教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

障害児の表記あれこれ

障害児の表記をめぐるあれこれというのが今回のテーマです。

 

障害児、「障害」児、「障害児」、障がい児、しょうがい児、障碍児、障害のある児童、障害を持っている児童、障害を持たされた児童、障害を背負わされた児童、ハンデ(ハンデキャップ)のある児童、…これらはいずれも私が教育の場で目にした障害児を指す表記です。


障害は、しばしば差別の対象にされてきました。また、「ガイジ」に代表されるように、「障害」という言葉自体にも差別の臭いが漂っていました。日本語の「障害児」は広く認知された一般名詞であると同時に、時として差別語にもなり得ました。広く認知された一般名詞というのは代替語が定着しにくく、苦肉の策として多くの表記が誕生したのだと考えられます。

 

人権教育においては、「障害」児・「障害児」と「 」を付けることが多くありました。1980年代半ばごろのことです。


障害児は健常児と対をなす言葉で、児童を2つの異集団に分断するように感じます。どちらも児童であって、その中にはその子の一部分として障害のある子もいるーー「障害」児は、そうした障害者観に依拠する言葉です。


健常者と言われる人も事故や病気で障害者になることもあります。老いに起因する障害となると、何人(なんぴと)も避けがたいでしょう。それどころか、誰もが「ちょっと変わったところ」や「けったいなところ」を持つ存在であるのです。「障害児」には、障害児といえども決して特別な存在ではないという色合いが強いです。

 

障がい児・しょうがい児・障碍児は、「害」という漢字を外すという共通点があります。「障」と「しょう」は、「さしさわり」=不自由さへの意識の違いだと思われます。

 

「障害」児・「障害児」が障害をどう捉えるかという視点からのアプローチであるのに対して、「害」という漢字を外す試みは障害児と周りとの関係性(差別性)からのアプローチと言えます。

差別性の問題は、「障害」という言葉そのものが内包する問題です。

李鐘成さんの指摘を紹介します。

 

障害者の害の字は変である
「害」ではなく『碍』がいいと考える


李鐘成


私たち障碍者は、日本国の条文では障害の(がい)が「害」する(がい)と記されている。
私はとても変に感じています。私たち障碍者は生活するうえで「バリア」があるのに対して、危害の「害」の扱いであったり、危険的な扱いであったりとの考えのようです。
私は日本の山口県で生まれた3世の在日朝鮮人(韓国)です。1歳半の頃高熱を上げてポリオになり、1種1級の障碍者です。私の家はとても貧しく生活してきました。
現在は自立生活センター・ドリームハート博多の代表をしています。私にとっていろんな思いがあります。日本で生まれていなければ障碍者になっていなかったかもしれないとか、いろいろ悩み苦しんできました。朝鮮人と差別され、障害者と差別的にされてきました。「くさい」「きたない」だのと、言われながら生きてもきました。
そんな中で障碍者の苦しみは十分理解していない、『害』の字は許しがたいと考えています。
また、韓国では障碍者を『チャンエジャ』と発音します。そして漢字で書くときは『障碍者』と書きます。それはいろんな歴史も関係しています。

 

それでは、なぜ日本では「障害者」なのか、辞書で碍と害の意味を調べてみると、

:物事のじゃまをする・さまたげられる。また、そのこと。さしつかえ。「碍」は「礙」の俗字です。

:悪い状態にする。がいする。そこなう。災難。また悪い結果・影響。がい。殺す。がいする。

ということです。

 

次に、広辞苑で「しょうがい」を調べてみると、
しょう―がい【障害・障碍】シヤウ
(1)さわり。さまたげ。じゃま。「~を乗りこえる」
(2)身体器官に何らかのさわりがあって機能を果さないこと。「言語~」
(3)障害競走・障害物競走の略。

 

このように、元は「妨げとなるもの」の意味があり、そこから「身体器官への妨げ」の意味に発展したものであると考えられます。


実は、戦前まで日本では「しょうがい」を「障碍」や「障礙」と書いていました。しかし、戦後現代国語を書き表すため、日常使用する漢字の範囲を政府が告示した当用漢字と定めた1858字の中に「碍(礙)」という字は入りませんでした。
入らなかった理由として考えられるのが、「障」と「碍(礙)」が共に「さしつかえる」という意味の単語であり、共に、「何かを行うときに差し支えること」を指す時に使うからのようです。

たぶん、ここに原因があると思います。これにより、二つ重なってしまった自動詞のうち「碍(礙)」が当用漢字から外れてしまい、「碍(礙)」と同じ発音の「害」に置き換えられた(当て字として使われた)との説があります。
ちなみに、
「碍」の本来の意味は「何かしたくてもできない状態」の意味合いだそうです。
「害」とはものごとを「傷つける」という他動詞的な漢字であり、他に対して危害を与えることであります。


実は「障碍者」の碍の字を使っているところは私たちだけかなぁと思っていましたが、近年、「害」の字はおかしい!と声を挙げる方々が多くなり、「障碍者」、もしくは「障がい者」でいこうと言う声がたくさん聴こえてきています。
障碍者は、障害者ですか? 障碍者はだれかを傷つけていますか? 危害を与えていますか?
私は聴きたい。「碍」と「害」が同じ発音だからと言って、障碍者を障害者と置き換えた人たち(国)はどんな気持ちで置き換えたのか…。
私たちはモノや障害物ではありません。一人の人間です。人間は「害」では無いはずです。
こういうさまざまな意味合いから、自立生活センター・ドリームハート博多では、「障碍」として「碍」の字を使うようになりました。
(イ・ジョンソン 自立生活センター・ドリームハート博多)

       「ノーマライゼーション 障害者の福祉」 2006年3月号

 

 李鐘成さんの指摘通りとするなら、「害」をかな表記することよりも、「障碍」を正式表記として改めるように求めるべきだと思います。

 

障害のある児童・障害を持っている児童・障害を持たされた児童・障害を背負わされた児童などの表記は、「 」を付ける発想に近いものです。

「ある」「持っている」は能動態で、「持たされた」「背負わされた」は受動態です。障害のあるなしは本人の責任の及ぶところではないというのが受動態の根拠です。

しかし、どうでしょう。「持たされた」「背負わされた」は、持っている(背負っている)荷物がいかにも重い感じがしないでしょうか。障害観に関わる部分です。


一方、ハンデ(ハンデキャップ)のある児童というのは、「害」という漢字を外す発想に近いものです。外来語の響きはスマートに聞こえますが、「ハンデキャップ」の訳語が「障害」であれば、この言い換えにはさほど意味がありません。

 

 

いっそのこと「障害者」という呼称を別の言葉に代えてしまおうという主張もあります。次に紹介する投稿もその一つです。 

 

「障害者」の呼称を「要助者」に


勤務医 奥谷珠美(岡山県47)


 リハビリテーション科の医師として、高齢者や障害者の方々と日々過ごしています。「障害者」という呼称について、以前から違和感を感じていました。8日の乙武洋匡さんへの本紙インタビュー「多様性って何だ? 快も不快も分かち合う」を読み、英語の「スペシャルニーズを持つ人」に倣って、「障害者」という呼び方を「要助者」に変更してはどうかと考えました。
 要助者とは、助けを要する人という意味です。要助者の前にそれぞれ性を表します。例えば、身体が不自由な方は「身体要助者」、心の病気を抱える方は「心要助者」、高齢のため介護が必要な人は「高齢要助者」、子育てに悩む人は「子育て要助者」、経済的問題を抱える人は「経済要助者」、孤独を感じる人は「孤独要助者」など……。
 生まれてから死ぬまで、誰の助けも借りず、完全に自立して生きていける人はいません。自分が抱える問題をわかりやすく表現し、他人が抱える問題を理解することで、健常者と障害者、支援者と被支援者を隔てる壁がなくなり、お互いが助け合える社会を築けたらいいと思います。

                「朝日新聞」2020.1.19 「声」欄

 

「障害者」という言葉が差別的な垢にまみれていることから、別の新たな呼称を模索するのは評価されるべき提言だと思います。かつて差別語でもあった「らい」の呼称が公式に「ハンセン病」と改められた歴史を思えば、だいじな一歩です。

ところが、たとえば「要助者」が正式な呼称になれば、それがまた新たな差別的な言葉として使われることはないでしょうか。

要するに、本質的には意識の問題なのです。

「障害者」への差別的なまなざしを取り除きつつ、その精神風土に見合った呼称・表記を考え続けるしかありません。