教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

教育の中立性という虚構

中立性のものさし

 

ものさしがあります。真ん中に「0」、そこから左右にそれぞれ「1・2・3・4・5」のメモリがついています。

これが「中立性のものさし」です。

 

このものさしを使って、「教育の中立性」を測ります。

 

目に見える具体物の測定は、ものさしをその物に当てることで達成できます。

「教育の中立性」は、実体として見ることのできない抽象物です。問題が2つあります。1つは、中点「0」がどこにあるのかという問題です。もう1つは、尺度「1・2・3・4・5」の基準は何かという問題です。

 

大胆な仮定ですが、「左5」を「極左教育」、「右5」を「極右教育」、両者の中間を中点「0」と定義します。

中点付近で教育活動が行われているとき、「教育の中立性が保たれている」ということになります。

そして、中点から左もしくは右に大きく離れた教育活動は、いわゆる「偏向教育」と言われるものです。

 

 

中立性ものさしの「支点」

 

さて、現実社会の話に戻ります。

 

現実社会を客観的に俯瞰する「目」があれば、中点「0」は公平性を担保されることになります。その「0」をてんびんの「支点」にしてものさしが水平に保たれていれば、教育の中立性が保たれているということです。

 

現実社会の現実には、「客観的に俯瞰する『目』」はありません。

 

では、だれが天秤の「支点」を定めているのでしょう。

文部科学省、文科大臣でしょうか。

総理大臣でしょうか。

世論でしょうか。

学校長でしょうか。

個々の教師でしょうか。

 

天秤の「支点」を定めているのは、ときの政治権力(つまり、今は自民党やその支持者)とその意を受けた文部官僚と考えるのが、歴史の事実から見て妥当でしょう。

 

自民党という巨大政党は幅が広く、先のものさしで言えば「0」から「右3」あたりを「中点」と考える人たちの集まりとみることができます。最近は「右傾化」が言われていますので、「右2」が中点つまり天秤の支点になっていると考えられます。

 

たとえば、森友問題で明るみに出た籠池さんの幼稚園の教育は、教育勅語を崇拝するものでした。それは社会の「普通」からすればずいぶん右に偏った、「右5」あたりの教育観でした。そのとき天秤の支点にいた人たちは、「教育勅語のすべてを否定するものではない」「教育勅語には現代に生かすべき内容も多くある」と、決して否定的ではない反応を示しました。「右2」の支点からは「右5」の教育は比較的近しいということです。

 

ついでながら、「偏向教育」について。

 

「偏向教育」は、天秤の支点から遠く離れた教育活動に付される言葉です。厳密に言うと、日本の政治的現実においては、「支点」の教育観をもつ人たちがそれよりも左に位置する教育に対して使われる言葉です。籠池さんの例のような右に位置するものに使われることは寡聞にして知りません。

 

「偏向教育」と言えば、かつて(1980年代はじめ)某政党が教科書攻撃の大キャンペーンを行ったことがあります。多くの国語教材がやり玉に挙がりました。

「おおきなかぶ」は、ロシア民話であることや大きなものに力を合わせるストーリーが気に入らなかったようです。

「おかあさんの木」や「一つの花」は、反戦的であるというのが問題理由。

「かさこじぞう」は「ひどく暗い貧乏物語」であるとして問題に。

木下順二の「夕鶴」は、「資本主義社会へのえん曲な皮肉」を表現した作品とされました。
「偏向」とする基準として、反社会主義共産主義)、反平和主義という明確な政治的意図が読み取れます。乱暴で的外れな攻撃だと思いますが…。

 

 

教育の中立性という虚構

 

教育も政治も「人為」です。人の為すことに客観的「中点」など存在しません。したがって中立の教育活動など、主観的にそう思い込んでいることはあっても、客観的にはあり得ません。

 

「教育の中立性」などというのは政治用語であり、虚構です。

 

戦後日本の現実は、一貫して「0」よりもいくらか右に天秤の支点があり続けています。そして今、その支点がわずかずつ右に移動しています。

支点がわずかに動けば、あるものはそれまで「普通」であったものが「偏った」ものになり、あるものはそれまで「偏った」ものであったものが「普通」になるのです。