ らっぱで タチツテト 立ちましょ 喇叭で たちつてと

トテトテ タッタと とびたった  トテトテ タッタと 飛び立った

なめくじ のろのろ ナニヌネノ  蛞蝓 のろのろ なにぬねの

なんどに ぬめって なにねばる  納戸に ぬめって なにねばる

はとぽっぽ ほろほろ ハヒフヘホ 鳩ポッポ ほろほろ はひふへほ

ひなたの おへやにゃ ふえをふく 日向の お部屋にゃ 笛を吹く

まいまい ねじまき マミムメモ  蝸牛 ネジ巻 まみむめも

うめのみ おちても みもしまい  梅の実 落ちても 見もしまい

やきぐり ゆでぐり ヤイユエヨ  焼栗 ゆで栗 やいゆえよ

やまだに ひのつく よいのいえ  山田に 灯のつく よいの家

らいちょうは さむかろ ラリルレロ雷鳥は 寒かろ らりるれろ

れんげが さいたら るりのとり  蓮花が 咲いたら 瑠璃の鳥

わいわい わっしょい ワヰウヱヲ わいわい わっしょい わゐうゑを

うえきや いどがえ おまつりだ    植木屋 井戸換へ お祭りだ

 

「五十音」は、教室でも便利に使えます。

たとえば、

めんぼ かいな イウエ きもに… 

赤字のところで拍子打ちをします。同じテンポで打ち続けることで、リズムが良くなります。子どもの声が揃うという効果もあります。

慣れてくると、少しずつ拍子打ちのテンポを速くして「○○秒バージョン」なるものを増やしていきます。その場合も1音1音を意識することをお忘れなく。

しばらく続けると、確実に滑舌が良くなります。

 

 

教壇に立つ前に④

  話し方をマスターしよう

 

 

 

 

澤地久枝さんに学ぶ人としてのあり方

前総理大臣の安倍晋三氏は私と同世代で、育った時代の空気感のようなものは共通していると思います。

安倍氏の国会答弁を聞きながら、繰り返し澤地久枝さんのことを思いました。 

 

澤地久枝さんは1930(昭和5)年9月3日生まれで、現在90歳。

先日亡くなられた半藤一利さんと同じく、私の父と同年生まれです。

 

Wikipediaに紹介されている澤地さんの経歴です。

大工の長女として生まれる(下に妹と弟)。父親は小学校卒業後伊豆での見習修業を経て大工となり、久枝が4歳の時、家族で満州へ移住し、吉林市の満鉄社宅で暮らした。1945年、吉林で敗戦を迎え1年間の難民生活の後に日本に引き揚げ山口県立防府高等学校編入した。

1947年夏に東京に移り焼野原の原宿に建てた6畳のバラックで育つ。1949年、中央公論社に入社し同社経理部で働きながら旧制都立向丘高等女学校(現・東京都立向丘高等学校)の定時制に一年通い、早稲田大学第二文学部に学ぶ。……卒業後、優れた能力を買われて『婦人公論』編集部へ移った。……1963年に編集次長を最後に退社。

その後、五味川純平の資料助手として『戦争と人間』の脚注を担当。1972年の『妻たちの二・二六事件』以後、本格的に執筆を開始し、『密約』(原案は西山事件)、『烙印の女たち』、『あなたに似たひと』、『昭和・遠い日近いひと』、『わが人生の案内人』、『道づれは好奇心』などを執筆。……

 

澤地さんと半藤さんにはともに戦争体験があり、そこから来る平和や民主主義への強い思いと覚悟が生き方の根底にあると思われます。

 

澤地さんには『妻たちの二・二六事件』や『記録 ミッドウェー海戦』など、ノンフィクション作家としてのすぐれた業績があります。

私は、それらのものよりもむしろ、エッセイストとしての澤地さんに強く惹かれてきました。澤地さんの文章を読んでいると、自然と背筋が伸びる気がします。

 

たとえば、道徳の授業で「正しいと思ったこと(正義)は勇気をもって言おう」といった内容の教材を扱うとします。

上手く指導することは大事なことですが、教師然として「正義」や「勇気」を教えるだけでいいのでしょうか。

「正義」を貫こうとしたときの孤立感、逆にリスクを回避したときの罪悪感にも似た虚しさ…大人である「私」は、子どもたちよりもずっと多くのトゲを持ちながら教壇に立っているのです。自らのトゲの痛みを抜きに、授業は成立するでしょうか。

安倍氏の国会答弁を聞きながら思う澤地さんとは、まさにこの部分なのです。

 

 

澤地さんの著書の中で一推しは、

『おとなになる旅』(新潮文庫、1985年)

『おとなになる旅』の単行本は、1981年にポプラ社から刊行されました。その後、1985年に一部加筆されて新潮文庫になりました。

現在は文庫本、単行本ともに版が絶えているようで、中古本を探すしかありません。

 

文庫本に加筆時の澤地さんは60歳で、2人の甥たちに「この本で、あなたたちのおばあちゃんがどんなに奇妙な子ども時代をおくっておとなになったのか、知ってください」と語りかける形で書かれています。

 

昨年度、私は地元の中学1年生を対象に「特別授業」を行っていました。内容については「元小学校教員による小中連携授業」(①~⑨)で紹介しています。最終回はコロナ禍で中止になったのですが、その内容が「大人になる旅」でした。作成したプレゼン用スライドの一部を紹介します。

f:id:yosh-k:20210122131926j:plain

精神的に大人になるというのは、いつ?なにをもって?

f:id:yosh-k:20210122131950j:plain

澤地さんは著書に中で、12歳の「あの日」のことに触れ、

その日を境に「『はだかの王様』が全く見えなくなった」と述懐している。

f:id:yosh-k:20210122132009j:plain

森達也さんの著書に、

はだかの王様』が見えなくなる」

とはどういうことかを読み解くヒントがあった。

f:id:yosh-k:20210122132023j:plain

澤地さんは、「はだかの王様』が見えなくなった」自分は、

「愚かでみじめな時間」だったと振り返る。

授業はこのあと、

「『王様は裸だ』と言い続ける生き方」について考える。

 

つぎに紹介したいのは、 

『私のかかげる小さな旗』(講談社文庫、2003年)

 内容(「BOOK」データベースより)

敗戦の日、わたしは十四歳だった…。あの日をさかいに、それまで頭上をおおっていた国家と軍隊、それにつらなるいっさいが、きれいに消えていった。それから六十年近く。わたしは「戦後」の初心を忘れない。いまや前のめりに進む日本社会に待ったをかける、みずみずしい信念と若々しい行動を綴るエッセイ。 

 

以下もお薦めです。 

『時のほとりで』(講談社文庫、2000年)

 内容(「BOOK」データベースより)

ささやかでいい、時代の証言者として生きたい。戦争の犠牲となった名もない人生に心ひかれ向かった満州ニューギニア、ロシア、トルコ。ピースボートからゴミ問題、大島渚小沢昭一丸木俊向田邦子さんのこと等、三度目の心臓手術を控えた日々、心に湧き上る思いを綴る。凛として温かく、勇気の出る随筆集。

 

 

 

『道づれは好奇心』(講談社文庫、2005年)

内容(「BOOK」データベースより)

「やりたいことはかならずやるという厄介な習性。その中心に位置しているのが『好奇心さま』なのだ」という著者が、来し方を振り返りつつも、若い学生とともに学ぶ沖縄の日々を綴る。そしてその中で気づいた「伝えるべき“知恵”と経験がわたしにもある」という事実。愛に満ちた人生の指針となるエッセイ集。

 

背筋をのばして凜として生きたいものです。 

凜として…。石垣りんさんの詩「表札」でも口ずさみながら。

「自分の住むところには
自分で表札を出すにかぎる。

……

精神の在り場所も
ハタから表札をかけられてはならない
石垣りん
それでよい」

それが教師の矜持です。

網野善彦さんに学ぶ日本の歴史

歴史学習を考えるとき、教壇に立つ者として自覚しなければならないことが2つあります。

 

1つは、現代史の正しい知識をほとんど身につけていないということです。

このことについては、「半藤一利さんに学ぶ現代史 」で触れました。

 

他の1つは、古代・中世・近世社会に対するステレオタイプです。

ステレオタイプというのは刷り込まれた固定観念のことです。

たとえば、網野善彦さんのある著書の見出しに「百姓は農民か」というのがあります。この見出しに「えっ?」「なに?」と思った人は、要注意です。

固定観念にとらわれると、ものごとの本質を見誤る、あるいは見えなくなってしまうことがあります。そしてそれは子どもたちに伝播します。

 

日本の歴史を学び直すことは、一人の社会人としての「私」のためでもありますし、「私」に歴史を教えられる子どもたちのためでもあります。

 

学び直しのテキストには、網野善彦さんの著書を強くお薦めします。

網野さんには多くの著書がありますが、私が読んでよかったと思うものをいくつか紹介します。

 

まず最初に読むのはこれですね。

『日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房、1991年)

『続・日本の歴史をよみなおす』(筑摩書房、1996年)

先の「百姓は農民か」は、『続・日本の歴史をよみなおす』に出てきます。

2005年に文庫本になっています。

『日本の歴史をよみなおす(全)』(筑摩書房、2005年、1320円)

内容(「BOOK」データベースより)
日本が農業中心社会だったというイメージはなぜ作られたのか。商工業者や芸能民はどうして賤視されるようになっていったのか。現代社会の祖型を形づくった、文明史的大転換期・中世。そこに新しい光をあて農村を中心とした均質な日本社会像に疑義を呈してきた著者が、貨幣経済、階級と差別、権力と信仰、女性の地位、多様な民族社会にたいする文字・資料の有りようなど、日本中世の真実とその多彩な横顔をいきいきと平明に語る。ロングセラーを続編とあわせて文庫化。

 

さらに、通史を学び直すには…

『日本社会の歴史(上)』(岩波新書、1997年)

内容(「BOOK」データベースより)

現代の日本人・日本国は、いかなる経緯をへて形成されたのか―。周辺諸地域との海を通じた切り離しがたい関係のなかで、列島に展開した地域性豊かな社会と「国家」とのせめぎあいの歴史を、社会の側からとらえなおす。十数年にわたる学問的営為の結実した本格的通史。上巻は列島の形成から九世紀(平安時代初期)まで。

『日本社会の歴史(中)』(岩波新書、1997年)

内容(「BOOK」データベースより)

自律的に進展する社会と「国家」とのせめぎあいの前近代史を、社会の側からとらえなおす通史の続編。近畿を中心とした貴族政権日本国―朝廷と、武人勢力によって樹立された東国王権。この二つの王権の併存と葛藤のなかで展開する活力あふれる列島社会の姿を描く。中巻は十~十四世紀前半、摂関政治から鎌倉幕府の崩壊まで。

『日本社会の歴史(下)』(岩波新書、1997年)

内容(「BOOK」データベースより)

 社会と「国家」とのせめぎあいの前近代史を、社会の側からとらえなおす通史の完結編。下巻は南北朝の動乱から地域小国家が分立する時代を経て、日本国再統一までを叙述し、近代日本の前提とその問題点を提示。十七世紀前半、武士権力によって確保された平和と安定は列島社会に何をもたらしていくのか。

 

 次の2冊も刺激を受けました。

『歴史を考えるヒント』(新潮文庫房、2012年)

内容(「BOOK」データベースより) 

 日本、百姓、金融…。歴史の中で出会う言葉に、現代の意味を押しつけていませんか。「国名」は誰が決めたのか。「百姓=農民」という誤解。そして、聖なる「金融」が俗なるものへと堕ちた理由。これらの語義を知ったとき、あなたが見慣れた歴史の、日本の、世界の風景が一変する。みんなが知りたかった「本当の日本史」を、中世史の大家が易しく語り直す。日本像を塗り替える名著。

 

 

『東と西の語る日本の歴史』(講談社学術文庫、1998年)

内容(「BOOK」データベースより)

 日本人は同じ言語・人種からなるという単一民族説にとらわれすぎていないか。本書は、日本列島の東と西に生きた人々の生活や文化に見られる差異が歴史にどんな作用を及ぼしてきたかを考察し、考古学をはじめ社会・民俗・文化人類等の諸学に拠りながら、通説化した日本史像を根本から見直した野心的な論考である。魅力的に中世像を提示して日本の歴史学界に新風を吹き込んだ網野史学の代表作の一つ。

 

『東と西の語る日本の歴史』の視点に関連して、赤坂憲雄さんの次の本も参考になりました。

赤坂憲雄『東西/南北考 -いくつもの日本へ-』(岩波新書、2000年)

内容(「BOOK」データベースより)

東西から南北へ視点を転換することで多様な日本の姿が浮かび上がる。「ひとつの日本」という歴史認識のほころびを起点に、縄文以来、北海道・東北から奄美・沖縄へと繋がる南北を軸とした「いくつもの日本」の歴史・文化的な重層性をたどる。新たな列島の民族史を切り拓く、気鋭の民俗学者による意欲的な日本文化論。

 

とりあえず、『日本の歴史をよみなおす』のご一読を。 

半藤一利さんに学ぶ現代史

1月12日、半藤一利さんが亡くなられました。

 

半藤さんは1930(昭和5)年5月21日生まれで、行年90歳。天寿を全うし……といったところですが、70代で逝った私の父と同年生まれで、近しさと感慨を覚えます。(1930年生まれには澤地久枝さんもおられます。澤地さんのことは別稿で書く予定です)

 

私が「教師力」というカテゴリーに半藤さんのことを書くには、それなりのワケがあります。

 

私は、一応社会科教師でした。しかし、教職に就くまでに日本の近現代史、とりわけ昭和の歴史をちきんと学んだことは一度もありませんでした。それは、教科書自体の問題もありますが、決定的なのは指導者の問題でした。

歴史学習は、時間軸の古い方から今に向かって進められるのが通常です。どうしたわけか、歴史教師は蘊蓄豊富でおしゃべり好き。年間指導計画はあるはずですが、時代が明治に入ったあたりから新幹線並みの授業になり、昭和に入ると運転終了なんてことがよくありました。受験問題の対象になることがほとんどなかったことも影響していると思われます。

そんなわけで、教師の多くは現代史の正しい知識を持つことなく教壇に立ち、歴史を教えています。

 

 

なんのために歴史を学ぶのか。

 

それは、いまとこれからをいかに生きるかを考えるためだと私は思っています。

「温故知新」は受験用の暗記四字熟語ではありません。

 

そう考えると、いまに最も近い現代史抜きに歴史学習は成立しません。

 

現代史の学びを欠いたまま教壇に立ったのなら、現代史の学び直しが必要です。

学び直しに一推しのテキストは、半藤一利さんの『昭和史』です。

 

『昭和史 1926-1945』(平凡社、2004年)『昭和史 戦後篇 1945-1989』(平凡社、2006年)は、2009年に文庫本になり各990円で入手できます。とても読みやすい文章ですが、戦前篇548ページ、戦後篇614ページと相当なボリュームです。それなりの覚悟が要ります。

 

読み始めると半藤さんの世界にハマるはずで、そんな方には『B面昭和史 1926-1945』(平凡社文庫、2019年、1100円)がお薦めです。『昭和史』を正史とすれば、『B面昭和史』はそれを補う民衆の歴史です。昭和の歴史への理解が厚みを増します。これは655ページの大作です。

 

そもそも、という方には、『歴史に「何を」学ぶのか』(ちくまプリマー新書、2017年、968円)なんかどうでしょう。これは254ページで軽く読めます。

同じく軽く読めるものとしては、『ぶらり日本史散策』(文春文庫、2012年、552円+税)もいいです。

 

逆に深掘りしたい方には、1945年8月14日正午から15日正午までを克明に綴った『日本のいちばん長い日』(文春文庫、2006年、660円)や『聯合艦隊司令長官 山本五十六』(文春文庫、2014年、616円)がお薦めです。『ノモンハンの夏』も気になっていますが、未読です。

 

個人的興味としては、『幕末史』(新潮文庫、2008年)や『それからの海舟』(ちくま文庫、2008年)も面白かったのですが、これは現代史の範疇から外れます。

 

とにもかくにも、自らの歴史眼を養うために『昭和史』を是非是非読破してください。

 

 

 

アルプスの山たちを訪ねて 3-6

7月9日~10日

 

帰国の途に着く朝、モンブランはとびきりのプレゼントを贈ってくれました。


朝の散歩に出た6時40分ごろには、モンブランは雲の中でした。それから40分ほど経って、朝食会場のレストランのテラスで、晴れわたった青空の下でモンブラン山頂を眺めることができました。

 

f:id:yosh-k:20210112094105j:plain

7時20分、シャモニに青空が戻ってきた

f:id:yosh-k:20210112094243j:plain

モンブラン山頂の右、ドーム・デュ・グテ(4304m)の雪が輝く

f:id:yosh-k:20210112094357j:plain

もう少しでモンブラン山頂の雲がとれる

f:id:yosh-k:20210112094431j:plain

ドーム・デュ・グーテの右、エギーユ・デュ・グテ(3817m)

f:id:yosh-k:20210112094534j:plain

7時29分、ついにモンブラン山頂が姿を見せる。

左の錐の上のエギーユ・デュ・ミディ展望台上空も晴れている。

今日なら上がれるだろう…

f:id:yosh-k:20210112094714j:plain

モンブランと周辺の山々

f:id:yosh-k:20210112094850j:plain

モンブラン山頂が見えてきた

f:id:yosh-k:20210112094915j:plain

モンブラン山頂が見えてきた

f:id:yosh-k:20210112094953j:plain

モンブラン山頂の雲が完全にとれた

f:id:yosh-k:20210112095009j:plain

モンブラン山頂の雲が完全にとれた


さらに、荷物をまとめてちょっと早めに外に出ると、一層の青空が広がり、これ以上ないというほどの眺望が得られました。私は、夢中でシャッターを押し続けました。

f:id:yosh-k:20210112095127j:plain

8時、ホテル前の橋からモンブランを眺める。間もなく出発だ

f:id:yosh-k:20210112095159j:plain

橋の飾られたプランターの花とモンブラン

f:id:yosh-k:20210112095229j:plain

モンブラン(4810m)

f:id:yosh-k:20210112095335j:plain

モンブラン(4810m)

f:id:yosh-k:20210112095451j:plain

ドーム・デュ・グテ(4304m)

f:id:yosh-k:20210112095547j:plain

再びモンブラン

f:id:yosh-k:20210112095636j:plain

モンブラン

f:id:yosh-k:20210112095714j:plain

ボソン氷河

f:id:yosh-k:20210112095749j:plain

ボソン氷河が青く見える

f:id:yosh-k:20210112095814j:plain

ドーム・デュ・グテの下、ここも氷河

f:id:yosh-k:20210112100118j:plain

エギーユ・デュ・グテ(3817m)

f:id:yosh-k:20210112100226j:plain

ドーム・デュ・グテ(4304m)

f:id:yosh-k:20210112100342j:plain

モンブラン

f:id:yosh-k:20210112100516j:plain

モンブランとボソン氷河

f:id:yosh-k:20210112100613j:plain

エギーユ・デュ・ミディ展望台(3842m)

f:id:yosh-k:20210112100654j:plain

針峰群

f:id:yosh-k:20210112100724j:plain

いつまでもいつまでも名残が尽きない

 

8時11分、バスはホテル前を出発しました。

途中、フランスとスイスの国境を越え、1時間半ほどでジュネーブ空港に着きました。

f:id:yosh-k:20210112100806j:plain

ジュネーブへ向かうバスの車窓。高速道路の橋脚が異様に長い。

地震の心配がないみたいだ、ここは

f:id:yosh-k:20210112100849j:plain

フランスとスイスの国境、黄色いアーチの向こうがジュネーブ


11時50分にKLM航空KL1928アムステルダム行きの搭乗が始まり、やや遅れ気味の12時22分に離陸しました。

f:id:yosh-k:20210112100931j:plain

ジュネーブ空港からKLM機でアムステルダムへ向かう

f:id:yosh-k:20210112101023j:plain

ジュネーブ空港を離陸直後の風景

f:id:yosh-k:20210112101117j:plain

アムステルダム近郊

f:id:yosh-k:20210112101156j:plain

間もなくアムステルダム空港に着陸する

13時42分、アムステルダム空港に着陸。最後尾の座席だったので、実際に降りられたのは14時ごろでした。乗り換えの関空便の出発まで40分しかありません。長い連絡通路を小走りに移動し、出国審査を受け、どうにか間に合いました。

f:id:yosh-k:20210112101240j:plain

航空機から荷物を下ろす作業が始まった


KLM航空KL0867便はほぼ満席でした。帰りは若干所要時間が短いとは言え、11時間近くかかります。オランダでは15時前ですが、11時間後の日本は10日の9時前です。寝なければと思うほど眠れず、結局、座席のモニターで「タイタニック」を丸ごと観てしまいました。


日本時間7月10日午前8時40分、着陸。飛行機を降りた所でツアーは解散。

10日間のスイス旅行は終わりを告げました。あとは入国審査を経て、家路につくだけです。

 

                                   〈了〉