教育逍遙 -小学校教育の小径をそぞろ歩き-

小学校教員として歩んできた小径が、若い仲間のみなさんの道標になることを願って…。

「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する⑤

 「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④で紹介した講演の続きです。

 

 

反戦反核・反差別
21世紀につなぐヒロシマからのメッセージ

 

                下 原 隆 資 さ ん(元・被爆教職員の会)

 

■育ったところの言葉で話す

 

 「戦後80年」に紡ぎ継ぐ その3・被爆体験を記録する④

 

■原爆の死者の数


 自己紹介を兼ねて、つぎ話さしていただきたいんですが、私は中学校3年生の時に、15歳で、1.5kmのところで屋内で被爆しました。もし屋外だったら生きておりません。と言いますのは、1.5km前後のところでしたら、直接原爆にあったら耳や顔がとけてしまいます。前から受けたら目も見えませんね。夏ですから薄いシャツを着とったとします。その上からやけどをしたらですね、手の皮がとけて全部ぶらさがるんです。


 広島に行かれた人は資料館の人形を見てほしいんです。わかると思いますが、あの人形は手の皮をぶら下げています。あれでだいたい1.5kmぐらいです。もちろん着とるものには全部火がつきます。だからほとんどの人が裸で逃げます。ただ、資料館の人形には裸では置けませんから、女性の人形ですから、着るものは着てます。着るものに火がつかなかったのは2km以上です。私は1.5kmですから、もし屋外におったとしたら、こうやってしゃべってなかったと思います。ただときには1kmぐらいのところで屋外におって助かった人が、私の知っとる人に一人おるんです。本人も不思議がっとります。中におった人も死んだんですよ。その人はちょっとやけどしただけ。どうしてか分からない。で、「いっぺん調べてみよう。そこにおったところに行きなさい」。そのときと地形がかわったんですが、ここに木があって、ここになにがあって‥‥‥。そうやっていったらその延長上に1本の電柱があったんですよ。その人だけが電柱の陰になっていたんですね。だから1kmのところでも助かっとるんです。これは一種の奇跡です。そういうこともありますけど、まず1.5kmのところでは助かってないだろうと思います。


 私の体験については、話せなかったんですよ。大学を卒業して、私は地元の中学校の教員になりました。理由はよそには行きたくなかったんです。そうでしょう。よその県なんかに行ったら「原爆にあったやつはあっちへ行け」ですから。「どこも就職せんわ」言うとったら、その当時は運よく先生が足りない時代で、広島の教育学部ですから、「おまえ地元の中学校の先生せえや」「ほんじゃしますよ」。地元はよかったです。生徒もみんな知っとりますから。


 なってみて家庭訪問をしてびっくりしたのは、私の受け持っとる生徒の3分の1以上の家族のだれかが、広島で死んどるんですよ。兄さんや姉さんが広島に出とる。あるいは一番運が悪いなというのは、お父さんが兵隊で広島におって、それに面会にお母さんが行っとって死んどるんですよ。しかも、広島で死んだ人で、死んだんが確認できたという人は0なんです。広島に原爆が落ちました。すぐ探しに入れないんですよ。広島は全部火事です。せいぜい最初に入れたのが3日後なんです。3日後にはわかりませんよ。だから分かるのは、この子のお父さんとお母さんは原爆で死んだ。どこでどうなって死んだのかは分かりもしない。「後はよう知っとるだろうから話をしてやってくれ」いう希望が出たわけですね。


 だから学級で話をしました。1週間に1時間ずつホームルームがあるんです。その時間に広島のことを話をしたんです。ただしこれは広島の様子を話をしました。その話の中身を言いますと、例えば広島に原子爆弾が落ちて、どれだけ、どうなって死んだかは分かりませんが、とにかく調べようということで、戦争が終わったときに、帰らない人を届け出てくださいという紙が配られました。それで届けに行きました。その届けられた人の総合計が137000人と出たんです。


 今でも一般的に広島では原子爆弾が落ちたときに死んだ数を137000人だといわれますけれども、これは少し間違いです。理由を言いますと、今平和公園になっとりますが爆心地です。そこにおった人は全部死んだんです。だだそこの住民で、運よくよそへ旅行か、あるいは出ておった人のおったところでは分かります。生き残ったから届けます。ところが全滅した家は届けてないんです。だから今だって広島市では、死んでおるのに届けてないんで生きとることになっとる人もおるんです。ですから届けてない人も入れると137000人よりも多いわけですね。


 さらにその後、けがもなにもしてない人が原爆症で死んでいきます。少したくさん放射能を浴びていると、身体の内臓がこわれているわけですから、多くは紫色の斑点が体中に出てきます。はじめこの人は何だろうかと言うとったんですが、だいだい6時間ぐらいで死んでいきます。長生きした人で2日以上おった人もいますが、そうやってどんどん死んでいったんですね。また白血球が、リンパ球がありません。他の病気になってもばたばたと死にます。もう病気になったら絶対助かりません。少しして、たくさん死んだからもういっぺん調べてみよう。調べた結果が7万人以上死んどったんですね。放射能のせいです。


 現在は広島の原爆で死んだのは20万人以上だと、137000人+70000人という数字が出ております。ただこれはですね、かなりまだ多いはずです。例えば広島に第5師団というのがありました。そこにおった兵隊は全滅しとります。爆心地に近いので。ところがこの人たちは、自分のところに連絡がないか言いますと、戦死と言うております。原爆で死んだんじゃない。戦死の公報が行っとります。こういう人たちは数字に入ってないんですね。ですから20万人以上。


 次に原爆の爆心地のすぐ下の人は全部消えております。


 資料館に消えた跡があります。石段が置いてあるんですが、落ちたところから280m東の電車の線路の通りの銀行の入り口なんです。そこに一人の人が座って銀行があくのを待っておって、そこで原爆にあって、その人は消えとるんですよ。実は座っとったのを見た人がおります。電車の中で見たんですよ。名前は判っとる。おちさんというんですよ。実は私と同じところの人だったんです。「見や。おちさんじゃ。銀行あくの待っとるわ」言うて、電車は南へ行きました。もう港の近くまで来て原子爆弾にあったんで、その人は助かって帰っとります。すぐ家に知らせに行ったんです。そこには私よりも2級上の娘さんがおったんです。「あんたのお母さん、あそこ座っとったよ」。すぐは捜しに来れんでしょう。やっと3日目に広島の中へ入って、もちろん歩いて行きます。3kmぐらい歩いて、そこへたどり着いてみたらお母さんの姿はなかったんです。真っ黒になって死んどるだろうと思って行ったんですけど、きれいに消えとったんです。ただまわりの石が、黒い石ですが、その黒い部分は熱を吸収してとけております。だからまわりは真っ白い石になっとります。ただ座っとったところが、その人が消えたかわりに石が焼けてないから黒いです。人影の石と言うとったんです。銀行はそのまま使ったんです。そこは歩いてよかったんです。ところがそこは歩く人が一人もいないですね。まわりは歩きますよ。この銀行を建て替えるときに、そこの石段だけを資料館に持って来て置いてあります。


 おちさんが、私の2級上ですからもう70を越えとるんですが、3年前ですね、私のお母さんがおったんじゃから言うて申し込みをしたんですね。実はその前に、そこへ移すときに申し込みをしたそうです。私のお母さんが座っとったんじゃから返してください言うたらですね、いやそれは無理ですよ。証拠がない。そりゃそうですね。消えた証拠がないんですよ。それで3年前に、70に私は近いし残念だというので、みんなでもっていこうや言うて市役所に行ったら、一応そういう申し込みがあったということを書いてくれました。


 ドームの近くにいた人はみんな消えとります。少し離れた人は真っ黒な炭になって死んだんです。立ったら立ったまま、座ったら座ったまま、人間の炭ができたんです。


 さてもう少し離れておったらですね、前を向いとった人は目がやられて逃げられませんよ。ところが横や後ろの人はとにかく逃げなきゃいかんです。逃げる途中でみなバタバタ倒れていきました。結局広島中でですね、7万人の人たちが立って死んでおったわけです。もちろん顔なんか、耳や鼻はとけております。そんな人が散らばっとったんです。この人たちは腐っていきます。3日もたったら腐っていくし、ウジがわくんですよ。ハエがいっぱいたかります。それを周辺から焼きに来たんです。もちろん焼くものはありませんから、各広場に1日中死んだ人を引っ張って来て、山のように積んどいて、夕方重油を配ってもろて、重油をかけては一晩中焼いて骨にしたんです。大きい骨はその広場に山のように積んどきました。焼いたら一所に積むんです。次によそで焼いたら積むんです。


 実はその広場というのは学校の運動場です。2学期から勉強が始まったわけです。と言いますのは、広島では小学校の生徒は3年生以上は学童疎開で田舎に住んでおって助かったんです。だから帰って来ました。ただ残念ながら何千人もの親のない子ができました。これを原爆孤児とよんだんです。ですが、帰って来たら勉強始めます。ただし学校がありませんから運動場で勉強したんです。当時青空教室と呼んだんです。こんな箱を一つかついでいくんですね。教科書と。運動場に座って、箱の上で本を開いてやります。ところが目の前には骨が山のようにあって勉強できません。ならどうすりゃいう話になって、結局平和公園の、今供養塔があります。その前の広場に集めているのがあって、積んであったので、あそこへもって行こう、あれは学校じゃないいうんで、そこへ全部持って行ったんですね。骨いっぱい山のようになりました。これを地下室を掘って、そこの中へその骨を全部収容したんです。そのときに調査団が来て7万人以上の骨だ。ということは住んでおった人は7万人と。

                          (つづく)