教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

障害児教育の系譜 ~特殊教育の時代~

日本の障害児教育の歴史を俯瞰すると、学制開始から2006年までの「特殊教育」の時代と2007年以降の「特別支援教育」の時代に分けることができます。

 

今日の特別支援教育を考えるために、まずは特殊教育の時代を振り返っておきましょう。

 

文部科学省の「学制百二十年史」に次の記述があります。

 

第六節 特殊教育


特殊教育の創始


 「学制」では欧米の障害児学校の存在を模して、小学の種類として「其外廃人学校アルヘシ」と特殊教育について初めて規定したが、その実施は見なかった。


 我が国最初の特殊教育の学校は、明治十一年五月、京都府上京第十九番小学教員古河太四郎の指導により開設された盲唖(あ)院であり、次いで中村正直・山尾庸三らの組織した楽善会が十三年一月東京に訓盲院を設置した。京都の盲唖院は二十二年市立盲唖院に、東京の訓盲院は、十七年聾(ろう)唖児童をも対象にして訓盲唖院と改称し、十八年十一月文部省直轄学校となった後二十年十月東京盲唖学校に改組された。


 これらの官公立学校の設立に促されて、障害者事業関係者を中心として特殊教育学校の法制化を求める機運が高まってきた。これにこたえて文部省は、二十三年の第二次小学校令において幼稚園・図書館などとともに「盲唖学校」を小学校に準ずる学校としてその設置・廃止などに関して規定した。ここに盲唖教育の法制上の準則が与えられることになった。三十三年の第三次小学校令は義務就学規定を明確化したが、その際障害児には就学の義務を免除又は猶予すると規定した。これは、就学義務を免除・猶予された児童への教育をいかに保障するかという新しい課題を提起することになった。

 

特殊教育の実質的な始まりは明治11年、西暦では1878年です。そこから2006年の学校教育法等の一部改正までのおよそ130年間が特殊教育の時代になります。

1947年に教育基本法・学校教育法が公布され、盲学校・聾学校への就学が義務制になります。しかし、教育措置としての就学免除・就学猶予が原則として廃止されるのは、1979年の養護学校義務化以降です。

 

「特殊教育」の時代の障害児教育は、原則として分離教育でした。そして、障害の治療、すなわち障害を克服あるいは軽減することが障害児教育の第一の目的でした。

 

私が教職に就いたのは養護学校義務化の前年で、普通学校に特殊学級が相当数設置されたあとでした。私の地域では「特殊教育」「特殊学級」という語は使われておらず、「障害児教育」「障害児学級」の語が一般的でした。

 

私は「特殊・・」に差別的なにおいをずっと感じてきました。「特殊」にマイナスのイメージがつきまとっていたのが原因です。

しかしながら、イメージは後からついたもので、命名した文部省に特段の意図も意識もなかったのだろうと思うできごとがありました。

つい最近のことです。BSで駅弁を扱った番組をしていました。

明治時代、長距離列車が運行されるようになって駅弁が登場します。さらに、毎度同じ弁当では…と、ご当地弁当が出てきます。そして、この幕の内弁当のことを「普通弁当」と呼び、いわゆるご当地弁当を「特殊弁当」と呼んだそうです。

「特殊」には「普通とは違う」「特別な」という意味合いはありますが、それは別にプラス・マイナスの価値観を伴ったものではなかったようです。乗用車を「普通自動車」と呼び、消防車などを「特殊自動車」と呼ぶのも同様です。

「特殊教育」ではなく「障害児教育」の語が一般的になった地域では、私と同じような嗅覚が働いていたのかもしれません。

 

 

日本で特殊教育の環境が整備されていた頃、デンマークではバンク・ミッケルソンによるノーマライゼーションの考え方が出され、「普通の人々と同じ条件、同じ機会を与えられた生活を営むこと」「信頼できる個人的サービスを受け、安全な環境の中で生活を営むこと」などの理念が定められます。

さらに、スウェーデンでは、インテグレーションの実現が始まります。

1971年の第26回国連総会では「知的障害者の権利宣言」が採択され、その4年後の1975年の第30回国連総会では「障害者の権利宣言」が採択されました。

世界的には、障害児教育の目的が障害の治療だけでなく、普通の人と同じように生活を楽しむ権利を認めようとする動きが広がっていきました。

 

 

世界のうねりが、日本の特殊教育を根幹から変えることはありませんでした。

しかし、「点」としての変化はありました。

1975年には東京と埼玉で5名の盲の子どもが小学校の通常の学級に入学します。

こうした「点」の動きは「障害児を普通学校へ全国連絡会」のような民間団体で結ばれることはありましたが、文部省の制度に抗いながらの取り組みでした。

私は1986年に全盲のを受け入れている東京の小学校を訪問しました。そこでは普通学級の担任教師が一人いるだけで、全盲の子はボランティア団体の支援による教具や点訳を活用して授業を受けていました。

また、1979年からは大阪府下の一部では統合教育の試みが始まります。大阪での取り組みは「現学級保障」と呼ばれるもので、障害児学級と普通学級の両方に在籍し(二重学籍)、障害児学級担任の支援を受けながら普通学級で学ぶというスタイルをとっていました。私は豊中市内の小学校を訪問して参観させてもらいました。

 

 

インテグレーションの日本語訳が「統合教育」です。

統合教育とは、障害をもつ児童を通常の学級で一般の児童とともに教育することを言います。

大阪の「現学級保障」は、「学籍」を伴う公認の統合教育です。私の職場では、障害児学級在籍のまま普通学級でともに学ぶという「統合教育」を模索していました。1980年代のことです。

 

「統合教育」はごく一部のことで、全国的には「交流学習」というのが共に過ごす場でした。これはもう千差万別で、朝の会と帰りの会の時間だけ交流学級で過ごす、学級会の時間だけ一緒といった「交流学習」もありました。それでも年々交流の時間と内容が増える方向に推移していったことは確かです。

 

しかし、…。

繰り返し述べておきます。

「特殊教育」の時代の障害児教育は、一貫して原則分離の教育であったと。