教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「自分が付き合う人ぐらい自分で決めるから」~忘れ得ぬ子のこと③~

教師という仕事をしばらく続けていると、いつしか知らず知らずのうちに「能力主義」に絡め取られていきます。「能力主義」というのは、平たく言うと「できる・できない」という価値基準で 子どもを見てしまうことです。

 

能力主義の「垢」にまみれかけていた頃、教師になって9年目のことです。

 

私は3年生になったよしえ(仮名)さんの担任になりました。

よしえさんには、重度の情緒障害がありました。

障害児学級に在籍していましたが、共に育つ教育を模索していましたので基本的に交流学級で過ごしていました。

 

一緒に過ごすことで、集団が育ちます。こんなことがありました。当時の記録です。

 

 運動会の練習も最後の仕上げの段階にさしかかった頃のことである。学年でダンスをするのだが、どうもピリッとしない。1人の教師がこう言って“説教”した。

「みんなは1つのりんごや。1人でも勝手なことをしたり、ちゃんとしない子がいたら、そこの所だけ虫食いか、かぶりかけになる。みんなが1つになったときに、きれいなりんごになるねんで。」

 次の日、ぼくはクラスの子どもに言った。

「よしえちゃんはみんなのようにちゃんとおどれないよな。あれは虫食いやな。なんぼみんながきちんとしても、きれいなりんごにはならないで。よしえちゃんがいなかったらきれいなりんごになるのとちがうか。」

 子どもを試すつもりで言ってみたのだが、子どもから返ってきた言葉はぼくを超えていた。

「よしえちゃんいなかったら、りんごにならないやんか。」

 

つまらないことを口にしてしまったと、冷や汗が出ました。

 

 痛快な話を1つ。

「よしえちゃん当番」をめぐる“真剣な”話し合いが続いていた時のできごと。

ぼくは『兎の眼』を読み聞かせ、「みなこ当番」の問題を出していった。

 

説明を挟みます。

よしえさんのクラスで、ちょっとした「事件」がありました。よしえさんは一人で教室移動ができません。ある日の音楽の時間、よしえさんは置いてけぼりにされてしまいました。

灰谷健次郎の『兎の眼』に、障害を持つみなこをクラスの子たちが当番を決めて世話する「みなこ当番」の話が出てきます。ある子が、自分たちのクラスでも「よしえちゃん当番」を作ってはどうかと書いてきました。それを受けて、話し合いがもたれたのです。

 

そうするとクラスの大部分の子が「よしえちゃん当番」をつくることに賛成し、わずか4人だけが反対した。


「わたしは、よしえちゃんとうばんがあったら自分がほかのことあそびたかってもよしえちゃんをほっとけないから、わたしははんたいしました。わたしはぜったいはんたいです。-以下略-」(A子)


「わたしはやっぱりはんたいです。なぜかというと、じぶんがあそびたいばかり、よしえちゃんのことわすれると思うから。だって今はやるといってだんだんやらなくなってくると思うし、よしえちゃんをあまやかすかんじするから。」(B子)


「わたしはよしえちゃん当番はんたいです。なぜかというと、よしえちゃんに本をよんであげようと思っても、よしえちゃん当番の人がやってしまう。そうなったらきまった人しかできない。そしたらよしえちゃんはまいにち2人しかあそんでくれないし、みんなもまい日本をよんであげようとしたら、『あんた、よしえちゃんとう番か。』といわれたらどんな気もちかなあと思います。よしえちゃんも2人しかかまってもらわなかったらいらん気もちになると思います。-以下略-」(C子)


「わたしはよしえちゃんとうばんをつくるのははんたいです。そのりゆうは休み時間にあそびたいなあとおもったときにあそべなくていやなおもいになって、こんどとうばんになった時いやでもういらんなあとおもったりします。だからはんたいです。みんなとうばんをつくったらいいというけどそんなんやったらよしえちゃんだけをむししといて、とうばんの人だけむししていないのでつくってもおなじとおもいます。よしえちゃんでもたくさんの人とあそびたいとおもうので……-以下略-」(D子)


ところが、反対意見を読んだ途端に今度は「当番」反対が22人に増え、賛成は7人になってしまった。もとより数の問題ではなく、自分のあり様を問うていくことが目的である。

6月11日、自主公開授業での討論会となった。

その時間はいつも以上に迫力のある話し合いになった。双方が譲らす激論になっている時、D子さんが静かに言った。「なぜよしえちゃんと遊ぼうという気持ちにならないのですか」と。

結局、みんなの思いは「当番」の是非ではなく、どうすればあたり前のつき合いができるようになるかを考え合っているのだということを確認して、授業は終わった。

その後も話し合いを続け、最終的には、「当番」は作らないことになった。「当番」の提案者A君は、「D子さんに勝てないのなら、D子さんに近づこう」と書いた。そして、自分にできるところから1歩を踏み出そうということを確かめ合った。

 

そんな話し合い期間のある日のこと。

 

 話に行き詰まってくるとなおみちゃんに判断を仰ぎに行く子がいる。

「よしえちゃん、当番するのとしないのとどっちがいい?」

「しないの。」

「当番しないのとするのとどっちがいい?」

「するの。」

 何のことはない。大抵の場合、後で言った方を答えるのだ。時には、「どっちがいい。」などという返事が返ってきたりする。すかさず声が飛ぶ。「大体よしえちゃんに当番という言葉の意味がわかるの。」そう言われて、それもそうやなあ、本人に聞いてもしゃあないなあということになって、また話し合いが続いていく。

 ところが、よしえちゃんはちゃんと話し合いに参加していて意見も言ってるんだよね。ぼくのクラスでは、男の子と女の子が机を並べて座っている。よしえちゃんの隣りは、当然のことながらいつも男の子。隣りに座っている子が気に入りだとわりとじっと座っているのだけど、そうでない時にはしばしば椅子を持って好きな女の子の所へ引っ越しをしていく。あいつまたふられよったなどと思いながらぼくなんかは見ているんだけど、これが「当番」に対する彼女の意思表示なんですね。彼女、みんなのようにしゃべれたら、こう言うんでしょうね。

「自分が付き合う人ぐらい自分で決めるから、そんなことまで構わんといて。」

 周りが真剣にやってるだけに痛快ですね。でも、ぼくは笑ってられないんです。よしえちゃんの声を聞き取れなかった1人だから。

 

 自己表現は言葉か文字で行うものなどという固定観念にがんじがらめになっている自分がいます。

「きちんと話しなさい」

「わかるように書きなさい」

私たちは教育の名において、子どもに窮屈で生きにくい世界を強いているのかもしれません。少なくともできるようになるまではできないのだから、いまできるやり方で伝えればいいのです。大事なのはそれを「聞き取る耳」です。

 

  憎らしい話を1つ。

 よしえちゃんという子は結構賢い。おもしろくない教室を抜け出すにはどうすればいいかということをちゃんと知っている。

 授業中に「おしっこ。」と言うと、ところかまわずされても困るからトイレヘ連れて行く。彼女はそれを巧みに利用して、「おしっこ」を連発するようになった。教室を出た途端にうれしそうな顔をして飛び回る。あっ、だまされたなと思ったときには手遅れ。結局彼女の大好きな散歩に付き合うことになる。

 しかし、こっちも経験を積めばそう簡単にその手にはのらない。「おしっこ」と言うと、「おしっこあるの、ないの。」「ほんとか、うそか。」などと聞き返す。すると、彼女は正直に答えてしまう。そういうパターンがここ1年あまり続いていた。

 ところが、つい最近のこと。

「おしっこ。」と言うから念を押してみると本当だと言う。それならということでトイレヘ行ってみると、「おしっこない。」だって。人を馬鹿にしやがって憎たらしいやつやなあ。こいつも経験を積んで賢くなりやがったなあと思うと、真面目な顔をしてトイレヘ付いて来た自分がおかしくなって、自然と笑えてきちゃうんですよね。

 

「きょうも学校へ来てくれてありがとう」

「1つでも2つでも、来て良かったと思ってくれたら儲けもの」

子ども観の転換、教育観の転換。そうしたものの「コペルニクス的転換」が私の中で起こっていました。