教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

大丈夫か?学校!授業!②

教育の本質と教師の本分

 

4月の異動で、ひとりの後輩が教室を離れました。

それは「唐突」な報せでした。

 

私は教師の「職人」性に惹かれてヒラであることを通しました。自分の生き方を人に押しつけるつもりは毛頭ありません。ただ、その後輩は私と同じような生き方をする雰囲気を醸していました。コロナ禍で疎遠になる前までは…。

 

「唐突」のわけを問うてみました。

彼の口からは、意外な答えが返ってきました。

括っていえば無力感、失望感が教室を離れる選択を後押ししたようです。

 

彼は40代後半です。

その後、50代の人たちにも聞いてみました。

教室を離れるかどうかは別にして、無力感、失望感ということでは同様の思いを抱いているようです。

 

「ベテラン」と呼ばれる人たち(多数なのか一部なのかは分かりませんが)を覆っている無力感、失望感の正体はなんでしょう。

 

共通して言われたのは、「子どもをだいじにしていない」ということと「ICT研修ばかり」ということでした。問題が2つあるというよりも、どうやらコインのオモテとウラの関係です。

 

ことの起こりは、「GIGAスクール構想」にあります。

子どもたちにタブレット端末が配られ、コロナ禍によるオンライン授業もあって、教室のICT化が加速度的に進みました。

この2年あまり、教師たちはその対応に追われ続けてきました。

対応の第1段階は機器の操作を習得することで、第2段階は授業に組み入れることです。とりあえず使える状態になるには、第2段階までをクリアしなくてはなりません。

 

多くの年配教師が、第1段階で躊躇し、停滞しました。

「現職研修」と呼ばれる職場研修の多くを、ICT対応に充てることになります。研修をリードしたのは、30代から40代前半の教師でした。

 

私の経験からも、30代後半からの10年あまりは、職業人生でもっともエネルギッシュで充実した時期だと思います。

ですから、30代から40代前半の教師が研修をリードしたことは、問題ではありません。

 

問題は、それまでの教育との連続性の断絶にあります。

「ベテラン」教師が「子どもをだいじにしていない」と感じているのは、そこにあります。

事例研修を含めた子どもの見方であったり、課題のある子どもを焦点化した授業観察であったり、人権意識を高める研修であったり……子どもを真ん中に置いた研修は姿を消しました。限られた研修時間ですから、ICT研修に注力すれば当然の結果です。

 

ICT対応に長けた教師が評価され、その一方で「ベテラン」教師がだいじにしてきたものが消えていくように思える。自分のアイデンティティーが揺らぎ、存在する場所がないと感じる。……無力感、失望感です。

 

 

新採用から間もない、それはまさにICT研修の落とし子のような経験年数の浅い教師の話になります。

 

低学年担任のその教師は、デジタル化した教材を用い、デジタル化した「板書」を使って授業を進めていました。

1時間の授業のまとめをする段になって、「デジタル板書」を提示して言いました。

「はい、きょうのまとめです。写しましょう。」

 

えっ⁉ それだけ⁉

少しでも低学年の教室を知っている方なら、「それは高学年のやり方だろ」と驚かれたでしょう。

低学年の授業では、それも学年初めならなおさらに、子どもたちを黒板に注目させてから、子どもの筆記速度に合わせて発語しながら板書する。あるいは、文節区切りで子どもの視写を確認しながら板書する。……などの手立てを講じるのが普通です。(そうしないと書き写せない子が何人もいるものです。実際この教室では何も書かずに終わる子が出てくるのですが…。)

 

多くは書きませんが、一事が万事です。

 

先輩から後輩に当たり前のこととして伝えられてきた教育技術や子どもへの接し方が途絶えています。

 

個々の教師の「教師力」の低下や総体としての学校の「教育力」の低下は、私が退職する少し前頃から気になっていました。

それは、団塊世代と呼ばれる人たちの大量退職が始まって、職場にモデルとなる先輩層が薄くなったことが主因でした。

加えていま起こっているのは、「視点」の移動です。

「視点」…つまり、だいじにするものがデジタル(ICT)に移り、授業交流をしても先輩教師のあり方にでなくICTに意識がいってしまっているのでしょう。

 

 

冒頭に書いた後輩教師が言いました。

「先生がいてくださったら、職場は違ったものになっていただろうと思います。」と。

現実にはあり得ないことですし、もともと私にはそれほどの力はありません。流れに抗して説得力ある発言をするには、それなりの理論と実践力と覚悟が要ります。

アバターの声です。

「デジタル機器は教育のためのツールの1つに過ぎません。ツールは子どもにわかりやすい授業をするためのものであり、ツールを使うこと自体が目的ではありません。

教員の使命は子どもに分かる授業を届けることです。そこには教師の話し方、子どもへの声のかけ方、教材研究等々、いくつもの要素が含まれています。

ICT教育はこれまで『人力』でやっていたことの多くを短時間で処理し、科学的に分析し、可視化してくれる可能性があります。強力なツールではありますが、ツール以上のものではありません。

教育力の根っこには『教師力』がなくてはなりません。『教師力』を磨いた教師が使うことで、ツールはツール本来の力を生かせるのです。」