教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

オンライン授業への期待と危惧と

コロナ禍休校を機に、オンライン授業に視線が集まるようになりました。

 

マスコミが決まって取り上げたのは、ハード面の充実度とオンライン授業の実施度です。いずれも割合が高いほど「進んでいる」、低いほど「遅れている」という「評価」を伴ったコメントがついていました。

 

すべての子どもがパソコンやタブレット端末で受講できる環境が整備され、すべての学校がオンラインで授業を配信することが、それほど「進んでいる」ことなのでしょうか?

 

 

私は、短期的評価と長期的評価の2つの視点がいると思います。

 

 

まず短期的、つまり今般のコロナ禍休校におけるオンライン授業について考えます。

 

一部の私学や大学の附属校を除いて、公立校のほとんどのオンライン授業は意味がなかったと私は感じています。

唐突で、泥縄的で、未経験で…教師の側から言い訳する言葉はいっぱいあるでしょう。しかし、子どもに届けられたものはあまりにも稚拙で、とても「授業」と呼べるような代物ではなかったようです。再びしかし、そうした結果は容易に予想できたことであり、責任は専ら配信を迫った人たちにあると私は考えています。

兎にも角にも配信はされたものの、とりわけ小さい学年の子はあまり見ていなかったようです。見たとしても、内容を理解できた子はほんの一部。結局、学校再開後に再度授業で取り上げることになったと聞き及びます。しかし、それもまた容易に予想できたことでした。

 

校種や発達段階を考慮することなくオンライン配信を迫り、あるいは煽った教育行政やマスコミには、深く反省を求めたいと思います。先生たちがそのために費やした時間を再開後に向けた準備に集中できていたら、もっといいリスタートができていたろうにと思うと残念でなりません。

 

この先コロナ禍の第2波、第3波があることを覚悟しなければなりません。仮に再び休校になったとしたら、「当然オンライン授業」という空気が社会の共通理解になってしまっているように思います。

しかし、小学校においては、それもとりわけ低学年においては、極力慎重であるべきだと思います。

もし導入するにしても、かつてのNHK教育番組のような完成された(=子どもに伝わる)ものを配信すべきです。お金で解決できる部分は、教育行政がその責を果たすべきです。先生の仕事は、完成された配信でも届かない子のフォローにこそあると思います。

 

 

長期的、つまりICT環境が整備された後のオンライン授業については、期待もあれば危惧もあります。

 

コロナ禍休校中のマスコミ報道の中で、「不登校の子のオンラインでの授業参加の可能性」「自閉症スペクトラムの傾向がある子などのオンライン学習による意欲の高まり」という視点は注目に値するものでした。

もう1つ、学校再開後にテレビが報じた某大学附属小学校の授業ーー教室にいる半数の子とあと半数の在宅の子が共に参加するリモート授業ーーの様子も注目に値するものでした。

双方向通信の環境が整っていてすべての子が安心して受信できるという条件付きであれば、在宅での「遠隔参加」はかなり有意だと思います。「遠隔参加」が「圧力」になっては何にもなりませんが、授業参加の選択肢として提供されるのであれば、それによって解放される子があるはずです。

不登校に関しては、一斉登校、同一カリキュラムの限界と指摘する論調もありました。学校制度の根幹に関わる問題です。現行制度の中で働いてきた者の一人としては、この種の議論には俄かには加わることはできません。

 

そうした期待の一方で気がかりなのは、授業の「質」です。それも、先生たちが一定程度のリモート授業スキルを身につけたあとの授業の「質」です。

知識を「伝達」することが主の授業は比較的ウマくいくのではないかと思います。

私が危惧するのは、心に揺さぶりをかけながら主題に迫る文学の読みの授業(一部の道徳の授業も含まれるかもしれません)、試行錯誤の摺り合わせの中から定理や公式を「発見」する算数の授業などです。

こうした授業は、適度に張り詰めた空気と緊張関係の中で成立するものです。私は、教師と子どもの「真剣勝負」の時間と位置づけてきました。授業は「生もの」です。私は教室という囲まれた空間の中で空気を感じ、表情を読み、勝負を仕掛けてきました。

モニター越しの子どもと、同じ緊張感を持ちながら授業を成立させることはできるでしょうか。大いに疑問です。

 

先に紹介した某大学付属校の報道で、A先生「国語や算数は毎日やったほうがいいね」B先生「社会はむずかしいな」といった内容の会話がありました。

今後、リモート授業が一般化していく過程において、教科による適否ではなく授業内容による適否の議論が深まることを期待します。

 

いやいや、リモート授業が一般化するころには、私の言う「真剣勝負」の授業など「化石」になっているのかもしれません。