教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

日本語探訪(その27) 慣用句「襟を正す」

小学校3・4年生の教科書に登場する慣用句の第10回は「襟を正す」です。教科書の表記は、「えりを正す」となっています。

 

襟を正す

 

「襟を正す」の読み方

 えりをただす

 

「襟を正す」の意味

①姿勢・服装の乱れをととのえ、きちんとする。
②心をひきしめ真面目な態度になる。

                                                              (広辞苑

 

「襟を正す」の使い方

 ①の意味の使用例

「渠は襟(キン)を正(タダ)して、恭しく白糸の前に頭を下げたり」(泉鏡花『義血侠血』1894年)

②の意味の使用例

「悲劇は喜劇より偉大である。〈略〉巫山戯(ふざけ)たるものが急に襟(エリ)を正(タダ)すから偉大なのである」(夏目漱石虞美人草』1907年)

 

「襟を正す」の語源・由来

 「襟を正す」の語源は、中国の詩人・蘇軾(そしょく)の詩「赤壁賦(せきへきのふ)」(1082年)にあります。「赤壁賦」は前後2篇から成り、「襟を正す」は「前赤壁賦」に出てきます。

 

  赤壁
          蘇軾

  壬戌之秋      壬戌の秋
  七月既望      七月既望
  蘇子與客泛舟    蘇子客と舟を泛べ
  遊於赤壁之下    赤壁の下に遊ぶ 
  清風徐來      清風徐ろに來って
  水波不興      水波興らず
  舉酒屬客      酒を舉げて客に屬め
  誦明月之詩     明月の詩を誦し
  歌窈窕之章     窈窕の章を歌ふ

壬戌の秋七月十六日、蘇子は客とともに船を浮かべて、赤壁の下に遊んだ、清風がゆるやかに吹き、水面には波が立たない、酒を取って客に進め、明月の詩を誦し、窈窕の章を歌った

  少焉        少焉にして
  月出於東山之上   月東山の上に出で
  徘徊於鬥牛之間    鬥牛の間に徘徊す
  白露橫江      白露江に橫たはり
  水光接天      水光天に接す
  縱一葦之所如    一葦の如く所を縱にし
  凌萬頃之茫然    萬頃の茫然たるを凌ぐ
  浩浩乎如馮?御風  浩浩乎として?に馮り風を御して
  而不知其所止    其の止る所を知らざるが如く
  飄飄乎如遺世獨立  飄飄乎として世を遺(わす)れて獨り立ち
  羽化而登仙     羽化して登仙するが如し

しばらくして月が東山の上に出、?牛の間を徘徊した、長江の流れが白露のように光り、その光が天に接している、船は葦のように流れに任せ、はるばると広がる水面をわたっていく、譬えれば無限の空間を風に乗ってさまよい、飄飄と飛翔してそのまま羽化して仙人になった心地だ

  於是飲酒樂甚    是に於て酒を飲んで樂しむこと甚しく
  扣舷而歌之     舷を扣って之を歌ふ
  歌曰        歌に曰く
  桂棹兮蘭将    桂の棹蘭の将
  撃空明兮溯流光   空明を撃って流光を溯る
  渺渺兮予懷     渺渺たり予が懷ひ
  望美人兮天一方   美人を天の一方に望む
  客有吹洞蕭者    客に洞蕭を吹く者有り
  倚歌而和之     歌に倚って之に和す
  其聲嗚嗚然     其の聲嗚嗚然として
  如怨如慕      怨むが如く慕ふが如く
  如泣如訴      泣くが如く訴ふるが如し
  餘音梟梟      餘音梟梟して
  不絶如縷      絶へざること縷の如し
  舞幽壑之潛蛟    幽壑の潛蛟を舞はしめ
  泣孤舟之?婦    孤舟の?婦を泣かしむ

ここに至って酒を飲み楽しむこと甚だしく、船端を叩いて歌を歌った、歌にいわく、桂の棹蘭の?、空明を?って流光を溯る、我が思いは渺渺として、天の彼方にある月を望む、その時客の中に洞蕭を吹くものがあって、歌に合わせてこれを吹いた、その音色はむせぶようで、恨むようでもあり、慕うようでもあり、泣くようでもあり、訴えるようでもあった、余韻はいつまでも消えず、糸のように細々と続き、それを聞いた幽壑の潛蛟は舞い、孤舟の?婦は泣いたのであった

  蘇子愀然      蘇子愀然(しゅうぜん)として
  正襟危坐      襟を正して危坐(きざ)し
  而問客曰      客に問うて曰く
  何為其然也     何為(なんすれ)そ其れ然るやと
  客曰        客曰く
  月明星稀      月明らかに星稀に
  烏鵲南飛      烏鵲南に飛ぶ
  此非曹孟德之詩乎  此れ曹孟德の詩にあらずや
  西望夏口      西のかた夏口を望み
  東望武昌      東のかた武昌を望めば
  山川相繆      山川相ひ繆はり
  鬱乎蒼蒼      鬱乎として蒼蒼たり
  此非孟德之     此れ孟德の
  困於周郎者乎    周郎に困められしところにあらずや
  方其破荊州     方に其れ荊州を破り
  下江陵       江陵を下り
  順流而東也     流に順いて東するや
  舳艫千里      舳艫千里
  旌旗蔽空      旌旗空を蔽ふ
  醸酒臨江      酒を醸して江に臨み
  橫槊賦詩      槊を橫たへて詩を賦す
  固一世之雄也    固より一世の雄なり
  而今安在哉     而して今安くにか在らんや

蘇子愀然として、襟を正して危坐し(襟をきちんと正して座り直し)、客にこういった、どうすればこんな情緒が出せるのかと、客答えて曰く、月明らかに星稀に、烏鵲南に飛ぶとは曹孟德の詩ではなかったか、西のかた夏口を望み、東のかた武昌を望めば、山川相ひ繆はり、鬱乎として蒼蒼たりとは、孟德が周郎に苦しめられたところではなかったか、その孟德は荊州を破り、江陵を下り、そこから長江を東に下って、勢い千里、艦隊の旗が空を覆うほどであった、孟德は戦いに臨み酒を用意して、槊を橫たへて詩を賦した、まさに一世の雄と云うべき男であったのに、今はどこにいってしまっただろうか

  況吾與子      況んや吾と子と
  漁樵於江渚之上   江渚の上に漁樵し
  侶魚蝦而友糜鹿   魚蝦を侶とし糜鹿を友とし
  駕一葉之扁舟    一葉の扁舟に駕し
  舉匏樽以相屬    匏樽を舉げて以て相ひ屬し
  寄蜉蝣與天地    蜉蝣を天地に寄す
  渺滄海之一粟    渺たること滄海の一粟なるにおいてをや
  哀吾生之須臾    吾が生の須臾たるを哀しみ
  羨長江之無窮    長江の無窮なるを羨やむ
  挾飛仙以遨遊    飛仙を挾んで以て遨遊し
  抱明月而長終    明月を抱へて長へに終はらんこと
  知不可乎驟得    驟には得べからざることを知り
  托遺響於悲風    遺響を悲風に托さんと

まして私もあなたも、江渚の上に漁樵し、魚蝦を侶とし糜鹿を友とし、一葉の扁舟に駕して、こうやって酒を飲みながら、天地の間をうろついておる、その渺たることは滄海の一粟と同じだ、自分の命の短さを悲しみ、長江の無窮なるを恨み、せめて飛仙を挾んで以て遨遊し、明月を抱へていつまでも生き続けることは、到底できないのであるから、悲しい音でも吹いて風に託すほかはない

  蘇子曰       蘇子曰く
  客亦知夫水與月乎  客も亦夫の水と月とを知れるや
  逝者如斯      逝く者は斯くの如くなれども
  而未嘗往也     而も未だ嘗て往かざるなり
  盈虚者如彼     盈虚する者は彼の如くなれども
  而卒莫消長也    而も卒に消長する莫きなり
  蓋將自其變者而觀之 蓋し將た其の變ずる者より之を觀れば
  而天地曾不能一瞬  天地も曾て一瞬なること能はず
  自其不變者而觀之  其の變ぜざる者より之を觀れば
  則物於我皆無盡也  則ち物と我と皆盡くること無きなり
  而又何羨乎     而るを又何をか羨みんや

蘇子曰く、あなたも月と水の関係は知っておられるだろう、水は月をたたえて流れつづけ、いつまでも尽きることがない、月は水に浮かんで満ち欠けするが、消え去ることも大きくなることもない、変化の視点から宇宙を見れば、天地は一瞬たりとも止まってはいない、不動の視点から宇宙を見れば、物には尽きるということがない、それゆえそんなに恨むことはなかろう

  且夫天地之間    且つ夫れ天地の間
  物各有主      物各おの主有り
  苟非吾之所有    苟そしも吾の所有に非ざれば
  雖一毫而莫取    一毫と雖も取るなかれ
  惟江上之清風    惟だ江上の清風と
  與山間之明月    山間の明月と
  耳得之而為聲    耳之を得て聲を為し
  目遇之而成色    目之に遇ひて色を成す
  取之無禁      之を取るも禁ずる無く
  用之不竭      之を用うれども竭きず
  是造物者之無盡藏也 是れ造物者の無盡藏にして
  而吾與子之所共適  吾と子との共に適する所なり

天地の間にあるものには、おのおの主人がある、いやしくも自分のものでないものには、手を出してはならない、ただ江上の清風と、山間の明月とは、その音を自分の耳で聞き、その姿を自分の目で見てよい、自分のものにしても差し支えないし、使ってもなくなることはない、自然が作りだした無尽蔵のものは、誰でも遠慮することはないのだ

  客喜而笑      客喜んで笑ひ
  洗盞更酌      盞を洗って更に酌ぐ
  肴核既盡      肴核既に盡き
  杯盤狼藉      杯盤狼藉たり
  相與枕藉乎舟中   相ひともに舟中に枕藉して
  不知東方之既白   東方の既に白むを知らず

客は喜んで笑い、盞を洗って更に酌いだ、そのうち肴核も尽きて、杯盤が散らかるなか、ともに舟中に枕を並べ、夜が明けるのも気が付かなかった

 

「襟を正す」の蘊蓄

「襟を正す」の類語

姿勢を正す
居住まいを正す
背筋を伸ばす
威儀を正す

日本語探訪(その26) ことわざ「帯に短し襷に長し」

小学校3・4年生の教科書に登場することわざの第8回は「帯に短し襷に長し」です。教科書の表記は、「おびに短したすきに長し」となっています。

 

 

帯に短し襷に長し

 

「帯に短し襷に長し」の読み方

 おびにみじかしたすきにながし

「帯に短し襷に長し」の意味

物事が中途半端で役に立たないこと。(広辞苑

 

「帯に短し襷に長し」の使い方

 その二十九銭也で三人仲良く喰べようと、古本屋の並んでいる早稲田の学生街を行ったり来たりしたんですが、帯に短し襷に長しで、金額に相応した喰べ物がおいそれと見つからないんです。(島田正吾『ふり蛙』1978年)

 

「帯に短し襷に長し」の語源・由来

 着物が日常着だった時代の「帯」と「襷」の長さに由来する生活感からできた言葉です。

(「TRANS.Biz」より)

帯の長さは種類によって異なりますが短いもので3.6m、長いものだと4.3mほどです。このことわざに登場している「襷(たすき)」とは、駅伝などで見られるような輪になったものを斜め掛けするタイプのものではなく、弓道などで用いられている細長いヒモ状のものです。

長さは2.1~2.4m程度ありますが、これ以上長いと余った襷が長く垂れて邪魔になります。帯と襷の長さの差は1.2m以上あり、ひとつのもので兼用することはできません。

つまり、帯と襷の中間の長さである3m前後が「帯に短し襷に長し」の長さで、帯と襷いずれの用も足すことができない中途半端なものです。                                                                        

 

「帯に短し襷に長し」の蘊蓄

「帯に短し襷に長し」の類語

・褌には短し手拭には長し(ふんどしにはみじかし、てぬぐいにはながし)

 ※褌の長さは2m前後、手拭の長さは1m足らずです。

・帯に短しまわしに長し

 ※相撲に使うまわしは6mもありますので、ここでの「まわし」は「ふんどし」を指していると思われます。帯の長さは3.6m~4.3m程度、褌の長さは2m前後です。

日本語探訪(その25) ことわざ「馬の耳に念仏」

小学校3・4年生の教科書に登場することわざの第7回は「馬の耳に念仏」です。

 

 

馬の耳に念仏

 

「馬の耳に念仏」の読み方

 うまのみみにねんぶつ

 

「馬の耳に念仏」の意味

馬に念仏を聞かせてもその有難みがわからないように、いくら説き聞かせても、何の効もないたとえ。(広辞苑

 

「馬の耳に念仏」の使い方

 きちんと理解できる人じゃないと、その話は馬の耳に念仏になるだけだ

 

※目上の人に対して「馬の耳に念仏」という言葉を使うと、その人を愚かな馬にたとえていることになるため失礼な表現となってしまいます。

 

「馬の耳に念仏」の語源・由来

「TRANS.Biz」より引きます。 

「馬耳東風」が「馬の耳に念仏」の由来
「馬の耳に念仏」と同じような意味のことわざに「馬耳東風」がありますが、実は「馬耳東風」こそが「馬の耳に念仏」のことわざの由来です。

「馬耳東風」とは、人の意見に耳を貸さないことという意味を表し、中国の詩人である李白の詩が出典です。「王十二の『寒夜に独酌して懐にあり』に答う」という詩の中に「東風は馬耳を射るがごとき」というくだりがあり、良い詩を俗物は認めようとしないことを憤る様子が詠まれています。

「馬耳東風」の「馬耳」は「馬の耳」のことで、「東風」とは「東から吹く春風」のことです。「東風は馬耳を射るがごとき」とは、馬の耳に風といったあんばいだ、というように、聞き流されてしまう様子を表しています。

「馬耳東風」の故事成語が日本に伝わると、「何を言っても馬の耳に風」と歌舞伎のセリフなどで言われるようになり、「馬の耳に風」ということわざができました。やがて「風」が「念仏」に変わり、「馬の耳に念仏」ができたと言われています。

 

 「馬の耳に念仏」の蘊蓄

「馬の耳に念仏」の類語

猫に小判(ねこにこばん)
豚に真珠(ぶたにしんじゅ)
犬に論語(いぬにろんご)
兎に祭文(うさぎにさいもん)

牛に説法馬に銭
犬に念仏猫に経
豚に念仏猫に経

 ※人間の価値観でバカにするなと動物たちから「異議申し立て」が出そうです。

 

「馬耳東風」

「馬耳東風(ばじとうふう)」は、「人の意見や批評などを、心に留めずに聞き流すこと。」(広辞苑)です。

 

「馬耳東風」は「馬の耳に念仏」のもとになった故事成語ですが、両者の意味は違います。

 

「馬耳東風」の出典は、李白の詩『答王十二寒夜独有懐』です。『答王十二寒夜独有懐』は「王十二(おうじゅうに)の寒夜(かんや)独酌(どくしゃく)懐(おも)い有(あ)るに答(こた)う」と読みます。(友人の王十二が詩を寄せたので、その人に答えた詩であるが、李白の人生観を述べ、王十二についてもその不遇を思い戒めたものである)という意味です。

 

「世人聞此皆掉頭、有如東風射馬耳」

「世人此(これ)を聞きて皆頭(こうべ)を掉(ふ)る、東風の馬耳を射るがごとき有り」とよみ、(世の人はこれを聞くと皆頭をふって聞き入れない。まさに春風が馬の耳に吹きつけるようなものだ)という意味になります。

 

 

答王十二寒夜独有懐』はとても長い詩です。「世人聞此皆掉頭、有如東風射馬耳」までの部分を紹介します。

 

昨夜吳中雪,子猷佳興發。

昨夜 吳中 雪,子猷 佳興發す。

昨夜、呉地に於ては、大雪が降ったとかで、子猷に比すべき王君は、佳興勃発し、舟に乗り出しかねないほどの勢いである。

萬里浮雲卷碧山,青天中道流孤月。

萬里 浮雲 碧山を卷き,青天 中道 孤月を流す。

その時、萬里の遠きに亙れる雪げの雲は、碧山を捲き去り、青天の中間に、ずっと道を開いて、そこから、弧月が流れ出した。

孤月滄浪河漢清,北斗錯落長庚明。

孤月 滄浪 河漢清く,北斗 錯落 長庚明かなり。

月の色は、滄涼寒冷、天の河は、いとも清く、澄みわたり、北斗は錯落、宵の明星は爛然として照り輝き、無論、その時は、雪が晴れて、乾坤一色、白銀の世界を現出した。

懷余對酒夜霜白,玉牀金井冰崢嶸。

余が酒に對し夜の霜の白さを懷い,玉牀 金井 冰は崢嶸。

君は、余を思い出でられ、今頃は酒に対して、夜の霜白く極めて寒いのをこらえているだろうといいつつ、井欄の氷が崢嶸として高く積み上げた様なのを見て、ひとり淋しく、打澄ましていた。

人生飄忽百年內,且須酣暢萬古情。

人生 飄忽 百年の內,且つ須らく酣暢すべし萬古の情。

それがやがて豁然として大悟し、人生の飄忽としで、果敢なきは、百年の命の内に限られて居るから、生きて居る間に、酒でも飲んで、のびのびと心気を養い、萬古の愁情を消遣するのが第一だというので、獨酌して吟輿を縦まにされた。

不能狸膏金距學鬬雞,坐令鼻息吹虹霓。

君は狸膏 金距 鬬雞を學び,坐ろに令鼻息をして 虹霓を吹しむる能わず。

彼の闘鶏の兒輩は、鶏の頭に狸膏を塗ったり、鶏の蹴爪に金を嵌めたり、さまざまの事をして、勝を争い、その技に長けて居るところから、天子の眷顧を得、鼻息で虹を吹くという様な素張らしい勢であるが、君は、到底、そんな眞似をすることはできない。

不能學哥舒,橫行青海夜帶刀,西屠石堡取紫袍。

君は 哥舒を學び,青海を橫行し 夜 帶刀し,西 石堡を屠って 紫袍を取る能わず。

次に哥舒翰は、専ら吐蕃征伐の任にあたり、青海地方に横行し、刀を帯びて、西の方、石堡城を攻めおとし、その入寇を根絶したというので、やがて紫砲を賜わり、非常な恩賞に興って、大した羽振りであるが、君は又それを尊ぶことはできない。

吟詩作賦北牕裏,萬言不直一杯水。

詩を吟じ 賦を作る 北牕の裏,萬言 直せず 一杯の水。

かくの如く、闘鶏の兒も、破虜の將も、共に君の學を欲しないところであって、北窓の裏に兀坐し、詩を吟じたり、賦を作ったりする、これが即ち君の今日の境涯である。しかし、折角の名作をだしたにしても、萬言は一杯の水にも値せず、

世人聞此皆掉頭,有如東風射馬耳。

世人 此を聞いて 皆 頭を掉る,東風 馬耳を射るが如き有り。

世人は、その詩賦を聞いても、皆頭を振り、碌々わかりもせず、たとへば、馬の耳に風といつたような按排である。

 

日本語探訪(その24) 故事成語「推敲」

小学校3・4年生の教科書に登場する故事成語の第8回は「推敲」です。

 

 

推敲

 

「推敲」の読み方

 すいこう

 

「推敲」の意味

詩文を作るのに字句をさまざまに考え練ること。(広辞苑

 

「推敲」の使い方

 作文を推敲する。

 

「推敲」の語源・由来

 「推敲」の出典は、『唐詩紀事(とうしきじ)』巻四十に収められた詩人「賈島(かとう)」の逸話です。

 

賈島赴挙至京、騎驢賦詩、得「僧推月下門」之句。
欲改推作敲。
引手作推敲之勢、未決。
不覚衝大尹韓愈。乃具言。
愈曰、「敲字佳矣。」

遂並轡論詩久之。

 

(書き下し文)

賈島(かとう)、挙(きょ)に赴(おもむ)きて京(けい)に至り、驢(ろ)に騎(の)りて詩を賦(ふ)し、「僧は推(お)す月下(げっか)の門」の句を得たり。

推(すい)を改めて敲(こう)と作(な)さんと欲す。

手を引きて推敲の勢いを作(な)すも、未だ決せず。

覚えず大尹(たいいん)韓愈(かんゆ)に衝(あた)る。

乃(すなわ)ち具(つぶ)さに言う。

愈(ゆ)曰く、敲の字佳(よ)し、と。

遂(つい)に轡(くつわ)を並べて詩を論ず。

 

(口語訳)

賈島(かとう)は都・長安にたどり着き、ロバに乗りながら詩を作っていた。すると「僧は推す月下の門」という句ができた。
しかし、「推」より「敲」という文字の方が良いのではないかと悩んだ。手を動かして、推(お)す動作と敲(たた)く動作をしてみたもののまだ決まらない。すると韓愈の列に突っ込んでしまった。

列に突っ込んでしまった理由を説明すると、韓愈は、「敲が良い。」と言った。そのまま二人は並んで詩についてしばらく論じた。

 

 

「推敲」の蘊蓄

「推敲」の出典『唐詩紀事』は、  宋の計有功(けいゆうこう)の編で、唐代の詩人1150人について、その詩・小伝および批評などを集めたもの。全81巻あり、「推敲」は巻四十に収められています。

 

「推敲」の語源になった詩の作者・賈島(779年~843年)は、中国・唐の詩人です。そのとき作った詩は、「題李凝幽居」というものです。

 

題李凝幽居   賈島

閑居少鄰竝
草径入荒園
鳥宿池中樹
僧敲月下門
過橋分野色
移石動雲根
暫去還来此
幽期不負言

 

李凝(りぎょう)の幽居(ゆうきょ)に題(だい)す   賈島(かとう)

閑居(かんきょ)鄰竝(りんぺい)少(すく)なく
草径(そうけい)荒園(こうえん)に入(い)る
鳥(とり)は宿(やど)る池中(ちちゅう)の樹(き)
僧(そう)は敲(たた)く月下(げっか)の門(もん)
橋(はし)を過(す)ぎて野色(やしょく)を分(わ)かち
石(いし)を移(うつ)して雲根(うんこん)を動(うご)かす
暫(しばら)く去(さ)って還(ま)た此(ここ)に来(き)たる
幽期(ゆうき)言(げん)に負(そむ)かず

 

「隣家も稀な李凝の幽居。草径を通り池畔を過ぎて、僧は月に照らされた門を敲く。橋を渡れば、一面にあふれる野色。岩を動かせば、雲が湧くかと思われるほどだ。今夜はこれでお別れしますが、そのうちにきっとまたお伺いしますよ。この約束はかならず果たします。」といった内容の詩です。(『中国の故事と名言五〇〇選』)

 

賈島が、月下の門を「おす」にしようか「たたく」にしようかと悩んだとき、「推す」「敲く」ではなく「押す」「叩く」の字を充てていたら、「推敲」ではなく「押叩(おうこう)」という成語になっていたのですかね。

 

日本語探訪(その23) 故事成語「助長」

小学校3・4年生の教科書に登場する故事成語の第7回は「助長」です。

 

 

助長

 

「助長」の読み方

 じょちょう

 

「助長」の意味

①急速に成長させようとして、無理に力を添えかえってこれを害すること。結果として、よくないことをさらに著しくしてしまうこと。「弊害を―する」

②物事の成長・発展のために外から力を添えること。

広辞苑

 

「助長」の使い方

国際交流を助長する

差別を助長する

 

「助長」の語源・由来

「助長」の出典は、 『孟子』の「公孫丑(こうそんちゅう)・上」です。

 

宋人有閔其苗之不長而揠之者。
芒芒然帰、謂其人曰、
「今日病矣。予。」
其子趨而往視之、苗則槁矣。
天下之不助苗長者、寡矣。

 

(書き下し文)

宋人に其の苗の長ぜざるを閔(うれ)へて之を揠(ぬ)く者有り。
茫茫然として帰り、其の人に謂ひて曰はく、
「今日病(つか)れたり。予苗をけてぜしむ。」と。
其の子趨(はし)りて往きて之を視れば、苗は則ち槁(か)れたり。
天下の苗を助けて長ぜしめざる者、寡なし。

 

(口語訳)

宋の国の人で畑の苗が成長しないのを心配してこれを上に引っ張る者がいました。
疲れでボーっとなって家に帰り、家の人にこう言いました。
「疲れた。苗を引っ張って成長を助けてやったんだ
その人の子供が走って苗を見に行くと、苗は枯れてしまっていました。
世のなかにはこのように無理に引っ張って成長させようとする者が多いことだ。

 

「助長」の蘊蓄

「助長」の四字熟語

助長抜苗(じょちょうばつびょう)
孟子』「公孫丑」由来の四字熟語です。「長ずるを助けんとして苗を抜く」と訓読みします。

「ヤングケアラー」の衝撃

「家族の世話を担う子(ヤングケアラー)

               中高生の20人に1人」

 

4月13日の朝刊(朝日新聞)に、大きな見出しが躍っていました。

それは、松山英樹がマスターズで優勝したニュースの興奮を瞬時に冷めさせる衝撃でした。

 

厚生労働省は、全国の公立中学の2年生と公立高校(全日制など)2年生を対象に「ヤングケアラーの実態に関する調査研究」のアンケートを実施(2020年12月~2021年1月)し、13777人から回答を得ました。

その結果が12日に発表されました。

中学2年で5.7%、高校2年(全日制)で4.1%が、「世話している家族がいる」と回答しました。……つまり「中高生の20人に1人」がヤングケアラーというわけです。この数字から推計すると、全国の中学2年で約5万5千人になります。

世話に費やす時間は、中学2年で平日1日平均4時間です。7時間以上という回答も1割を超えています。

その結果、「宿題や勉強をする時間がとれない」(16.0%)、「自分の時間がとれない」(20.1%)といった事態が起こっています。

 

私は、あまりにも無知でした。「ヤングケアラー」という言葉さえ初見です。

私の教室にいた子どもたちの1人か2人が、卒業からわずか2年後に、家族を世話する日常を送っていたかもしれないのです。そうした想像力さえ持ち合わせていなかったことが、痛恨の極みです。

いまさらながら振り返ってみれば、ふと思い浮かぶ子がいます。

 

 

新聞記事は、「英国などではサポートする仕組みの整備が進むが、日本は遅れが指摘されてきた」と結んでいます。

 

厚労省が初の全国調査を行ったということは、これから取り組みを始めるための準備が始まるということでしょう。

 

 

英国の「サポートする仕組み」が気になって、調べてみました。

 

 

まず、「ヤングケアラー」というのはイギリスで生まれた言葉で、家族の介護やサポートを行う18歳未満の子どもを指すことが分かりました。(ちなみに18歳から24、25歳のケアラーは「ヤングアダルトケアラー」というそうです)

イギリスでは1980年代末から調査や支援が行われているようです。

 

日本でヤングケアラーの問題を調査・研究している第一人者として、成蹊大学文学部のの澁谷智子教授がおられます。

澁谷氏には、『ヤングケアラー 介護を担う子ども・若者の現実』(中公新書、2018.5.18)という著書があります。

 

詳細は著書を読めば分かるのでしょうが、澁谷氏のインタビュー記事がありましたので、それを通してアウトラインをつかみたいと思います。

 

「imidas」に掲載された2016年05月13日の記事です。

子どもや若者にまで広がる家族介護の現状


若年介護者「ヤングケアラー」とは
                   澁谷智子

                   (成蹊大学文学部現代社会学科准教授)

                   (構成・文/中澤まゆみ)

 

「ヤングケアラー支援」先進国、イギリスへ

 

――イギリスに行かれたのはいつですか?


澁谷 最初は2010年です。コーダ研究の延長で2カ月ほど勉強に行ったんですが、その時には、聞こえない親だけでなく、精神障害のある親をケアする子どもたちも目にしました。
 日本では20代、30代もヤングケアラーと言われていますが、イギリスの定義ではヤングケアラーというのは18歳未満なんです。18歳から24、25歳のケアラーは「ヤングアダルトケアラー」と呼ばれています。日本では、その訳語として、「若者ケアラー」という言葉も使われるようになってきています。
 日本の福祉は障害者福祉、高齢者福祉、児童福祉に区分されていますが、イギリスでは福祉が、児童福祉と大人向けサービスに分かれているんです。ケアを受ける人がこのように縦割りに捉えられている中で、行政のどの部署がヤングケアラーのことに責任を持つのかというのは、ごく最近まで明確にされていませんでした。しかし、そうした中でも、ヤングケアラーのことに特化して支援する「ヤングケアラー・プロジェクト」が各地で作られていきました。今日ではイギリス中で300を超えるぐらいのプロジェクトがあると言われています。


――イギリスでヤングケアラーへの支援が始まったのはいつごろからですか?


澁谷 1980年代末から問題提起が始まり、90年代半ばになって全国規模の調査が実施され、支援が始まりました。イギリスでも、ヤングケアラーは長いこと「Hidden Carer(見えないケアラー)」と呼ばれていて、それをどう発見するかがサポートの第一段階と言われていました。発見するためには周りの人たちが意識を持たないといけないので、そのためには大人も啓発しなくてはいけない。
 また、ヤングケアラーのイメージがあまりに過酷すぎると、自分はそこまでではない、ヤングケアラーとは言えない、と思ってしまうので、ヤングケアラー自身が「自分はヤングケアラーだと思ってもいい」という土壌をつくることも大切です。家族のことを気遣ってケアに関わっている、その事実を認めて評価していく仕組みも、もっと作っていく必要があると思います。イギリスの定義では、主介護者だけでなく、補助介護者もヤングケアラーと見なされるんです。


――例えばお母さんが倒れれば、子どもは家事をしなくちゃいけなくなる。そういう子どもも、ヤングケアラーと呼ぶのですか?


澁谷 ええ、そのレベルでもヤングケアラーと見なされ、サポートが必要と考えられています。2度目の渡英で滞在したウィンチェスター(イギリス南部の都市、人口4万人規模)では、地域にヤングケアラーのクラブがあり、私は8~11歳のグループのボランティアになったのですが、そこにはそうした子どもたちがけっこういました。毎週水曜日、地域の青少年センターで、放課後午後4時半から6時まで集まってお互いの話をしたりするんですが、一人親家庭の子どもや、両親はいるけれど障害のあるきょうだいの面倒を見ている子どもが多かったです。担っているケアや責任が比較的軽い場合であっても、子どもの年齢や性格、環境によっては、その子の生活に大きな影響が出てしまうことがあります。そうした子どもたちをすべてヤングケアラーと捉えてサポートしている、というのが驚きでした。逆にそのクラブのスタッフに、日本では排泄(はいせつ)介助をしている高校生がいるという話をすると、子どもにそんなことをさせているのかと、とても驚かれました。


――イギリスでは大規模な調査が何度もされていますが、ケアを担うことで、子どもたちにはどんな影響が出てきますか?


澁谷 自分のことにあまり時間を使えないので、学校の宿題や勉強や友達とのつきあいが充分にできなかったり、同世代に対して心理的な距離を感じてしまったりすることが出てきます。疲れが溜まっていけば、遅刻や学校に行けないことも出てきますし、成績や人間関係でも思うような成果を出せない中で、進路や就職も狭めて考えていってしまう、それを家族にも相談できない、ということはあると思います。


「見えない」ヤングケアラーをどうやって見つける?

 

――日本でヤングケアラーについて、新聞が採り上げるようになったのは、澁谷さんの調査がきっかけでしたね。


澁谷 イギリスでヤングケアラーの状況を知ったとき、日本でも出てきそうな問題だとすぐに思いました。とはいえ、日本で何をすればいいかわからずにいた時期もあったのですが、2013年、医療ソーシャルワーカーを対象にアンケート調査を実施しました。回答者402人中約35%が「これまでに18歳以下の子どもが家族のケアをしていると感じた」と答えていました。子どもがしていたケアの内容は「家事」がいちばん多く、「きょうだいの世話」「情緒面のサポート(ケアの受け手の感情の状態を見守ること、落ち込んでいる時に元気づけようとすることなど)」「一般的ケア(薬を飲ませる、着替えや移動の介助など)」「請求書の支払い、病院への付き添いや通訳」と続きます。急性期病院のソーシャルワーカーのほうが、ヤングケアラーの存在に気づいているという感触がありました。


――14年には日本ケアラー連盟と、イギリスのヤングケアラー支援団体の方を呼んで、シンポジウムも開きましたね。


澁谷 20年前から活動している「子ども協会 包摂プログラム」のヘレン・リードビターさんをお呼びしました。ヘレンさんは、11年のイギリス国勢調査でヤングケアラーが子ども全体の約2%いるというデータが出たことを示しながら、「もっと多いはずだが、発見が難しい」と言っていました。学校や医療機関でヤングケアラーを発見してもらうため、教師や医療専門職たちの啓発活動に力を入れていることや、ヤングケアラーには大人の介護者とは違う支援が必要だということ、どんな福祉サービスも子どもの過度なケア負担に依存してはいけないと考えられていることなどを報告してくれました。

 

教職員への調査で見えてきた実態

 

――そして、15年には新潟県南魚沼市で調査をされた。


澁谷 公立小中学校26校の教職員にアンケートさせていただくことができました。シンポジウムをきっかけに研究者が集まり、日本ケアラー連盟で「ヤングケアラープロジェクト」が発足したんです。研究者がそれぞれの知識を交換しあう勉強会や、学校のソーシャルワーカーを招いての会などを開く中で、実態調査をして数を把握しなくてはいけない、という流れになり、私が13年のソーシャルワーカーへのアンケートに続いて学校教育の現場でも調査をしたいと強くお願いして実現したのが南魚沼調査でした。
 271人の先生方が回答してくださったんですが、約25%がヤングケアラーの可能性のある子どもに関わった経験があると答えておられたんです。親やきょうだいの世話のほか、祖父母の入浴やトイレの介助に関わる子もいました。子どもの学校生活において、欠席や遅刻などの影響が出ている場合もありました。

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 南魚沼市では、この調査を通じて先生方の関心が高まり、子どもがヤングケアラーかもしれないと感じた場合、それをどうチェックするのか、どこまで踏み込めるのかなどを判断するためのアセスメントシート(調査票)がほしい、という声も上がってきましたので、16年度はもう少し踏み込んで調査してみたいと考えています。


介護のことは知られたくない…ヤングケアラーの気持ち

 

――澁谷さんは、ヤングケアラーたちに実際にインタビューもされているんですよね。


澁谷 今のところは20代、30代の元ヤングケアラーや若者ケアラーにお話を聞いています。その方たちによると、ヤングケアラーや若者ケアラーは、ケアをしている時には、自分のことを人に知られたくないという気持ちがあるんですね。学校では誰もおむつの話なんてしていない。友だちから浮いてしまいたくないとか、恥ずかしいとか、そういった気持ちもあるようです。また、若者ケアラーが就職や結婚を考えるときには、ケアラーというレッテルがつくことを恐れる思いもあります。職場で使いにくい奴と思われるんじゃないか、腫れ物のように扱われてしまうのではないか、というためらいもあります。
 メディアの方からはよく、ヤングケアラーや若者ケアラーを紹介してほしいと言われるんですが、実際、公に語れる状態にまで至っていない人が多いんです。自分の話をすることで、「子どもに介護をさせて、親は何をしているのか」などと家族が非難されてしまうと思う人もいるし、話はしてもいいけれども、顔も名前も出さないでほしいという人もいます。


介護のために進学を断念…ケアにのめりこむ子どもたち

 

――日本ではこれから、医療保険介護保険がだんだん使いにくくなってきます。それと同時に「病院から在宅へ」ということで、いったん社会化された介護が家族の負担に戻ってくるという時代になってくる。そうすると、ヤングケアラーの問題は、ますます深刻になりそうですね。


澁谷 本当にそうだと思います。在宅介護では、家族が担い手ですと言われ、家族だから介護をするのはしょうがないという認識が共有されているなかで、とくに成長期にある子どもにとっては、どこまで介護したら危険なレベルになるのかという基準も作っていかないといけないと思うんです。それが今はない。
 どこからのサポートもなしに、子どもが2年以上ケアの責任を担うと、かなり深刻な影響が出るという研究報告もあります。「ケアを掘る」という言い方がいいのかわかりませんが、若ければ若いほど、より良いケアを目指してがむしゃらに頑張ってしまうところがあるように思います。


――具体的にはどんなふうに?


澁谷 例えば、嚥下障害のあるおばあちゃんの食事をとても細やかに作っていた若者にインタビューしたことがあります。レトルトの介護食を買ってきても、おばあちゃんは「このどろどろしたものは何?」と嫌がって食べてくれない。そこでおばあちゃんが子どものころ何を食べていたのかを調べて、郷土食を作ったそうです。高校生がおばあちゃんののどに詰まらないように、軟らかさを考えて食事を作るんです。
 この方は結局、高校を中退して介護に専念するようになったんですが、おばあちゃんが一度にたくさん食べられないので、1日4回ごはんを作っていました。もちろん、排泄介助や失敗しちゃったもののお掃除、夜中のケアなどもあるわけですが、さらに、おばあちゃんが満足するように、より行き届いたケアをしようとしていたところはあったように思います。
 また、20代の初めに、病院に泊まり込んで、3カ月間、集中的におじいちゃんのケアをしたという人もいました。病院にいるといろんな医療的知識も入ってくるので、拘縮を防ぐために手足や頸のリハビリをしたり、夜中に呼吸が止まるおじいちゃんをゆすって起こしたり、唾液や汗を拭いたり、とことんまで頑張ってしまう。目の前の介護をやるって決めたからには、それをやりきろう、と一生懸命になってしまうんです。


――自分のことを顧みずに頑張ってしまうんですね。


澁谷 そうなんです。家族介護の重要性が叫ばれるほど、これから社会を担っていく若い世代が十分な育ちを得られるようにしていくこと、ちゃんと社会とつながれるシステムを作っていくことが大切だと私は思います。ケアを担う子たちが自分の健康を損ねたり、精神的に病んでしまったり、自分自身の生活を経済的に支えられる見通しが立たなくなってしまったりすることが、現実問題として危惧(きぐ)されているので、そうしたことに対するサポートも含め、10年20年先を考えて、子どものケアの基準というものを提案していきたい。行政の責任で、これ以上は子どもがしていいケアではないという基準をきちんと作り、子どもの教育の機会と育ちが守られるようにしていかなければいけないと思うんです。


子どもの心身に深刻な影響を及ぼす可能性のある介護とは?

 

――ケアの基準の一つとして、先ほどおっしゃった「危険なレベル」のケアには、どんなものがあるのでしょうか。


澁谷 イギリスで言われている基準では、まず夜間の介護。子どもがケアのために夜中に起きるという状況ですね。それから、子どもが無理な姿勢で大人の体を抱え上げることなどもそうです。例えば車椅子への移乗などは、子ども自身が身体にかなり慢性的な損傷を負ってしまうことがあるので、危険だと言われています。あとは排泄介助、入浴介助のような、相手の肌を見てしまう介護も、子どもの感情面を考えた時に望ましくないとされています。
 ほかに、私自身が長年関わってきた範囲で言うと、子どもが担うにはふさわしくないレベルの通訳もあると思っています。例えば商品のクレームや、事故などの責任の所在の議論、不動産や借金関係の通訳ですね。子どもが本来だったら聞かなくてもいいことを聞き、しかもそれを判断して伝えなくてはいけないということなので、こういった局面からも子どもが守られていてほしいと強く思います。
 ケアに関わる子どもたちは、見えにくいけれども確実に存在しています。その子たちが心身ともに健やかでいられるようにするためには、まずヤングケアラーの定義や基準をしっかり決め、実態調査を進めること、そしてその次の段階として、当事者たちが体験を話し合うことができ、大人からのアドバイスを受けられる場をつくることが急務だと思っています。


――それにはさまざまな機関が連携し、子どもが孤立しない支援を地域の人たちと一緒に考えていくなど、行政の関わりも必要です。もちろん法整備も重要ですね。


澁谷 はい、そう思います。 

 

 

「学びの場.com」に掲載された2020年10月05日の記事です。

 

教育インタビュー

 

澁谷 智子
〜さまざまな事情を抱える子どもたち〜(前編)
「ヤングケアラー」の支援と教育

 

ヤングケアラー支援の現状

 

学びの場.com 日本で「ヤングケアラー」という言葉はどのように広まっていったのでしょうか。

 

澁谷智子(敬称略 以下、澁谷)「ヤングケアラー」はイギリスで生まれた言葉です。世界に先駆けてヤングケアラーの問題に取り組んできたイギリスでは、1980年代末からヤングケアラー調査や支援が行われてきました。

日本では2000年頃から研究者の間で少しずつ知られるようになりました。しかし、ある言葉の概念が理解されたり、当事者が「自分の体験を語るのにぴったりくる言葉だ」と思うまでには時間がかかります。ヤングケアラーも、2010年頃まではネットで検索してもほとんどヒットしませんでした。

「ヤングケアラー」という言葉が広まるきっかけをつくったのは、元ヤングケアラーであったAさんによる語りです。2013年、Aさんがケアラーズカフェの来訪者ノートに自らの介護体験を綴ったことから、Aさんの話が各方面に広まり、「ヤングケアラー」という言葉がテレビや新聞などでも取り上げられるようになりました。

 

学びの場.com 2013年以降、ヤングケアラーの支援づくりはどのように行われてきたのでしょうか。

 

澁谷 行政が支援体制をつくっていくには、まずヤングケアラーがどれくらいの数で存在しているのかを把握する必要があります。そこで、私もメンバーの一員である日本ケアラー連盟ヤングケアラープロジェクトが、ヤングケアラーの実態調査を開始。2015年以降、新潟県南魚沼市や神奈川県藤沢市で、公立小中学校の教員を対象にアンケート調査を行いました。


学びの場.com アンケート調査ではどのような結果が出ましたか。

 

澁谷 2015年に新潟県南魚沼市の公立小中学校26校の教員に行った調査では、271人が回答を寄せ、そのうちの4人に1人が、「これまでに教員としてかかわった児童生徒のなかで、家族のケアをしているのではないかと感じた子どもがいる」と答えています。

2016年に神奈川県藤沢市の公立小中学校55校の教員に行った調査では、回答者1098人のうち、48.6%が同様の回答を寄せました。

子どもがしているケアの内容でもっとも多かったのは、「家事」と「きょうだいの世話」でした。子どもの学校生活への影響においては、「欠席」「遅刻」が多かったです。

現在、埼玉県では公立・私立高校の2年生5万5千人を対象にヤングケアラー実態調査を実施しています。この結果が分析されれば、より詳細な実態が見えてくるでしょう。

 

学びの場.com 調査後の支援体制づくりはどのように行われましたか。

 

澁谷 教育委員会やスクールソーシャルワーカー、福祉保健部、子ども・若者育成支援センター、社会福祉協議会など、各機関と連携しながら、地域の支援策や体制づくりを進めています。日本にはヤングケアラーの支援を一手に引き受けられる団体がまだありませんが、地域の実状に応じて、「この内容なら子育て支援課」など、必要な支援一つひとつをどこなら引き受けられそうか検討し、割り振ることで、実質的なサポートはできるのではないかと思っています。

 

ヤングケアラー支援の方向性

 

学びの場.com 南魚沼市藤沢市の事例を受けて、今後他の地域がヤングケアラーの支援づくりを進めていこうとした時、どのような方向性で行っていけばよいのでしょうか。 

澁谷 ヤングケアラー支援の先進国であるイギリスの事例から、私が必要だと考えた支援の方向性は3つ。まず、子どもがケアについて安心して話せる相手と場所をつくることが必要です。イギリスのヤングケアラー支援で重要な役割をはたしているウィンチェスターでも、実態調査を受けてまずつくられたのが、定期的に集まってケアについて話せる場でした。

私のイメージでは、今の日本でその役割を担えるのは「子ども食堂」ではないかと考えています。大事なことは「ヤングケアラー」という名前を冠しているかどうかではなく、子どもが自分の足で歩いていけるところに、頼ったり相談したりできる大人がいることです。

子ども食堂は現在日本に3,000以上あります。子ども支援にかかわる人たちのなかで、ヤングケアラーかもしれない子どもの存在が認識できれば、必要な支援につなげられる可能性があります。たとえば、ヤングケアラーの子どもから「家では宿題ができない」といった相談があれば、子ども食堂の学習支援教室でサポートしたりできるでしょう。学校の先生につなげ、休み時間や放課後に、学校で宿題ができる時間と場所をつくってもらうこともできるかもしれません

 

学びの場.com 2つ目の支援の方向性を教えてください。

澁谷 家庭でヤングケアラーの担うケアの作業や責任を減らす必要があります。日本では、子どもが負ってはいけない負担の基準がまだなく、「これ以上やると成長の途中にある子どもにとっては危険かもしれない」というラインを引く人が誰もいない状態です。しかし、ヤングケアラーは「ケアラー」である前にまずは「子ども」であり、その責任や作業がその子どもの年齢や成長の度合いに合わない不適切なものになっていないのかを考慮する必要があります

意外と効果を発揮するのは、「ヤングケアラー」という言葉を大人が知ることです。親は、仕事と介護の両立でいっぱいいっぱいで、子どもの負担が大きくなり過ぎていることに気付けていないことがあります。日本では「家族が助け合うのはすばらしい」とヤングケアラーの問題が美談になりがちです。しかし、「子どもが年齢の割に大きな負担を背負っているのかもしれない」という気づきが家族の側に生まれると、今まで子どもが負っていたケアの負担量や内容への疑問が生まれ、外部の支援とつながる可能性があります。

 

学びの場.com 3つ目の支援の方向性を教えてください。

 

澁谷 ヤングケアラーについての社会の意識を高める必要があります。学齢期の子どもや若者、家族、教育関係者、福祉の専門職、医療関係者などが「ヤングケアラー」という言葉を知り、ヤングケアラーにはどんなサポートが必要なのか、またその地域ではどんなサポートが受けられるのかなどを知識として共有することで、よりヤングケアラー支援の体制が整いやすくなると思います。ヤングケアラーは小学校高学年くらいから増え始めるので、子ども向けに知識を伝えるツールも必要だと考えています。

 

学校現場で求められるヤングケアラー支援

 

学びの場.com 学校では、どのように支援体制づくりを行っていけばよいのでしょうか。

 

澁谷 学校のなかで、ヤングケアラー支援をシステム化する体制づくりが必要です。先生方も忙しく、ヤングケアラー以外の事情を抱えた子どもも大勢います。そのため、「なんらかのシステムがあって、ヤングケアラーの存在に気づいた先生はそこにつなげればいい」という風にしていくと、「ここまで自分がすればいい」という境界線がはっきりし、先生方もかかわりやすくなる部分があると思います。

南魚沼市の事例でいうと、教育委員会の指導主事の先生が教育相談として「子どもの問題なら何でも引き受ける」というワンストップの役割を引き受け、スクールソーシャルワーカーのケースワーク力を活用して、その問題から子どものSOSを発見するシステム作りを進めています。その一つとして、ヤングケアラーの存在の発見があり、支援につなげる試みを学校と共に行っています。

他の地域でも、「ヤングケアラーの問題について誰に話せばいいのか」を学校内で明確にすることをおすすめします。イギリスでは、そうした先生の名前と肩書きを生徒手帳や学校のホームページに載せるなど、生徒や保護者にも知ってもらっています。そのようにすれば、「自分はヤングケアラーかもしれない」と感じた子どももSOSが出しやすくなると思います。

 

学びの場.com 担任の先生など、子どもたちと一番近い距離で接している先生方へアドバイスをお願いします。

 

澁谷 多くの先生方は、「この子最近遅刻が多いな」「成績が下がってきているな」ということに気付いていると思います。その時に、守らなければならない秩序を守れていないことを罰するのではなく、「なぜそれができないんだろう」という視点をもち、話を聞いてあげることが大事です。「最近遅刻多いけれど、なにかあった?」という聞き方だけでも、子どもたちの反応は違ってきます

とはいえ、あまり大ごとになるのは怖いと子どもたちも思っています。その子にとっての日常や普通ができるかぎり脅かされないかたちで、でも必要なサポートや声がけがされているのが理想です。スーパーなどの宅配サービスの存在を知らずに、自転車で片道40分かけて買い物に行っていたというヤングケアラーの事例もあります。

最初のうちはケアをがんばっていても、長期化するうちにこれ以上は無理だと学校生活をあきらめていくヤングケアラーも少なくありません。でも、不登校が長期化する前に先生が気づいてあげられれば、必要な支援につなげられる可能性が高まります

子どものSOSを受け止めるうえで、学校の先生の存在は重要です。先生方も忙しいとは思いますが、子どもたちを見る時に「ヤングケアラーである可能性があるかもしれない」という視点を加えていただきたいなと思います。

 

自民党で始まった「こども庁」の議論はどこへ向かうのか分かりませんが、まずは子どもと日常的に接している大人が「ヤングケアラー」について知り、子どもの発するSOSを受け止められる存在になることですね。 

 

 

 

 

 

 

日本語探訪(その22) 慣用句「エンジンがかかる」

小学校3・4年生の教科書に登場する慣用句の第9回は「エンジンがかかる」です。

 

エンジンがかかる

 

 

「エンジンがかかる」の意味

本調子になる。調子が出る。(広辞苑

 

「エンジンがかかる」の使い方

「仕事にエンジンがかかる」 

 

「エンジンがかかる」の語源・由来と蘊蓄

「エンジンがかかる」の語源や由来は明確ではありませんが、自動車のエンジンがかかることに関係していそうです。

「廃車ドットcom」に掲載されているコラム「自動車エンジンの長い歴史:後編~エンジンの話(3)」に次のような文章があります。

○自動車のひとつの問題解決が大衆化を助長するように!


今となっては当たり前のエンジンの始動…鍵を入れて回す、あるいはスタートボタンを押すだけでエンジンがかかるようになっています。しかし、20世紀前半までは命がけの作業だったのだそうです。というのも、今のような自動スタートができず、クランク棒と呼ばれる棒を回してエンジンをかけなければなりませんでした。

 

クランク棒とは、エンジン内部のクランクシャフトに直接つながっている物で、内燃機エンジンの開発初期の頃にはエンジンを始動させるための大切なものでした。現在の内燃機型エンジンにもクランクシャフトは使用されていますが、クランク棒を回してエンジンを始動させるようなエンジン始動方法はありません。今では鍵(スタートキー)を回したり、スタートボタンを押したりする動作です。

 

内燃機エンジンの動作を一般的な4サイクルエンジンで、端的に説明すると、
① 吸入:ピストンが下がり、吸気バルブから燃料と空気の混合気を燃焼室に吸入
② 圧縮:クランクシャフトでピストンを押上げてシリンダー内部の混合気を圧縮
③ 燃焼:圧縮混合気に火花で点火。ピストンを燃焼の爆風で押下げクランクシャフトを回す
④ 排気:ピストンが上がり、排気バルブから燃焼ガスを排出
といったサイクルを連続して行う事で、クランクシャフトを回転させます。回転したクランクシャフトの連動により、1気筒内のピストンが2往復する間に1回の燃焼と1回の排気をします。それを複数の気筒で連続しておこなうことでエンジンは動いていますが、ではエンジン始動時に、① 吸入の段階でピストンを下げるためのクランクシャフト回転を得るにはどうしたら良いのでしょうか?
その最初の回転を、手動で回すクランク棒で、直接クランクシャフトを回転させて行っていたのです。しかし回すのにはコツが必要で、上手くいかないとエンジンがかかりませんでした。それどころか、棒が逆回転をすることで思わぬケガをすることも多いという問題がありました。最悪の場合は、命を落とす人までいたと言います。

 

今ではまったく考えられない話ですが、当時はそれが一つの大問題だったのです。

 

その問題に目を向け、解決しようと考えたのが、アメリカの高級車リンカーンやキャデラックを立ち上げた張本人、ヘンリー・マーティン・リーランドです。そして、その意思を受け、発明家のチャールズ・フランクリン・ケッタリングが電動モーターを使ったセルフスターターを開発します。

 

1912年にはその装置がキャデラックに装備されて販売、女性用のオプションとして大人気を博しました。その後は、当時大人気だったT型フォードにも1917年から装備されるようになり、命がけのエンジンスタートから解放されたのだそうです。

 

同時に、そのエンジン始動装置、セルモーターの発明により運転が大衆化、自動車普及の一因になったとされています。

 

日本の自動車生産が本格化するのは戦後のことです。

「エンジンがかかる」の語は、 クランク棒を回していた時代に誕生したのではないでしょうか。

EV(電気自動車)が当たり前の社会が間もなくやってきます。ガソリンエンジンがその役目を終えるころ、「エンジンがかかる」の比喩表現も「死語」になっているかもしれません。