教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「7時間目」の人権学習① ~「人権」について考える~

「教科外活動等」におこなった、いわば「7時間目」の人権学習の記録です。

 

今回は、2014年の「人権週間」時の学級通信です。学年は6年生です。

 

 

人権週間特集

「人権」について考える(その1)


 1948年12月10日、国連(国際連合)総会において「世界人権宣言」が採択されました。国連では、毎年12月10日を人権デーとしていますが、日本では12月4日から10日までの1週間を「人権週間」と定め、さまざまな取り組みを行っています。
 私たちの教室では、「『人権』について考える」というテーマでお届けします。


人権って何


 Human Rights(ヒューマン・ライツ)という英語が「人権」と訳されて一般に使われたのは、明治になってからのことです。とても新しい日本語ですが、それでも100年以上の歴史があります。ところが、大人の人に「権利って何?」とたずねると、ほとんどの人が「うーん」と考え込んでしまいます。一度試してごらんなさい。


 Humanは「人・人間」という意味で、Rightは「権利」という意味です。「人の権利」なので「人権」と訳されたわけです。ここで注目したいのは、Rightの後にsが付いているということです。このsは複数形と言って、いくつもある時に使います。つまり、人権というのは、人が持っている権利の集まりです。


 どんな権利があるかは、国によっても時代によっても違います。日本でも、明治憲法では、権利はほとんど認められていませんでした。今の憲法では、20以上の条文で権利について書いています。


 「あったらいいな」というものと「なくては困る」というものがあります。いろんなものやことを2つのグループに分けたとき、「なくては困る」グループに入ることがらが、人権と関係が深いのです。


人間の“尊厳”とは?


 世界人権宣言の第1条には、「すべての人間は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」と書かれています。


 すべての人間(つまり、生まれた所や肌の色、国籍、老若男女、貧富、身体的特徴などに一切関係なく)は、生まれながらにして自由であり、かつ尊厳と権利について平等であるというのです。


 人間の“尊厳”とは何でしょうか。大人の人にたずねると、ほとんどの人が「うーん」と考え込んでしまいます。もう試すまでもありませんよ。


 人間の“尊厳”とは、「一人ひとりの人間がかけがえのない存在である」ということです。かけがえのない存在ということは、他の誰も代わりになれないということで、一人ひとりの生命の重さを指摘しているのです。


 時代がさかのぼりますが、江戸時代の終わりごろに起こった「渋染一揆」について考えてみましょう。ある一部の人たちに出された「別段御触書」は、その地域に生まれ育ったという理由で、服装や行動に関して農民たちと差をつけてさげすむ内容のものでした。ある地域に生まれ育ったという理由でさげすまれるというのは、世界人権宣言にあてはめて考えれば、その人たちを「すべての人間」から除外していることになります。さらに、雨の日の身なりや百姓と出会った時の行動のきまりは、とても一人ひとりの人間をかけがえのない存在として扱ったものとは言えません。人間の尊厳を著しく踏みにじった「御触書」です。「渋染一揆」は、傷つけられた人間の尊厳を取り戻すたたかいだったのです。人間の尊厳が踏みにじられることに対して許せないという思いは、「渋染」の時代の人もみなさんも共通のものだと思います。

 

 

人権週間特集
「人権」について考える(その2)


 憲法が定めている権利の一つに、教育を受ける権利があります。第26条「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」


 さて、憲法第26条は、「義務教育は、これを無償(むしょう)とする。」とも定めています。義務教育(小学校と中学校)は無償(ただ)なので、授業料がいらないのです。さらに小・中の教科書がただなのも、そのためです。


 今の憲法は1947年から使われていますが、教育を受ける権利を保障するために教科書がただになったのは、そのから15年も後のことでした。今回は、教科書がただになったいきさつを紹介しましょう。

 

  教科書は無償で--高知


 1961年(昭和36年)3月、高知市では、長浜の被差別部落を中心に教科書無償のたたかいが展開されている。
 長浜の被差別部落は、高知市の南、土佐湾にのぞむ半農半漁の部落だった。もともと耕地が少ないうえに、きわめて規模の小さい漁業であり、仕事らしい仕事はできなかった。母親たちの多くが失業対策の仕事に出て働いていた。
 3月になれば、子どもたちに教科書を用意してやらなくてはならない。古い教科書をゆずり受けて子どもに持たせるものがいる。金を借りてきて買いあたえるものもいる。高利貸しに金を借りているものは、たとえ1000円でもあとがつらい。
 部落の母親たちは話し合った。
「義務教育ちゅうのに、教科書くらいくれんものか。」
「そういえば、どっかに書いちゃるきに。」
 だれかが、子どもの教科書にのっている憲法のところをさがしてきた。たしかにある。第26条だ。「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う。義務教育は、これを無償とする。」--ほしいとか、ほしくないとかいうことではないのだ。
 母親たちは、話し合いの輪を広げ、学校の先生たち、近在の農村や漁村の人たちといっしょにたたかうこととし、「長浜教科書をタダにする会」を結成した。
「タダにする会」は、署名運動をつづけ、集会をひらき、いっしょにたたかう団体をふやし、高知市教育委員会にその要求をつきつけた。
「わしらは、新学期になっても、子どもに教科書は買いませんぜよ。」
「わしらの運動は、だれっちゃあからも、うしろ指をさされやせん運動じゃ。憲法には、ちゃんと無償と出ちゅう。」
「このたたかいは、わしらのいちばんだいじな憲法を守る運動ぞね。」
 教育委員会は、この要求にこたえた回答をなかなか出せなかった。だが、強い要求とたび重なる交渉に、4月の新学期までには教科書をわたすと確約した。高知市議会をはじめ、先生の組合もそれぞれこの運動を支持し、ともにすすめることを決議している。要求は、実現するようにみえた。
 ところが、新学期が始まる直前だった。高知市教育委員会は、これまでの約束をホゴにしてしまった。学校は始まる。徹夜(てつや)の交渉がくりかえされる。教育委員会の責任者は、姿をくらましてしまう。かわって市長が要求にこたえると約束するが、こんどは教育委員が総辞職してしまう。それをまって、市長は、教育行政の責任者がいないのでと、約束をまたホゴにしてしまう。              (つづく)

 

 

人権週間特集
「人権」について考える(その3)

 

  教科書は無償で--高知②


 学校では、ガリ版ずりのプリントで授業がつづけられた。教科書を買う子どもも、ぼつぼつ出はじめる。そのころになると、親たちのなかから、「国家こじきみたいなまねはやめろ。」「こんな運動は、部落のもののすることじや。」という声があがってくる。やがて、この人びとは、学校の授業にまで顔を出し、なにかと圧力をかける。「教科書をタダにする会」は、それらの人びとに対してもたたかわなくてはならなかった。
 子どもたちも、じっとしていなかった。
「おんしらぁ、どうして本をこうたかや。あれほどみんなでがんばろういうたじゃないか。」
「おんしらぁ、自分勝手じゃあ。びんぼうなうちの子は、どうなってもかまわんというのかや。」
 子どもたちのなかには、これまで教科書をそまつにあつかっていたものもいた。その子どもたちも、ガリ版ずりのプリントを、かかえるようにだいじに使って勉強した。
 たたかいは、5月にはいった。プリントの授業が始まって1か月あまりたったころ、全校生徒のほぼ4分の1が無償になった。要求は、まだ満たされていない。だが、これ以上プリントの授業はつづけられない。親も、子どもも、教師たちも、なみだをのんでこのたたかいをうちきった。
 この高知における教科書無償の運動は、つぎの年にもひきつづいてたたかわれた。読み書きのよくできない母親たちでさえ、「憲法第26条は…。」「憲法第14条は…。」と、口ごもりながらくりかえしおぼえ、そしてたたかってきた。
 全国の子どもたちの教材書はいま、無償になっている。無償をかちとった背景には、部落の人びとを中心としたこんなたたかいがあったのだ。

 

 たとえ憲法で保障された権利であっても、自分たちがしっかりと意識して守り育てる努力をしなければ、権利は実現しないものなのです。さらに、一度実現したからと言って、この先ずっと大丈夫というのではありません。教科書にしても、国の財政が厳しいから無償をやめようという意見が毎年のように出されているのです。


 子どもの権利条約というのがあって、そこには子どもの権利に関する世界の約束が書かれています。一部を、子どもたちが訳した言葉で紹介します。


○第12条 ぼくらだって、言いたいことがある
   赤ちゃんのうちは無理かも知れないけど、少し大きくなったら、自分に関係ある全てのことについて、いろんな意見、思い、考えを持つ。それはみんな、どんどんほかの人に伝えていいんだ。国は、大人たちがぼくらの年や成長をしっかり考えて、きちんと受け止めるように、してほしい。


○第13条 どうやって伝えてもいいんだ
   ぼくら子どもが、何かを考えたり、感じたりして、それを他の人に伝えたいなら、どんな方法で伝えてもいいんだ。しゃべってもいい。歌ってもいい。紙に書いてもいい。印刷でもいい。絵にしたり、ものを作ってもいい。その他、数え切れないくらいいっぱい方法はあるけど、一応それ全部いい。
   だけど、“やっていいこと”には限界もある。その限界は、法律で決まっている。他の人の“やっていいこと”のじゃまになったり、人をわけもなく悪者にしたり、国の安全やみんなの心や体に悪かったりする伝え方はできない。


○第15条 グループを作ってみてもいい
   ぼくらはみんなで集まったり、グループを作ったりして、何かしたり、いろんな意見を言い合ったりしていいんだ。それはみんなが仲良く暮らせる社会にとって、一番大事なことだからね。
   んで、やっぱり、他の人の“やっていいこと”のじゃまをしたり、人をわけもなく悪者にしたり、国の安全やみんなの心や体に悪かったりすることは、やっちゃいけないけど、それを決めることができるのは法律だけなんだ。それ以外の誰にも文句は言わせない。


○第16条 なんしろ、ひみつは知られたくないなあ
   自分のことや家族の暮らし、住んでいる家、手紙や電話なんかを、勝手にのぞかれたり、ぬすみ聞きされたり、わけもなくあーだこーだ悪口言われたり、人間としての誇りを傷つけられたり、ということは許されない。子どもだって、ひみつにしたいことは、ひみつにしていんだからね。
   だからぼくらは、そういうことが起きないように、法律で護ってもらえる

 

 

人権週間特集
  「人権」について考える(その4)


【みんなでやってみよう】
 下の表にある〔A〕の権利は、イギリスにおいて認められている権利です。
①〔A〕の権利を何歳になれば認めればよいでしょう。あなたの考えを〔B〕欄に書きましょう。
②〔A〕の権利を認めてよい年齢をグループで相談して、グループの決定を〔C〕欄に書きましょう。
③〔A〕の権利を認めている年齢を言います。正解を〔D〕欄に書きましょう。グループでもう一度話し合いましょう。
④青少年に権利を認める年齢(〔D〕欄)が現実にあったものであるか、あるいは、もっと年齢を引き下げるべきか、引き上げるべきかなどについて、グループで話し合い〔E〕欄に書きましょう。
⑤〔A〕の権利を得るために大切な5つの責任のリストについてグループで話し合い、〔F〕欄に書きましょう。

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権利と責任


 人権を尊重するというのは、「私自身が、(私以外の)他人から“されたくないこと”は、私も、他人にしないこと」です。「権利を主張すること」は、同時に「社会的責任を負う」ことです。自分自身が人間として尊重されたいと願うならば、同じように、自分以外の全ての人を人間として尊重しなければなりません。自らの権利を主張する者は、他人の権利を重んじなければなりませんし、自らの自由を主張する者は、他人の自由に深い敬意を払わなければなりません。それは、全ての人間が平等であることを確認することであり、それによって、はじめて社会のメンバー相互の理解と好意と信頼が生まれてくるといってよいでしょう。


 前号で紹介した「子どもの権利条約」の第13条で、「子どもは、自由な方法でいろいろな情報や考えを伝える権利、知る権利を持っています。ただし、ほかの人に迷惑をかけてはなりません。」としているのは、自由と勝手きままの違いを指摘しているのです。