教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

なぜ集団づくりなの

30年以上も前のことです。

教室の後ろから子どもを見ていると、前に立っている授業者には見えない世界が見えてくることがあります。


その日、3年生のクラスでは、算数の授業が行われていました。一通りの説明が終わって、練習問題になりました。しばしば見かける光景ですが、教科書や筆箱や自分の手で、できる限りノートを隠す女の子がいました。担任は黒板に問題を写し、何人かの子に前に出るように言いました。

--やがて、答え合わせになりました。

担任は黒板の解答を確かめ、赤チョークでマルを付けました。子どもたちは、それを見て自分のノートにマルを付けます。

次の問題も同じようにマルを付けます。

授業が終わって、担任は子どもたちにノートを提出させました。一人ひとりの出来具合を確認するためです。


ノートを隠しながら問題を解いていた女の子は、全問マルでした。


担任が黒板にマルを付け子どもたちの方をふり向いた時、彼女は赤鉛筆をもってみんなと同じようにマルを付けました。そして、担任が次の問題の解答のために黒板の方に向き直った瞬間、彼女は黒鉛筆に持ち替え答えを書き直しました。その次も、そのまた次も、そうしました。--それが、彼女の全問正解の真実でした。


私は、彼女の行為を咎めようとは思いません。しかし、悲しく思います。


彼女にノートを隠させたものは何でしょう。赤マルを付けた後にこっそり答えを書き換えさせたものは何でしょう。--それは、間違いなく、教師です。

 

私は、学級集団づくりについて考える時、いくつかの場面に混じって、決まって先のマル付けの場面を思い起こします。

私たち教師の仕事は、精一杯ノートを隠そうとする手を解き放ってやることではないでしょうか。「なぜ」「分からない」と呟かせてやることではないでしょうか。彼女が自分のできなさをオープンにできるようにするには、クラスにそれをできる空気が流れていなければなりません。その空気を作るのも、教師の仕事ではないでしょうか。


つまり、子どもたちが安心して自分を表出できる教室の空気を作ることが、一人ひとりの子どもの学びを保障する前提なのです。私は、「なぜ集団づくりなのか」と問われたら、「すべての子どもが安心して学べる教室にしたいからだ」と答えます。

 

 

やはり30年以上前のこと。


具体的な内容は個人情報を含みますので省略しますが、さまざまな事情を持つ子どもたちのことを話したときのことでした。
黙って聞いていた子どもたちの顔がゆがみました。

「わたし、びっくりした。ほんとにびっくりした。一人一人の家庭の中にこんなことがあるなんて考えもしなかった。みんな何くれぬ平気な顔でくるんだもの。きのうとかわらぬ顔でくるんだもの。」とある子は書きました。

「先生の話をきいていてなきたくなった。いつもならちゃんときいていないのに。すごく、なんていったらいいかわからないぐらい、すごくかなしくなった。なきたくなったけどなけなかった。すごくこの時間はよかった。」と別の子は書きました。

「今、先生が話してくれたので私の心はすっきりしました。」話に出てきた子の一人はそう書きました。

「ぼくはほっとしました。たぶん(話に出てきた)○○もほっとしたと思います。」と、やはり話に出てきた別の一人は書きました。

彼ら、彼女らは、自分の一番の“秘密”を内緒にしておきたいと思うのと同じくらいに、みんなに知ってほしいと思っているのです。言えるだけの条件がそろいさえすれば……。

それだけではありません。父親が行方不明でしずんでいる子に「ネグラ」という言葉をあびせていたというのです。

 

 

子どもは想像以上に深いところで“しんどさ”を背負って生きています。まわりの子がその彼においうちのパンチをくらわせていることさえあるのです。それは、「ひごろあそんだりしているぐらいでは、とてもわからな」(ある子の作文)いことです。

“なかま”とか“なかまづくり”という言葉を私たちは安易に使います。しかし、“なかま”とは何と語るに易しく育てるに難しい言葉でしょうか。


教師が、もちろん周りの子どもも、その子の重い「荷物」を肩代わりすることはできません。しかし、「彼ら、彼女らは、自分の一番の“秘密”を内緒にしておきたいと思うのと同じくらいに、みんなに知ってほしいと思っている」のです。ただし、これには「言えるだけの条件がそろいさえすれば」という「条件」が付きます。その「条件」とは、「話したことで不利益を被ることはない」「間違いなく受けとめてくれる」と思えることです。そんな関係を作るのが、教師の仕事です。


ことさらに、しんどいことを話す必要はありません。しかし、知らないがゆえに「まわりの子がその彼においうちのパンチをくらわせていることさえある」のです。これは、教師の無為の結果だと言えないでしょうか。


なぜ集団づくりなのか--それは、すべての子どもが安心して学べる教室にしたいからです。

「教室を子どもが安心して過ごせる場所に」と言う時、子ども丸ごとを包み込むための“守備範囲”は限りなく広いです。この広さが、集団づくりの奥深さになっているです。


どこまでが教師の仕事かという線引きは意味がありません。また、強要されることでもありません。ただただ、教師の「痛覚」の問題です。先の事例で「ネグラ」という言葉を耳にした時、我が心に痛みを感じるのかどうかです。