教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

Repost: 教師入門④ ~歩き始めた先生たちへ~

2021年1月23日、ブログ「教育逍遙」は開設から満1年を迎えました。

この間、週5回の投稿を基本に265本の記事を公開してきました。

今は幾人もの方に読んでいただいていますが、開設当初はほとんど認知されることはありませんでした。その一方で、開設に至った「思い」は初期のブログに凝縮されていました。

開設から1年を機に、初期の記事を再掲し、これから教壇に立つ方や教壇に立ってまだ日の浅い方にお届けしたいと思います。

 

 

君ひとの子の師であれば

 

 ーー君ひとの子の師であれば
    とっくに それは ごぞんじだ
    あなたが 前に行くときに
    子どもも 前を向いて行く。
    ひとあし ひとあし 前へ行く。

 

あまりにも有名な、故・国分一太郎さんの1951年の著書『君ひとの子の師であれば』の巻頭のことばです。若い頃にこの本に出会って、最初のフレーズは何かの拍子に今も口を突いて出てきます。

しかし如何せん古い本だしなあと思っていたら、2012年に復刻版が出ていました。(初版は1951年に東洋書館から出て、1959年に新評論の新書になりました。私が持っているのは500円の新書です。いずれも絶版になっていましたが、2012年に新評論から復刻版が出ました。2420円といささか高価です。)

まあ今も需要があるようです。ならば、その本の中から「誕生日」という一文を紹介したいと思います。

 

  誕生日
……4月になったら、新しい受け持ちになった子どもたちの誕生日を、忘れずに記録しましょう。日記やポケット・ダイアリーの、それぞれの日付のところに、「だれそれ生まる」とかきこむのです。4月12日、佐藤健太郎生まる、5月3日、進藤ヒデ子生まる、5月25日、山田一郎、鈴木春子生まる、というように。妻や子どもや、きょうだいのあるひとは、それもいっしょに。
 そうして、どうするというのでしょうか。
 4月12日の朝、教室にはいる前に、かならず、その豆手帖をひらきましょう。
「おお!あのはずかしがりやの佐藤健太郎生まるか!」
 教室にはいって、朝のあいさつが終ったら、
「きょうは、佐藤健太郎君が、この世のなかに生まれた日ですね。佐藤健太郎君のいのちのはじまりの日ですね。みんなでお祝いしてあげましょう。さあ、おめでとう。手をうって。」
と、パチパチ、でこぼこ顔で、はずかしがりや、まともにこっちもむかれない、その佐藤健太郎を祝福してあげましょう。
 たとい、そのクラスでは、その月誕生の人びとのため、まとめて祝ってやる誕生会といったものが、自主的におこなわれていたとしても、その日はその日で、教師のまごころを、簡単に示してやりましょう。1、2年ぐらいなら、かねて用意の造花でも、その日生まれの子どもの胸には、その日いちにちさしてあげてもよいでしょう。
……
……これは、ひとりひとりのいのちを、かけがえのないものとしてだいじにする、わたくしたちの人間教育からいっても、たいせつなことだと思われます。日本国の象徴である天皇の誕生日を祝うことよりも、もっともっと、みぢかなことだと思われます。
 あなたはお気づきになっていませんか。
 4月はじめは、なんど、子どもの生年月日を、帳簿やカードや紙片にかきつけることでしょうか、……。
 ひとのいのちを、ことのほか大切にするわたくしたちは、こんな生年月日の数字をも、たんなる数字ではないとりあつかいをしたいと思います。
 まして、その子が、ガリレオやマダム・キュリーと同じ日の生まれだというようなときには、ガリレオキュリー夫人のお話をして、うんとはげましてやりましょう。

 

1951年と言えば、戦後すぐのころです。今とは何もかもが違いますが、子どもを育てるという営み、教師のありようなど本質的なことは不変です。「不易」と「流行」で言えばまさに「不易」中の「不易」の部分です。時代を超えた若い教師へのメッセージです。ご一読を。

 

普段持ち歩いている諸控えのノートでもいいです、スマホのカレンダーアプリでもいいです。新しく受け持つクラスが決まったら、一人ひとりの子どもの誕生日を書き込みましょう。

偉大な先輩に「まねぶ」(「真似ぶ」は「まなぶ」の語源とも)には、まず「真似る」ことから始めるのがいちばんです。

 

 

子どもの名前を呼ぶ時は「○○さん」?「○○ちゃん」?それとも呼び捨て?

 

あなたは、子どもの名前を呼ぶとき、どうしていますか?

 

子どもの名前の呼び方には、大別して3パターンあります。


①「○○さん」「○○くん」と呼ぶパターン

②「○○ちゃん」と呼ぶパターン

③呼び捨て

 

私は、基本的には①の「さん・くん」付けであるべきだし、授業中については絶対①でないといけないと思っています。

それは子どもの人格を認め、教師と子どもの間の適度な距離感と緊張感を担保するためです。授業が授業として成立するには、この適度な距離感と緊張感が必要なのです。

なお、男の子を「くん」と呼ぶか「さん」と呼ぶかは、地域や学校の事情に委ねたいと思います。さん付けに向かえばいいなと個人的には思いますが、職場でひとり突出しても詮無いことですので、ここでは議論しません。


②の「○○ちゃん」付けは、休み時間なんかであれば、子どもたちとの関係性の中であってもいいと思います。ただし、授業中はやめてもらいたいものです。たとえ低学年であってもです。私的にはだらしない授業に感じます。


③の子どもを呼び捨てにするのは、絶対ダメ。論外です。

呼び捨てで教師の威厳が保てると信じている教師もいるみたいです。逆に、呼び捨てにすることで子どもとの距離が近いと思っている教師もいるようです。そんなとんでもない勘違い教師が現実にいるのです。そんな御仁の人権感覚を疑いたくなります。

子どもは教師の従属者でもありませんし、友だちでもありません。


さらに、とりわけ最悪だと思うのは、②と③を混在させ、子どもによって使い分けるパターンです。

使い分けている「基準」は何でしょうか。

私は、そこに差別的な匂いを感じます。呼ばれ方で先生との親密さを感じている子がいるとすれば、同時にそのことを依怙贔屓だと感じている子もいることを知らなければなりません。

 

たかが呼び方、されど呼び方。1日に何回となく口にする言葉だからこそ、しっかり考えたいものです。

 

 

教室は「ジム」か「ホーム」か

 

子どもにとって教室は「ジム」でしょうか? 「ホーム」でしょうか?

 

「ジム」というのは“鍛える所”、「ホーム」というのは“ホッとできる所”という意味です。

 

教育の場では、学校を「ジム」に、そして家庭を「ホーム」に例えて、両者の役割や連携を語られることが多いです。

 

教室が「ジム」か「ホーム」かなんて自明の理、にも拘わらずかくの如き表題に至ったのにはワケがあります。

結論から言うと、現在の私は、子どもにとって教室は「ジム」であると同時に「ホーム」でもあると考えています。


いつの頃からか、家庭が子どもにとって必ずしもホッとできる場所ではなくなってきました。

親の前でいい子を演じる一方、学校で崩れてしまう子がいます。塾や習い事に追われ、学校が休憩場所になっている子がいます。さらには、親になりきれない親もいます。

最初は稀であったものが、今や珍しい事例ではなくなりました。

家庭と学校の役割と言うは易いが、親の価値観は学校第一で揃っているわけではありません。そうした時代の教室は、「ジム」と「ホーム」の両面を持つしかありません。

 

教室の「ジム」機能については述べるまでもありません。ここでは、「ホーム」としての教室を考えます。

 

「ホーム」としての教室を意識するようになって、私は、出勤するとできるだけ早く教室に行くようになりました。そして、夏場は窓を開けて涼しい空気を入れ、冬場は暖房を入れ電気を点けて子どもの登校を待ちます。教師用机のイスに座って本など読んでいるのが通常のパターンで、教室に入ってきた子どもに「おはよう」と声を掛け迎えます。…心がけて続けたのは、ただそれだけです。


子どもの頃、家に帰った時に明かりが灯っていた安心感、「ただいま」と言った時に「おかえり」と声が帰ってきた安心感を味わったことはないでしょうか。

私は、「おはよう」に「今日もよく来たな。おかえり」という気持ちを込めています。そこで何げない会話などで暫くの時間を過ごしながら、「ジム」に向かう態勢を整えているのです。

 

具体的なやり方は教師の数だけあってしかるべき。要は「ジム」だけの教室は子どもを追い込みかねないという問題意識を共有できるかどうかです。